【読書エッセイ】第二話 小さな左手

文字数 2,449文字




  「となりの暮らし」  青戸しの 


朝、目が覚めてぐうっとお腹が鳴ったら「今日はいい日になるな」と予感する。
黄身がとろとろの目玉焼きは見ただけで元気が湧いてくるし、蜂蜜をひと匙舐めると夜はぐっすり眠れる。
勘違いされたら困るので、念のため伝えておくが、私の食生活は決して褒められたものでは無い。
パンにはバターもジャムも塗って食べるし、好物はウインナー丼(しかも醬油とマヨネーズで炒めたやつ)だ。
カロリーとか健康うんぬんは、しっかり運動しているので多分問題ない。
大切なのは、美味しいと思えるかどうか。 
今日も生きて、お腹がすくかどうか。

真下みこと『かごいっぱいに詰め込んで』
新型コロナウイルスの影響により、世間では一気に機械化が進んだ。
そんな中、セルフレジに対応できない高齢者向けに設けられたのが、『おしゃべりレジ』だ。
家族とするような、たわいもない会話を重ねることで、高齢者の見守りも兼ねているらしい。
本作はそんな『おしゃべりレジ』を舞台に、五つの物語で構成されている。

第二話で登場する流花もそのうちのひとりだ。
彼女の吐きグセは高校生の頃から続いていた。
子供にとって、学校とは世界そのものだ。
無意識に孤立することを恐れ、時には他人を貶めてでも優位に立とうとする。
小学生のときにクラスメイトから「ぶた」と呼ばれ、文字通り世界から迫害された流花は自分を貶めることで居場所を守ろうとした。
あだ名には、社会的、言語的な行動に影響を与える場合があるらしい。
これはおそらく、「他者からつけられたあだ名に自らを寄せていく傾向がある」という意味だろうが、よく考えたらゾッとする話だ。
例えば、姫と呼ばれる子供が、姫のように振る舞うとして、ゴミと呼ばれる子供は、どれほどのトラウマを、その身に抱えるのだろうか。

幼さ故の残酷さも見ていられないが、担任の先生が登場したあたりで、ついに顔を覆った。
(一部の)陽気な先生というのは、何故こうも愚直なのだろう。
子供はバカじゃないし、純粋でもない。
良い子であればあるほど、大人の顔色を窺い、平気で噓をつく。
案の定、お門違いな『仲直り』の後も状況が好転することはなかった。

もう太っていないと、自分でも分かっているのに、流花は吐くことをやめられない。
そして、それについて、私が何かを言う資格はないのだ。
頰に跳ね返る水飛沫の疎ましさを、知っている。
理由は違えど、自分自身を許せない苦しみも、社会から取り残される恐怖も、嫌というほど知っていた。
似ている、と軽々しく言えないのは、流花が単なる登場人物の枠を超えているからだ。 
全話通じて、そこに生きる人々の孤独や暮らしは、私達となにひとつ変わらない。
著者は本当に、優しい視点で世界を見ている。
誰一人、とりこぼすまいと誠実な目で見ている。
あの時、ひとりぼっちの図書室で、本作に出会えていたら、どんなによかっただろう。 
最近めっきり見かけなくなったタピオカとか、チーズタッカルビをお腹いっぱい食べたかった。

心の傷は目に見えない分、誰かに伝えることがとても難しい。
特に流花は、やる気元気高木のせいで「先生に話しても無駄だ」と気づき、そのまま成長してしまった。 
もう何年も、誰にも心のうちを明かさず、過度な食事制限を続け、食べたもののほとんどを吐くという気が狂いそうな生活を続けている。
たった一人で、いつまた「ぶた」と呼ばれるかわからないと、怯えながら。
どれほどの精神力が必要だったろうか。
そもそも力など、とっくに残っていなかったようにも感じる。
そんな彼女が偶然並んだスーパーのレジで「お菓子を美味しいと思って食べたことなんて、なかったです」と言葉にしたのだ。
日向に指先が触れたような、微かな希望を感じて涙が溢れた。
これほど悲しいセリフはないけれど、これほど聞けて良かったと思えるセリフも他にない。

著者の描く『人生』は、私たちのすぐ隣にある。
だからこそ舞台にカフェやバーでなく、スーパーを選んだのかもしれない。
学生も、会社員も、おじさんおばさんも、おじいちゃんもおばあちゃんも、誰もが日々、訪れる場所だから。
 
ふと、表紙に描かれたかごいっぱいの食材が目に入ってぐうっとお腹が鳴った。
クッキーに食パン、ハムにパプリカ。
どれも美味しそうで、何だか笑えてきた。
いつか流花のかごも幸せでいっぱいになるといいな、と心から願う。
未だに、センチメンタルな気分になると「おいしい」を忘れそうになる。
でも、きっともう大丈夫だ。
私は生きのびて、こんなにも優しい物語に出会えたのだから。



青戸しの(あおと・しの)

神奈川県出身・ライター兼モデル。2018年夏から被写体としての活動を始め、自身やカメラマンのSNSに写真がアップされると、そのつかめない表情や雰囲気、かわいさからすぐに話題となり人気が急騰。最大で月間100件以上の撮影依頼の問い合わせがある人気モデルとなり、ポートレートモデルの先駆け的存在として雑誌で特集が組まれるなど業界から注目を浴びた。go!go!vanillas「パラノーマルワンダーワールド」のMVにてヒロイン役を務めるなど演技の活動もする一方で、『小説現代』(講談社)にてミステリー小説の書評連載を務めるほか『ar web』(主婦と生活社)では乙女の憂鬱をテーマに恋愛コラムの連載も担当、映画の感想コメントを提供するなど、ライターとしても活躍の幅を広げている。

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