還暦記念百物語 第5話/嶺里俊介
文字数 1,871文字
『だいたい本当の奇妙な話』『ちょっと奇妙な怖い話』など、ちょっと不思議で奇妙な日常の謎や、読んだ後にじわじわと怖くなる話で人気の嶺里俊介さんによる、tree書下ろし連載第3弾スタート!
今回は還暦を迎えた主人公と学生時代からの仲間が挑む、実録(?)『還暦記念百物語』です!
第5話 液晶の虫
夜半過ぎになり、百物語は中盤に入っている。50話が終わったときに柱時計を確認したら1時35分だった。
設えた100本の蝋燭のうち小ぶりの50本はすべて消えた。溶けた蝋が袂で繋がりはじめて台座のようになっている。
部屋に30人が入っているので空気が重い。トイレ以外は中座しないで最後までいるぞ、と最初はみんな意気込んだが、一服するために談話室へと席を外す者も出てきた。無理もない。10時間ぶっ通しは誰でもキツイ。
「次は俺だ」
次に語り手の席へ座ったのは守田である。彼は紙コップの茶を呷り、「では」と咳払いをした。
「話の51、『液晶の虫』」
ある日の夜。本を読み終えて、さて、ひとっ風呂とホームシステムで湯沸かしを設定しようとしたら、壁のリモコンの液晶が黒い。
まさか故障か。
仕方なく、風呂場のリモコンで直接設定した。リモコンは複数あるので特に不便は感じないため、修理を急ぐ必要もない。
黒い液晶に異物を認めたのは数日後のことだ。
黄色がかった糸くずのような線虫が液晶に入っていた。
生活空間にはいろんな虫がいるので気味悪いとは思わないが、どこから入ったのだろう。ゴキブリではないが、そもそもどんな虫か。このまま成長するのだろうか。
次々と好奇心が湧いてくる。
俺は様子を見ることにした。
さらに数日後、虫は液晶の中で移動していた。しかも少し大きくなっている。
俺は高所恐怖症だが、閉じられた空間もまた苦手だ。開放感がない場所にいるとストレスを感じてしまう。会社員をやっていた時代に新宿の高層ビルのワンフロアの職場を経験しているが、窓が開かない部屋というのは、どうにも閉塞感がある。
作られた場所。作られた空間。水はともかく、空気まで作られている。息が詰まりそうだ。
そんな場所で生きているこの虫はなにも感じないのだろうか。ただ生きるだけなら特に支障ないだろうが、外へ出られないことに本能的な拒否感はないのだろうか。
ないらしい。虫は液晶の中で自由を謳歌し、成長した。
小さな虫にとって、液晶は食べ物になると聞いたことがある。お菓子の家の中にいるようなものだろうか。適度な水分、温度。天敵もいないので、そこは安全で快適な場所なのだ。
虫は蛹になった。狭い液晶の中で、蛹は少しひしゃげていた。
どんな虫が出てくるのか。興味は尽きないところだが、成虫の身体の大きさは液晶の中に耐えられるのか。
数週間後、虫は死んだ。
虫は蛾だった。体長は2センチに満たないが、それでも液晶の中では大きすぎる。薄茶色の羽と鱗粉をまき散らし、虫は液晶の中でぺしゃんこになっていた。
安全で快適な場所は、生き物としての本能すらおかしくするようだ。いままで快適だった生活空間が、成長して変態した身体にも快適だとは限らない。
命に関わるほど危険な場所だと気づけなかったことが、この虫にとって徒になったようだ。
俺は壁からリモコンを外して、ゴミ箱へ放り込んだ。
「なんて虫だったんだ」
壇上から降りて隣に座った守田に、藤ノ宮が訊いた。
「いや、調べなかった」
「それ、イガじゃないか。ウール100パーのコートとかに卵を産む蛾なんだよな。俺の家でもホームシステムの液晶に入ってきたことがあるぞ」
うんうんと村岡が頷く。
「写真を撮っとけば良かったのに」と私。
ぜひ見たかった。私も似たような経験をしているが、どうやら稀有な事例でもないらしい。
「実は俺もそう思ってる。いまでは後悔してるよ。まったく、虫は意外なところまで入ってくるんだよな」
苦笑いを浮かべる守田の襟元でなにかが動いた。
彼は赤いちゃんちゃんこの下に冬用のネルシャツを着ているのだが、緑色の格子柄に紛れて、小さなものが襟に覗いている。
線虫のような小さな虫だった。
そいつは襟の陰から頭を出してなにかを探すように揺らしたが、すぐに中へ潜り込んでしまった。
嶺里俊介(みねさと・しゅんすけ)
1964年、東京都生まれ。学習院大学法学部法学科卒業。NTT(現NTT東日本)入社。退社後、執筆活動に入る。2015年、『星宿る虫』で第19回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞し、翌16年にデビュー。その他の著書に『走馬灯症候群』『地棲魚』『地霊都市 東京第24特別区』『霊能者たち』『昭和怪談』などがある。