Season 2 第2話「現在地のゲーム」

文字数 3,932文字

矢部嵩さんによるホラー掌編『未来図と蜘蛛の巣』。挿絵は唯鬼さんです。

 *

 クラスの若草君はいつも朝早く、早朝の窓辺で文庫本を読んでいた。誰より早く登校するので、私が怒られるところも見ていたらしかった。
「どうして門で怒られてたの」
「見ていたの?」笑って私は鞄を置いた。「缶コーヒー、持っていたから」
「缶コーヒー飲んでたの?」
「拾ったの。けど、捨てる場所なくて」
 空き缶拾いの話をすると偉いねといって若草君は瞬きした。私は少し照れくさくなり、小さい頃町内会でごみ拾いがあったこと、自分が鋼缶の担当だったこと、今日一日で終わらせることなく、これからも続けてねと知らないおばさんにいわれたことなどを若草君に向け簡潔に説明した。町を綺麗にしている気はなかったし、ペットボトルもあまり拾わなかった。
「ただルーチンになっちゃっただけ。偉いって程のことはないよ」そういうことを口にして初めて気付いてもらえたことを内心では喜んでいるらしい自分に気付いた。「ただ何となく続けているだけ」
「ただ何となくいい人なんだ」山田さんはと若草君は笑った。「そういうのいいね」
 若草君はフィギュアの選手で、オリンピックを目指しているらしかった。朝練の後登校するので、いつも来るのが早いみたいだった。
「目標シート?」
「そう」紙を一枚若草君が取り出した。「なりたい自分を書いていくんだ。夢のような目標、30年後の目標、10年後の目標、その時自分がどうなってたいか。遠い未来から書き込んでいって、だんだん今に近づけていく。今月自分は何をするのか。今日の自分の課題は何か。順番に全部設定していき、一つずつ順に達成していくんだ」「何のために?」
「人生ってのが一つのかばんでかばんには大きい荷物を先に入れないと駄目なんだ」コーチの受け売りなんだといって若草君は笑っていた。「人の生には限りがあるからすぐにかばんは一杯になる。小さな荷物で溢れる前に大事なものを詰めておくんだ。そうして意識する、今いる場所がどこか。目標まであとどれくらいか。確認しながら一つずつ達成していくんだ」「すごろくみたい」
「そうだね。そう?」若草君は笑った。「このすごろくの素敵なところはさいころじゃなくて自力なとこだね。一つずつしか進めないけど、決めた所へ自分で歩いていける」
 山田さんもやってみないと若草君が差し出した紙は私には何か特別なものに見えた。「何かを続けられる人ならこういうのって向いてると思うよ。何となくでもいい人な山田さんは、目標があれば偉人になれるかも」
そんなにぴんとは来なかったけれど褒められたようで私は嬉しかった。若草君はちゃんとしてるな、同い年なのに未来のことを考えてるんだなと思った。家に帰って机に向かい目標欄に文学賞の名を書いてみてから、自分がそうはなれないことに今更のように私は気が付いた。何年かしてオリンピック選手になった若草君をテレビで見ることしか出来ないのは嫌だなと思いながら、夢のような目標の欄に「ちゃんとした人 誰と一緒に居ても恥ずかしくないような立派な人」となるべく綺麗な字で書き込んだ。
 翌日から目標を行動に反映させていったのだが思ったよりそれは大変なことだった。三十年後偉人になる私は高校では生徒会長、中学校では学級委員長になることを目標にしていて、今月の目標がいじめを一つなくすことだったので悩んだ挙句グループに立ち向かい代わりに自分がいじめの標的にされた。それくらいなら想像通りで実際いじめはなくなったのだが卒業するまで禍根は続き中学の間私は水難と失物に悩まされ続けた。心はつとめて前向きでいたが体が思ったより耐えられなかったらしく学年が変わった頃から全身に吹き出物が出てかゆみと腹痛が続き下痢と共に体重が一月一キロ抜け落ちていった。どんな皮膚でも偉人にはなれるので必要だと思う勉強を頑張ったが、5年後の目標に定めた大学は勉強するほど遠く感じていった。
 高校に入ると悩みがますます増えた。模試の結果が目標に一度も届かなくて勉強における今月の目標が半年間一度も達成できなかった。面談の際担任の先生に進路の候補がどうという風にいわれ、目標のハードルを下げろという意味だと気付いた私は大きい声で抗議していた。「荷物大きい荷物!」幸い担任は生徒会と無縁だったので以後教室では愛想だけよくし生徒会担当の教員と懇意になるよう努め用もないのに上級生のクラスに行って挨拶したりなどもしていた。生徒会選挙では人気者の若草君に応援演説までしてもらったのだが肝心の自分のスピーチが駄目駄目で、壇上に立ち暗記した原稿が頭から飛んだ瞬間果たしてこんなことが自分に向いているのか初めて私は考えることになった。希望者がいなかったので生徒会役員には結局なれたのだが、目標の立て方が間違っているのではないかということ、他人に左右される目標を私が私に決めても意味がないのだということ、これを書くことで一体自分は何を望んでいたのかということを今更ながらに思い悩むようになり、日々の目標も月の課題も果たせないまま翌年生徒会長になり、また一つ私は目標を叶えた。生徒会長になっても成績は上がらず投げ出したい気持ちと最後までやり遂げたいという気持ちの間で引き裂かれそうになり(いじめもこの頃は見て見ぬふりをしていた)、脇目を振らず過去問を見ながら通学していた私はある日落ちている空き缶に気付かず蹴飛ばしてしまい飛び出た中身が人に掛かかって周囲の人から普通に非難された。「見ないふり」「最低な」
「どうして門で怒られてたの」朝の教室で若草君にそう問われうっかりその場で私は泣いてしまった。中学から決めていた大学の学部は募集停止が先日告知されて、似た勉強の出来る学舎は私の頭脳では到底入れない所だった。お前はここで終わりだと誰かにいわれているような気がした。三年前書いて何度となく取り出した目標シートは鞄の中でぼろぼろになってしまっていた。「どこへ行くかは問題じゃないさ行ったところで何をするかが」
「次に行けないよ順番を守れないよ」「もう一度目標を」「大きい荷物は後からじゃもう」「山田さんごめん僕が悪かった。きっとここさえスタートなんだ。ここから全てが始まるのなら今から君はどこへ行きたい?」
「どこにも行きたくない」大粒の涙がこぼれた。「若草君と一緒に居たい」
 若草君と同じ大学を目指した私は一年後受験に失敗した(若草君とは連絡を取れなくなった)。掛けるといって掛けなかった電話、やるといってやらなかったこと、予測した未来から遠ざかる時の暗い感触がその頃私の全身を覆いつくしていた。かばんの中は夢でも目標でもなくかつてはその準備であったもの、塞き止められた未来に繋がる今はもう使わないいらないごみで溢れかえっていた。ごみためと化した計画の中で中学の頃書いた未来図は色褪せ、蜘蛛の巣のような細かい折り目が一面に繁茂していた。
 辿り着けなくなった未来への準備を捨て自分が空っぽだと思えた頃、道端の空き缶がもう一度視界に入るようになった。それと同じくらい自分には価値がないと判ってからもう一度私はそれを拾えるようになった。少しだけそれはいい気分だった。街を綺麗にしているのだと今度は素直に実感出来た。鋼とアルミのメダルによって鞄の中がいっぱいになった頃、数年来鳴らなかった電話がかばんの中にわかに震え出した。「若草君?」
「山田さん? 何年ぶりだろう今どこにいるの」「どこだろう」「心配してたんだよ。よかったら今度会わない」
 予定の合った土曜日に最寄りの駅で待ち合わせして若草君が来なかったので私は震えながら家に帰った。帰る途中で電話があった。「ごめん山田さん」「会いたくなかった?」「そうじゃない。電車が止まってしまってスマホも」「嘘でしょ? からかってたんでしょ? 何年もして掛けてきたのはもう一度面白がろうと」「どうしてそんな」「明るい未来を想像できる? そちらに上手く合流できる? シナリオ通りに何もかも進まないのは私たちの能力に問題があるのかな? それとも最初から私たちのお話は、起きる筈のない勘違いだったのか」「何の話を」「どうして目標なんかがいるの。自分が今いる場所のことなど気にしなければこんな苦しいことなかったのに」
 もう一度私たちは駅で待ち合わせたのだがその日駅へ行くのに何故私は自転車を使ったんだろう? 二人で歩くのに自転車を押す気だったのだろうか? どうして早起きしてバスで行かなかったんだろうか? 何も考えていなかったんだろうか? 車が真横をかすめるような交通量だけ多い狭路で前に落ちていた空き缶を拾おうとよれた私を車がはね飛ばし、次に来たトラックが私の下半身を巻き込んだ時、見ないふりをすれば何もなかったのか、拾おうとしたからこの程度で済んだのだろうかと思った。
「もしもし若草君!」救急車の中で電話を掛けた。「若草君今どこ?」
「山田さん何故来ない」「事故っちゃった。若草君の声が聞こえる」「今どこにいるのサイレンで何も」「ここどこだろう。ねえ若草君私たちもう会えないね」「どうして準備をしておかないんだ。目標、計画、前もって準備を」「若草君はオリンピック出れたの?」「うるさい!」
「中の入った缶みたい!」置いてある足の断面を見て誰かが私のためにこれを拾ってくれたんだと思った。「私たちどこにいるんだろうね。でもいつまでもここにいたいね」



本文:矢部嵩
挿絵:唯鬼

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