Season 2 第3話「夜桜と移動」

文字数 5,151文字

矢部嵩さんによるホラー掌編『未来図と蜘蛛の巣』。挿絵は唯鬼さんです。

 *

 午後十時になったので行動を開始したが、三人とも着替え終わる頃には十一時近くになっていた。ワンルームの部屋は炬燵とベッドのせいでろくな動線がなく、桃子をよけた初子がごみ箱を蹴り倒していた。
 リュックの中にお酒とおつまみ、ビニール袋とチェックの膝掛け、レジャーシートと軍手とシャベル、撥水加工の黒い布団袋が入っていることをもう一度確認し、ファスナーを苦労して下ろしてリュックを掴み、桃子をまたいで私は玄関に向かった。リュックを置いて自分の靴を履き、立ったまま待っているとテレビとカーペットを消してから遅れて玄関に初子がやってきた。電気を消した初子が何もいわずにリュックの方を背負ったので、私も黙って桃子の死体を背負った。「行こう」
 音を立てずに玄関を出て、人目を避けて裏口からアパートを出た。なるべく暗い場所を選んで遠回りしつつゆっくり進んだ。大通りに出ると通過のトラックで銀色の花弁が舞い上がって、桃子を庇いつつ頭上を見ると、満開の桜が外灯に浮き上がっていた。
 予想したより桃子の死体は軽かったが、実際に歩き出すとあまり遠くには行けないだろうという予感がした。通行人は夜でもそこそこいて、向かってくるランナーをよけなければいけないこともあった。「初子」前が見づらいので先行する初子に声を掛けた。「前を見ていて。建物の影や曲がり角」「何かいるの?」「警官がいないかどうか見てて」
 並木通りに沿うよう歩き閑静な辺りで一大決心をし、一本の桜を選んで私たちは桃子を下ろし、土の上にレジャーシートを広げた。硬さにダイブし靴を投げ出し、少し休んでから私と初子はその場で酒盛りを始めた。ビール片手にピーを食べつつ通行人が切れたタイミングで軍手をはめシャベルで地面を掘り返した。お花見している三人組のふりをして、桜の下に桃子を埋めて帰ろうというのが半日かけて私たちの出した結論だった。
 周囲の様子を窺いながらシートをめくって土を掘り出し、人が来る度シートを戻して二人で一緒に酒を呷った。三月の夜は十分寒く、自販機でホットドリンクを買ったりした。一時間ほどその木の下で私たちは酒盛りと穴掘りとを続けた。寝かせて腰にブランケットを掛けておくとそれだけで桃子は寝ているように見えた。
 幹も枝も太いので下にも空間があると思ったが、やってみると木の根が多くて穴堀りはあまり上手くいかなかった。その内帰宅の会社員に見られたり、男の集団にナンパ風に話しかけられたりした。ナンパが近くをうろうろしてなかなか立ち去りそうにないので、私たちは諦めて荷物をまとめてアパートに引き返すことにした。計画に無理があったということを嘆くように初子が口にして、立案者の意見なので私も同意しておいた。
 寒い夜道を三人移動し、帰りも私が桃子を背負い、割れた額を髪で隠すと桃子は本当に眠っているように見えて、最後に見た彼女もそんな風だったので、夜と夜とが繋がって昼間信じたものの方こそ嘘だったのではないかと思った。三人で飲んだのが昨日の夜、起きると桃子が床の上で死んでいて、段差に頭をぶつけたらしく、風呂場の入口に髪の毛と血がこびりついていた。大学を卒業したての私たちは部屋から死体が出ると就職に影響があるかについての判断が出来ず、通報の仕方を二人で考えた結果、夜を待って桃子を捨てることにしたのだった。
 アパートに戻りそのまま寝こけ、昼過ぎになってだらだら起き出し、二人で一緒にスーパーで買い物をし、私が弁当を作る間初子が桃子の死体を着替えさせた。髪を洗い体を洗い全身を拭いて化粧までさせる初子を見ながら、きっと桃子はこの子に殺されたんだろうということを私は考えていた。桃子のことを誰より好きだったのも、桃子のプエルトリコ行きに最後まで反対していたのも彼女だった。
 おめかし桃子の死体とともに私と初子は公園へ繰り出し、桃子の靴を手に持つ初子は保身に走っているように見えなかった。楽しそうだった。道中人に見られていたが死後硬直が解けた桃子は私には自然な酔っ払いに見えた。時折初子はわざとらしく振り返り、私や桃子に話しかけてきた。「桃子」
 近所で一等大きい公園へ着いたが思ったより公園は植え込みがなく見晴らしがよく、穴掘りしたら丸見えなので死体遺棄には不向きに思えた。違う公園へ移動したがそちらにはほぼ土がなかった。次の公園は真横が民家だった。穴ぼこが掘れて程よく暗い想像上の公園を求めて私たちは夜の中を移動し、いい加減妥協して最初の公園に戻ると付近から人が消えるのをお湯割りを飲みながらひたすら待ち続けた。補助線に沿って土を掘り周径を広げ、互いに土を掛け合いながら交互にシャベルを振るい、一メートル程の擂り鉢が掘れたところで手元の土から夜が明け始め、犬の散歩が始まったので私たちは再びアパートへ逃げ帰った。靴をぶら下げ歩く初子と靴を履けない死んでいる桃子、桃子の冷たさに凍えそうな私はどろどろになって路地を帰った。死んだ桃子はとても冷たく、肌と肌が触れ合わないないよう気を付けながら歩いた。
 何故初子が桃子を持たないのかを考えて、私が桃子を殺したと初子が考えている可能性に思い至った。事故ではなく私が殺したと思っているからこそ巻き添えを恐れて遺棄なんて無茶をいい出したのかも知れなかった。私は桃子を殺していないので初子もそうなら桃子は事故死ということになり、そのことをもし今からでもいえば違う展開はあるだろうかと思った。
 それとも自覚がないだけで本当は私が桃子を殺したのかもしれなかった。最後の晩三人で飲んだ時、未来の不安について話す二人を見ながら一人だけ就職の決まらない私が内心穏やかでなかったのも確かだった。未来の話題が嫌だったことも桃子の笑顔が気障りだったことも、もののはずみで桃子を突き飛ばしてしまったことも事実だし、もしかしたらそのせいで桃子は死んでしまったのかも知れなかった。あの時打ったのは後頭部だし私の責任はけして大きくはない筈だったが、立場が逆でもそう思えるのか、私にはあまり自信がなかった。
 夕方一度公園へ行くと、掘った穴は誰かに埋められてしまっていた。
 汚れた服をまとめて捨てて、二人風呂場で死体を洗った。温めると腐る気がして、シャワーを水にしたら手が痛くなった。桃子の肌は色みがかって指先の皮膚も弛い気がして、梳かす度髪はふつふつ抜けていった。コンシーラーを浮くほど塗って私たちは死相をカバーした。全身の皮膚に血管が浮かび上がっていて、蜘蛛の巣のタイツのようだった。
 ライトアップの時間があって閉門時間のないところ、そういう場所をネットで絞り私と初子は三度出かけた。距離があるので通りでタクシーを拾い、酔っ払いのふりをして乗り込み運転手に行き先を告げた。死体を怪しまれないよう私も初子もちゃんと酒を飲んでいたが、吐かれることを嫌がって運転手が威圧感を出してきた。意識のない桃子を運転手がじろじろ見てくるので、ばれることを恐れて結局私たちは途中下車してしまった。残り何キロか判らない街の真ん中で桃子を背負って私は歩き出した。歩き出してから車に酔ったことに気付いた。
 大丈夫と自分にいい聞かせながら歯を食いしばって歩き、どこか判らない大きい橋を渡り、オレンジの外灯に羽虫が集まっていて、羽虫はそのうち桃子を嗅ぎつけ私の周囲を飛び回るようになった。気分の悪さもピークになって橋の途中で私はしゃがみこんでしまい、何回か大きくえずいた後でその場にお米を戻してしまった。これ以上一歩も進めないような気がした時ふいに桃子を背負う背中が軽くなって、思わず私はげろに手を着いた。
 桃子が生き返ったのかと一瞬錯覚したが、振り返ると桃子の死体を初子が背負って歩き出すところだった。
「つくね」初子が私を呼んだ。「お願い。前を見てて」
 よろよろ歩く初子を見ながら私は一度欄干に乗り出し、胃液を一度川面に吐いて楽になった体で二人を追いかけた。背負われる桃子の腕が前方でぶらぶら揺れていて、呼ばれた気がして私はその手を握った。
 一度ずつ交代して花見スポットについたのは深夜零時を回った頃だった。真暗い闇夜に散りだした白い枝花、誰もいない闇の傾斜をぜえぜえいいながら私たちは進んだ。小高い丘の広場に出ると満天の星と桜が浮かび上がっていた。一本の木の下で初子が桃子を下ろし、膝から崩れ落ちたので私もその場にうつぶせに倒れこんだ。死にかけみたいな呼吸音が暗闇の中に二つ聞こえた。むせ返る花の匂いが辺り一面からしていた。
「生きてる?」
「死ぬかと思った」
「何キロ歩いたんだろう」
「来れるものだね」初子が呻いた。
「明日はどこに行く?」冗談めかして私がいうと笑い声が通り過ぎ、初子が空を見上げたのが判った。
「桜はもうすぐ散ってしまうよ。来週になれば捕まってしまう。いつまでもこんなことしてられない」
「移動すればいい」私はいった。疲労で魂が抜けそうだった。「前線を追おう。一緒に歩こう。船や列車も使おう。暖かくなる場所へ移動し続けよう」寝返り打つと初子が欠伸していて、桃子はまるで眠っているみたいだった。「どこか遠くの離島へ行こう。知らない町の旅館で実話怪談みたいな目に遭おう」「ホラーは我々だろ……」
 眠った私は夢を見た。夢で旅行を計画していて、初子はそこでもうたたねしていて、生きている桃子が私に笑いかけていた。初子の部屋の一人サイズの炬燵をシェアし、私たちは交互に足を伸ばしていた。結局行かなかった卒業旅行の検討中、私たちはまだ桃子を引き留めようともしていて、無防備な桃子は犯罪に巻き込まれるだろうと警告したり、外国では外で寝てると攫われるとか、臓器を抜かれるとか、そういう聞きかじった話で彼女の心を折ろうと試みていた。客死怪談も失踪の都市伝説も彼女の決心を挫くことは出来なくて、費やしたそういう徒労のせいで旅行の計画も流れてしまったのだった。
「考えてる時がいっちゃん幸せだね」桃子がみかんを頬張っていった。「計画はいい。準備は楽しい。準備が私一番楽しい! いつまでも予定が始まらなければいいのにね。いつまでも三人でこんな風にしていたいね」
 声がするので私は目覚め、起きると周囲が人だかりになっていた。二人組や三人組、大勢の老人や家族連れたち、散り際の休日に花見客が集まっているらしく、丘の下まで枝ごとに人が群がっていた。「こんな時期でも人出があるのか」自分を棚に上げて私は呟いた。私たちの隣にも男ばかりのグループがいて、こちらと目が合うとにこにこ笑いかけてきた。
 甘い香りの白い花弁が頭や体に乗っかっていた。私たちがいるのはきっと山桜とかコブシの下だった。丘をもう少し登ると来たのとは違う公園の出口があり、フェンスの向こうに路駐の車たちが見えた。
 私が起こすと初子も起きたので、私はリュックからシートとブランケットを取り出した。桃子を寝かせてブランケットを掛けておき、私たちは丘を上り公園出口のトイレに向かった。
 夢に出て来た桃子の話をすると、初子の反応は予想より冷たかった。
「桃子はそんなことをいわない」道の狭さに初子が肩を寄せてきた。「一人でどこへでも行ってしまう子だったから」
 そんな風にいわれるとそうだなと思えた。
トイレを終えてコンビニに寄り、飲み物とサンドイッチを買って公園に戻ると置いてきた場所に桃子の姿がなかった。私のリュックと初子のブランケット、桃子の靴だけシートに残されていた。
 私と初子は黙ってそれを眺め、しばらくしてから桃子の名を呼び周囲を探し始めた。初子が丘を駆け下りていった。買い物袋を私は地面に放り出した。「桃子」
 声を張り上げ呼びかけながら馬鹿なことをしていると思った。桃子は既に死んでいる以上誰かに彼女は運び出された筈だった。シートのある場所に戻ると木の下にいた男性グループがいなくなっていた。出口に停まっていた車も消えていた。
「誘拐されたの」初子がいった。変な言葉だと聞いていて思った。
 桜の咲く丘の中腹で懐かしい歌を誰かが歌い始め、途方に暮れた私たちはその場に立ち尽くしていた。土混じりのビニール袋が汗をかいてどろどろになっていた。空っぽのレジャーシートが風にめくられ横滑りした。置き去りになっていた桃子の靴が倒れて、白い花びらがその中から零れ落ちた。



本文:矢部嵩
挿絵:唯鬼

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