第11話  この人ーー母が幸せになるくらいならわたしは不幸でいい

文字数 3,167文字

ぜってー出てやんねえ。
そう決めたのはいつだったか。社会人になる少し前、ちょうど1年ほど前からだった気がする。
わたしの口座には2月18日の時点で、90万がある。
出ていこうと思えばいつでも出ていける、この人の無神経で不愉快な言葉に傷つけられることもなくなる。
それでもまだ出てやんねえ。これまでの人生で一番長く見た顔を睨みつけながら、そう思うのだ。

わたしはこの24年間実家暮らしで、父の元家政婦に預けられたりウィークリーマンションを4週間借りたことはあっても、基本的にもうずっと実家にいる。
東京の出版社たちにことごとく振られ、なんとか社会人になれたときも配属希望1位は地元で出した。
手取りで27万でもない限り、地元にいながらにして一人暮らしするのは無意味だよ、と東京で一人暮らしをしていた姉に言われた。
あんたはもっと稼げるようになってから一人暮らししたほうがいいよ、と。
とはいえわたしの会社がどブラックかというとそうでもなくて、手取りは平均的にはあるほうだ。
実家暮らし様様、コロナも相まって、わたしの貯金は今90万ある。一人暮らしだったら今の生活を保ったまま、ここまで貯めることはまず不可能だろう。給料の半分近くが生きていくのに必要な金額で消えてしまうはずだ。

地元は最高だ。
治安もさほど悪くなく(とはいえ性犯罪者は存在するのでクソ)、住むのに最高だと思える環境が整っている。
住みたい街ランキングには必ず載っているのも納得で、都心への便利な交通網はもちろん、駅前には過剰な派手さも目新しさもないちょうどいい店ばかりだし、住んでいる住人もぱっと見普通のファミリー層が圧倒的に多い。
将来自分も子どもを育てるならこういう環境がいい。なにひとつ不便がない。
だから、こんな心地のいい環境をみすみす捨てて、自らの生活の首を絞めるのは愚かだ。

さて突然ですが、人生において赦せないと感じる人間がどれくらいいますか。
わたしはわたしに危害を加えてきた性犯罪者と母が赦せない。計4人。
性犯罪者と母を同列に並べるなよという意見もあるかもしれないが、わたしを傷つけた、ひどく消耗させたという点では彼らは同等に、もしくは母にやや軍配が上がる。

過度に被害者ぶるつもりはないけど、それでも親から受ける暴力や暴言は「ごめんねママもやりすぎたねカッとしちゃっただけで、○○は世界で一番の宝物だから」「お母さんもひとりでここまで育ててくれたんだから感謝しなくちゃいけないよ」では済まされない。
他の誰でもなく、わたしが当事者なのだ。このわたしが。
わたし以外の人間に母への思いをジャッジされるいわれはない。

だけどいろんなことを体よく忘れてしまえる彼女は言う。
「昔のことばっかり覚えてて、ママを嫌いなのはいいけど、過去ばっかり見て。あんたは一生不幸よ」
彼女は冷静に話さないので、文節ごとに激しめのエクスクラメーションマークがついてると思ってもらえればいい。
この言葉はわたしにとってはまじの地雷で、聞き流せばいいとわかっているのに、これを言われるとわたしは律儀にブチ切れてしまう。
わたしの自尊心を長年削りとってきたてめーが言うなよ、ということを都度言ってくださるその無神経さ、自省スキルのなさに、自分の親が同じサル目ヒト科ヒト属のはずなのになぜここまで不愉快な人間なのか泣きたくなる。
世の中にどれだけクソなことを言ってくるクソみたいな人間が溢れていてもいいけど、親だけはせめて対話ができる人であってほしかった。

中学生の頃から彼女の言葉や手をあげられることを明確に苦痛だと感じ始めたけど、金もなく保証人もいないわたしは彼女と暮らすしかなかった。
父親も新しい家庭でいっぱいいっぱいだったし、わたしもその妻と娘とともに暮らすのはしんどかった。

高校生では、大学は絶対一人暮らししてやる、と思いつつも、結局土地や犬や友人や男や、好きなものたちと離れるのが嫌で、これから数百万の奨学金を返していくことも突然踏み入ってしまいそうな貧困も怖くて、ひよったわたしは片道1時間半の大学に通った。

大学生になってからは、父に頼んだ保証人はにべもなく断られ(代わりに元家政婦さんと暮らすように言われた。は??)、家を出たら大学は退学させてやる受かった会社にも押しかけてやると母に脅され(学生課に問い合わせたらわたしが同意してなくても親が無理やり退学させることは可能だと言われた。なんて嫌な仕組みなんだ)、家出をしたときに彼女が書こうと言い出した一人暮らしをさせるという誓約書は守られなかった。
大卒という肩書きをなにがなんでも欲しかったわたしは、結局この女のために将来を犠牲にするのは得策ではないと冷静になってしまって、ずるずるぬくぬくと実家で暮らしてきた。

実際彼女の毎日のやな感じ、「週に一度のリハーサル、月に一度の本番」を除けば、暮らしはしっかり快適なのだ。かわいい犬。おいしいご飯。姉との踊り。月3万だけの家賃以外は趣味に使える金。
いつでもすぐそばにあるような貧困への恐れと、快適さから抜け出せない自堕落な己により今に至る。

ただここ1~2年で、わたしの岩のような態度に彼女は耐え難くなってきているようだ。
わたしの愛する姉が家にいることで母への日々擦り続けている好意の差はより色濃く表れる。
「もう出ていったら? お金もあるし、どこでも好きなところに行けるでしょ、明日にでも出ていって」
なにかにつけ攻撃されている、と感じたであろう瞬間に、彼女は瞬発的にこう言うようになった。お互いの何気ない言葉にもすぐいらっとくるようになった。
普通の、まともな状態じゃない。わたしも彼女も摩耗して、なんかもうよくわかんないけど限界が近いんだろうということだけはわかる。
彼女とふたりで行ったカウンセリングにも、離れて暮らした方がいい、と言われた。娘さんはお母さんが思うより傷ついてます、という言葉に、彼女は唇をかみしめて膝の上を睨んでいた。

わたしが姉のように母を諦めたら、定期公演のようになっているリハーサルも本番もなくなり、彼女は無邪気に「週末は家族で仲良くドライブ♪」とか今まで以上にフェイスブックに投稿するんだろう。我が家は素敵な家族にまた一歩近づくんだろう。

だけどわたしは出ない。
わたしと彼女が離れて暮らすことで適度な距離感が保たれ、距離によって生まれたかりそめの関係性が「次女のご飯が心配なので作り置きを送ってあげたら、とても喜んでくれました♪」に捻じ曲げられてしまうぐらいなら、実家なんて出ない。

わたしに言ったこともしたこともいつもなんでも忘れちゃうお母さん。
数年前からわたしに○○さんと呼ばれているお母さん。
お母さんって呼ばれるような母親になります、と元旦に宣言していたお母さん。

家を出て、クソみたいな過去をなかったことにして、あなたの居心地をよくしてあげたり、いい母親だなんて虚像に浸らせてあげたりしない。
限界まですねかじってやるし、ずっと過去を背負って、クソババアと思いながら、わたしが傷ついていることをずっと忘れさせないでいてやる。あなたが言う一生不幸よ、を飽きるまで続けてやる。

わたしを傷つけておいて向き合うことから逃げる人間を、楽になんてさせてやらない。
一生お母さんなんて呼んでやらない。
あなたが幸せになるくらいならわたしは不幸なままでいい。

★次回は3月22日(月)に公開予定です!

こみやまよも
 春から営業として働くこじらせ女子。
  好きな人は、いくえみ綾とoyumi。
  就活でことごとく出版社に落ちたのを根に持っている。

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