還暦記念百物語 第7話/嶺里俊介

文字数 2,672文字

『だいたい本当の奇妙な話』『ちょっと奇妙な怖い話』など、ちょっと不思議で奇妙な日常の謎や、読んだ後にじわじわと怖くなる話で人気の嶺里俊介さんによる、tree書下ろし連載第3弾スタート!

今回は還暦を迎えた主人公と学生時代からの仲間が挑む、実録(?)『還暦記念百物語』です!

  第7話 約束の湯


間が空いた。誰も壇上に上がらない。

確かめたら高畠の番だった。彼は中月を病院へ連れて行ったので、次の話が出来なくなったのだ。

「私がやろう」

こんなこともあろうかと、念のため余分に話を用意しておいた。

ゆっくりと壇上へ歩きながら、私は頭の中で話をまとめた。

「話の72、『約束の湯』」


とある温泉郷へ行ったときの話だ。もう35年前の話になる。

聞いたことがあるかもしれないが、山の神さまにお願いしたら温泉が湧いたという有名な温泉郷だ。年末の繁忙へ向けて英気を養う名目の社員旅行だった。

山間の小さな村の温泉宿だが、老舗の旅館だ。夕方に着いて、部屋で一服してから、夕食前のいまのうちにと大浴場に向かった。

併設されている露天風呂で、紅葉を眺めながら湯船に浸かっていたら、少し離れた場所に木立に動く人影があった。しかも複数だ。よく見ると枝葉に隠れて小屋がある。

「あそこも宿の施設ですかね」

私は指さして訊いてみた。同僚たちは首を傾げたが、年配の人が教えてくれた。

「小さいが、温泉棟だよ。こっちの本館とは渡り廊下で行き来できる。あそこには予約制の檜風呂があるんだ。3人から4人しか入れない家族風呂だが、渓流を望んでいるから眺めもいいので人気がある。一時間単位で貸し出しているが、いつも予約でいっぱいだ」

常連客らしい。

「この辺りでは『約束の湯』と呼ばれている。実は発祥の湯でね。湯を授かる礼に、石塚を立てて祀ると山の神さまと約束した場所だよ。だから温泉棟の脇に小さな石塚が設えてある……」

 彼は動く人影を目にして言い淀んだ。

「あの人たちはなにをしてるんですか」

「ここの青年団だよ。最近、酒盛りだか肝試しだか知らないが、祀られている石塚を動かしたり倒したりする不届き者がいるもんで、見回りをしているのさ」

「それは神さまも怒るでしょう」

 私は呆れた。マナー知らず、いや無礼にもほどがある。

「ここだけの話だが……」彼は声を落とした。

「実際に、そんなときは祟りがあるらしい。詳しくは知らんが、『約束の湯』の利用客が奇妙な体験をするそうだ。ここの者は否定してるけどな」

「それは勘弁してほしいですね」

私は大浴場を出た。

受付で貸し切りの檜風呂について訊いてみたら、最終の深夜0時から1時までの時間帯が空いていた。滅多にないと言われて、少し迷ったが予約した。

0時前になり、私は受付に声をかけた。従業員に先導されながら、旅館の端から伸びている渡り廊下を歩いて温泉棟へと向かった。

入り口の上に注連縄が張られている。

神聖な湯らしい。私は気を引き締めつつ注連縄を潜った。

脱衣所で服を脱いで浴室へ入ると、檜の香りが漂っていた。

壁から床から総檜なので見た目にも風情がある。虫除けのためだろうか、窓は嵌め殺しになっている。大きな窓から、夜闇の中にうっすらと木立に囲まれた庭が見えるだけだ。

庭の隅、少し離れた場所に小さな石の塚があった。大浴場で聞いた、神さまを祀っているという石塚らしい。小振りで、ひと抱えもないだろう。ほとんど周囲の闇に溶け込んでいる。

川のせせらぎが聞こえる。空気が澄んでいるので星が多い。

日々の喧騒を忘れてぼんやりと湯に浸かっていたら、ごとごとと外から音が聞こえてきた。

さては不届き者が現れたか。

窓に近づいて石塚を確かめたら、暗くてよく見えないが揺れているようだ。しかし付近に人影はない。影になっている石塚の袂の闇が蠢いている。

庭の暗がりに音だけが響く。

突然、浴室が揺れた。湯船が小さく揺らぐ。

どうやら地震のようだと思ったとき、今度は壁の外に気配があった。ぞぞ、ぞぞ、と擦るような音がする。

なにが起きているのか定かではないが、ここを出るべきだ。

私は足早に浴室を出て、素早く浴衣姿になり、出入り口の扉に手をかけて横に開け――。

開かない。

横に引こうが押そうが、びくとも動かない。そして違和感。

鍵が掛けられているどころではない。まるで壁と一体化しているようだ。普通なら上下に動かしたら手をかけている扉くらいは動いて音を立てるものだが、それすらない。

(……閉じ込められた?)

他に出入り口はないだろうか。そうだ、浴室の窓。あの大きな窓をなんとか開けることはできないものか。

私は浴室へ戻り、湯船の向こう側にある窓に手をかけた。

やはり同じだった。壁に描かれた絵のように窓は一体化している。

どすんと音がした。庭の石塚が倒れたようだ。

周囲の暗がりには誰もいない。

私は混乱した。外界から隔絶された空間に1人閉じ込められたような感覚になった。

再び出入り口へ向かい、扉の前から外へ大声で助けを呼ぼうとしたそのとき、するりと扉が開いた。

「お粗末さまでございました」

旅館の人が深く頭を下げた。ちょうど一時間経っていた。

「大変です! 庭の石塚が倒れました」

二人で庭へ回り込んで確かめたら、小庭の隅に、石塚が砂利の上に横倒しになっていた。

彼は大慌てで本館へと走り出した。

そのあとを追おうとしたとき、私の視界の端を黒い影が過ぎった。

身体を強張らせつつ見回したら、そいつと目が合った。

イノシシだった。それも数頭いる。

私は理解した。黒い影の正体は、供物目当てで石塚に群がったイノシシだ。小庭を囲んでいる柵を抜けて寄ってきたらしい。大型だが身体も暗がりに溶け込む色なので目立たない。人の姿を見かけただけで自分から離れていくほど警戒心が強い動物なので、いままで気づかれなかったのだろう。ふだんは昼行性だが、人目を避けるため夜になって出てきたのだ。冬が近いため気温が下がってきたので、温泉のおかげで暖をとれるこの辺りに棲みついたらしい。

では閉じ込められたのは。あれこそ〝奇妙な体験〟ではないのか。

私は受付の人に声をかけつつ、さりげなく訊いてみた。

「きっと湯にのぼせたのでしょう」

彼は頑なに否定した。

嶺里俊介(みねさと・しゅんすけ)

1964年、東京都生まれ。学習院大学法学部法学科卒業。NTT(現NTT東日本)入社。退社後、執筆活動に入る。2015年、『星宿る虫』で第19回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞し、翌16年にデビュー。その他の著書に『走馬灯症候群』『地棲魚』『地霊都市 東京第24特別区』『霊能者たち』『昭和怪談』などがある。

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