プロローグ②

文字数 1,158文字

「お疲れさま」となりのロッカーを開けた大渕君に挨拶(あいさつ)を返した。「どう? 少しは慣れてきた?」
「いやぁ、やっぱり高校野球って独特の熱気がありますよね。グラウンド出るだけで足、(ふる)えます」関西のイントネーションを色濃く感じさせるものの、丁寧(ていねい)な言葉づかいで大渕君が答えた。「でも、雨宮(あめみや)先輩、すごいです。二年目であんなにスムーズに散水できるんやから」
 いまだに「先輩」と呼ばれることに慣れず、少しこそばゆさを感じた。
「俺だって、去年は右も左もわからなくて、膝がくがくだったよ」
「どうやったら、慣れるんですかね」
「経験しかないよね。日々、一生懸命やってたら、気づいたらいつの間にかできるようになってるよ」
 大渕君もタオルを取り、部活を終えた高校生のように、がしがしと荒々しく頭をふいた。俺は大渕君が使っているロッカーをちらっと見た。
 大渕君が入る直前、三月三十一日まで、そのロッカーを使っていたグラウンドキーパーをふと思い出した。
「そこ、使ってた人……」
「ここ……、ですか?」大渕君が、自身のロッカーを指さした。「もしかして、あの……?」
「そう。あの人」
 有名人だ。入れ替わりで入社し、直接の面識のない大渕君も、「あの人」のことを(うわさ)で知っているらしい。
「その人のおかげで、けっこう度胸ついたところはあるかな」
(きら)えられたんですね」大渕君が笑いながらロッカーを閉めた。「勝手なイメージですけど、むっちゃ、こわそうですもん」
「まあ、こわいことは、こわかったんだけど……」タオルをロッカーの扉の内側のフックにかけた。「グラウンドキーパーとして、すごい大事なことを教わったというか、受け取ったというか……」
「雨宮先輩って、東京の人ですよね? そもそも、なんで甲子園のグラウンドキーパーになろう、思うたんですか?」
 そう問われ、天井の蛍光灯を見つめた。俺は「あの人」から受け取ったものを、後輩にもつたえていくことができるだろうか? 自信はない。けれど、言葉にしなければ何もつたわらないことはたしかだと思えた。
「めっちゃ長くなるけどいい?」
「望むところです」大渕君が笑ってうなずく。「大会は、はじまったばっかりですから」
 つい去年のことなのに、はるかむかしのように感じられるのが不思議だった。会社から支給されているキャップをかぶり直し、一つ大きく息を吐いた。
 その瞬間、球場中を揺るがすようなサイレンが、大きく鳴り響いた。
 プロ野球にはない、この試合開始のサイレンの音を聞くと、いよいよ今年もはじまったのだという感慨が強くなる。
 甲子園のグラウンドキーパーになって迎える、二回目の夏が幕を開けた。


→はじめての春①に続く

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み