還暦記念百物語 第9話/嶺里俊介
文字数 2,489文字
『だいたい本当の奇妙な話』『ちょっと奇妙な怖い話』など、ちょっと不思議で奇妙な日常の謎や、読んだ後にじわじわと怖くなる話で人気の嶺里俊介さんによる、tree書下ろし連載第3弾スタート!
今回は還暦を迎えた主人公と学生時代からの仲間が挑む、実録(?)『還暦記念百物語』です!
第9話 ルールの代償
蝋燭は残り1本となった。灯が伸び上がり、まるで天井へ手を伸ばしているようだ。
全員の顔に疲労が色濃く浮かんでいる。さすがにこの歳で長時間のイベントはキツイ。誰もが憔悴している。みんな頭痛を感じているらしく、頭やこめかみを指でほぐしている。
「〆は私がやる」
小松原が壇上へ向かった。
中学や高校で民俗学部の部長だった男である。ホラーや怪談話をこよなく愛し、サークル活動に盛り込んだ有名人だ。
「緊張する。すまんが失礼するぞ。一本だけだ、許せ」
彼は胸ポケットからロングサイズの煙草と携帯用の灰皿を取り出した。一本を口に咥え、かちりかちりと電子ライターを鳴らす。
しょうがねえ奴だな、と声が上がる。そんな世代なのだ。
「話の100、『ルールの代償』」
数年前に亡くなったが、民俗学部の顧問だった宇崎先生は当時「教師生活25年」が口癖だった。同じ道を志して、私も教鞭を執って30年以上になった。実に感慨深いよ。
その宇崎先生から聞いた話だ。
誰でも自分に対する縛りっていうかさ、自分ルールってやつがあるよな。子どもの頃に、足をはみ出さないように道路の白線の上を歩いた経験があるだろ。あれだ。普段から意識してなくても、大なり小なり誰でも持ってると思う。
宇崎先生も自分ルールを自分に課していた。なにせ堅物というか、真面目な人だ。教師になったときなんて、旧家の実家で神棚に「生徒の規範となるよう頑張ります」とわざわざ報告しに行くような人だからな。「具体的には」と親族に質されても「無遅刻無欠勤。……いや病気があるか。では無遅刻を心掛けます」と答えて、「そりゃ当たり前だ」と笑われたそうだ。
だがな、どれだけ注意しても悪天候や事故は不可抗力だ。宇崎先生も数年間で3回遅刻したが、その日に限って、生徒が運動部の部活で練習中に大怪我、交通事故や街なかの強盗事件に巻き込まれるなんてことが起こった。
もちろん単なる偶然だ。不幸の因果を考えても気の迷いでしかないが、宇崎先生は思い込みの強い人だ。考え出したら止まらない。
『遅刻したら生徒が不幸になる』。そんな蒙昧な結論に至るのも、さほど時間がかからなかった。
ならば遅刻しそうになったら仮病でもいいから休みをとったらいいじゃないかと思ってしまうが、知っての通り宇崎先生は頑なな正義漢だ。そんなズルは許さない。
しかし逆に言えば『遅刻しない限り、平穏な日になる』ということだ。少なくとも悪いことではないし、日常としては当たり前だ。
このルールを守っている限り、その代償として安寧な日々を送れるが、破られたときは災厄が襲いかかるというわけだ。
先生は一層『遅刻しない』ことを意識するようになった。
それからというもの、先生は以前より30分早く家を出るようになった。電車が止まったときは迷わずタクシーに飛び乗った。ストライキのときは学校近くのホテルに泊まり込んだ。
平穏な日常が戻ってきた。数年間、なにごともない日々が続いた。
「入学おめでとう」「卒業しても元気でな。これからが本番だぞ」
新入生を迎え、卒業していく姿を見送ることが楽しみな年月が重なった。
ある年のこと。担任しているクラスの生徒が入院した。たまに不整脈を起こす子だったので心配していたのだが、若年性狭心症のためバイパス手術となった。
前日は学校の隣駅にあるホテルに泊まることにした。
不安でなかなか寝付けず、ホテルで起きてからも寝惚け眼で初動に時間がかかってしまった。会計にも手間取ったが、それでも時間には余裕があったので安心して駅へと向かった。
途中の交差点で事件が起きた。
信号が青に変わったとき、信号待ちしていた老人に、後ろから来た自転車がぶつかった。老人はその場に倒れて呻き声を上げた。
自転車に乗っていた若い女性は、老人を気にかける様子もなく、倒れたママチャリを起こしてその場を離れようとした。
「おい、あんた。逃げる気か」
「こっちは急いでるの!」
女性は振り向きもせずサドルに跨がった。咄嗟に宇崎先生は荷台を掴んだ。
「逃げるな!」
しばし騒ぎになったが、そこへタイミングよく自転車で通りかかった2人の警察官が駆けつけてきた。パトロール中だったらしい。
「もう! まったく! なんなの!」女性は金切り声を上げた。
「事情を伺います」
警官に話しかけられたが、腕時計の時間を確かめたら、もう駅まで走らないと間に合わない時間になっている。
「すみません、私の連絡先はこちらです。いまは時間がありませんので。急いでいるので失礼しますっ」
先生は警察官へ名刺を渡すなり踵を返した。
だが信号が赤に変わり、信号待ちしていた車が動き出した――。
壇上で、小松原は大きく咳をした。そのせいでもあるまいが、彼の前にあった最後の蝋燭の炎が大きく揺らぎ、消えた。
蝋燭の灯が消える前に、100の話を終えることができなかった。
「間に合わなかった……」
守田の呟きとともに、灯りが消えた部屋のあちこちで嘆息する声が上がった。
「いや、間に合ったよ。……実は危ないところだった。ちょうどその頃、入院していた生徒は苦しみだして、七転八倒していたんだ」
「どうしてお前がそんなこと知っているんだよ」泰丸が訝しむ。
「その生徒は、私だ」
小松原は咥えていた煙草を灰皿に置くと、シャツのボタンを外して胸元を大きく広げた。
その胸には、縦一文字の手術痕があった。
嶺里俊介(みねさと・しゅんすけ)
1964年、東京都生まれ。学習院大学法学部法学科卒業。NTT(現NTT東日本)入社。退社後、執筆活動に入る。2015年、『星宿る虫』で第19回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞し、翌16年にデビュー。その他の著書に『走馬灯症候群』『地棲魚』『地霊都市 東京第24特別区』『霊能者たち』『昭和怪談』などがある。