第10回 琉球王朝時代の地図をもとに、那覇の古道を辿る
文字数 1,190文字
『日本ときどきアジア 古道歩き』(光文社知恵の森文庫)に収録されている沖縄古道。その海古道が僕のなかで存在感を増してきたのは、東南アジアだった。そこで目にした琉球王国と日本の痕跡は、かつては別の国だったという史実だった。
そんな話を当時、那覇に住んでいた作家の仲村清司氏に話した。
「じゃあ、一緒に歩いてみましょう。那覇にある古道を」
という話になってしまった。
最初に向かったのは、那覇港ターミナルの2階デッキだった。目の前が河口で、そこから奥武山公園の方角に目を細める。
「あそこに木に覆われたこんもりとした小さな島があるでしょ。あれが御物城(おものぐすく)ですよ。琉球王府の倉庫。港に運び込まれたものを、いったんあの島で保管したんです。島だから盗まれにくい。そして左手の国場川を船で遡って首里城に運んだんです」
小島が多い沖縄の地形をうまく使っていたわけだ。
つづいて訪ねたのが上天妃宮だった。門と石垣が、太平洋戦争末期の激しい沖縄戦をかいくぐったように残っていた。ここに建っていたのが天使館だった。中国からやってきた人々が泊まる施設だった。
そのなかに砂糖座と呼ばれる場所があった。薩摩に送る砂糖を精製し、貯蔵した施設だったと伝わっている。
那覇の遺跡歩きの前に、僕らが手にしていたのは、ある琉球王朝時代の地図の複製だった。そこには那覇港周辺が描かれている。そのなかに上天妃宮や薩摩藩の奉行所もあるのだが、それは島のなかだった。琉球王朝は港の近くにある小島を長崎の出島に見立てていた。琉球王朝以外の国からやってきた人は、この島に泊まったのだ。
正確にいうと、この島は砂州で陸地とつながっていた。そこに一本の道がつくられ、首里の王府を結んでいた。琉球王府はこうして外国の勢力を管理しようとしたのだ。そこでもうまく使ったのが島という地形だった。
江戸時代、琉球王朝は薩摩藩の支配下に置かれていたが、王朝としての体面は保っていたことになる。
東南アジア、とくにタイからはじまった琉球王朝をめぐる旅は那覇まで辿り着いた。ここまで20年近くかかっている。
しかし僕のなかでは本土と沖縄の間にあった海古道が空白のままだった。そこでようやく『日本ときどきアジア 古道歩き』での古道につながっていく。長い伏線……。少しわかっていただけただろうか。
下川裕治(しもかわ ゆうじ)
1954年、長野県松本市生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。新聞社勤務を経て独立。アジアを中心に海外を歩き、『12万円で世界を歩く』(朝日新聞社)で作家デビュー。以降、おもにアジア、沖縄をフィールドに、バックパッカースタイルでの旅を書き続けている。『新版「生きづらい日本人」を捨てる』(光文社知恵の森文庫)、『シニアひとり旅 ロシアから東欧・南欧へ』(平凡社新書)、『シニアになって、ひとり旅』(朝日文庫)など著書多数。