『コーチ!  はげまし屋・立花ことりのクライアントファイル』無料試し読み!④

文字数 2,100文字

 それはただのモーニングコールではという気持ちをこらえ、ことりはうなずいた。
 編集プロダクションでライターをしてきたことりには、何を言われてもとりあえずうなずく癖がついている。
 楠木はげまし事務所があるのはマンションを兼ねたペンシルビルの一室である。銀座と有楽町の駅が近くて便利がいいが、線路のそばなので電車が通るたびにかすかに床が揺れる。
 雑然としているのかと思いきや、所長室はきちんと片付いていた。デスクとソファーは黒、おそらくイタリアかどこかのデザイナーのものだろう。テーブルの上には薔薇の生花が飾られている。楠木所長自身も、黒のスーツに身を包んだ、渋谷あたりのガラス張りのオフィスにいそうな中年男である。
 所長室に入る前に通ってきた事務所は狭かった。デスクは四つ。壁際の本棚に本がびっしりと並んでいる以外は、物の少ないオフィスである。はげまし屋などという得体の知れない仕事で、どうやって経営を成り立たせているのか想像もつかない。
「事務所の人数は、全部で何人なんですか?」
 聞いてから、そういえばサイトに顔写真があったということを思い出した。
「コーチはぼくと時村仁政くんのふたり。仁政くんはいい男ですよ。あと事務の羽菜子さん。才能はあると思うんだけど、コーチはやりたくないっていうんだよね。朝とか夜とかに電話しなきゃならないからって。滑舌もちょっと悪いしね。この仕事してるとね、声は大事なんですよ。お客さんにとってはただひとつの生身の情報だから。女性だとね、低すぎるのは聞き取りにくいけど、キンキンするのは嫌でしょ。うちは電話が中心で、直接クライアントと会うことはないから、外見の代わりに声で判断されるわけですよ。立花さん、好きな声優さんいる? 立花さんの声、水樹奈々にちょっと似てるよね。悪くないですね」
「ありがとうございます。こちらは顧客と会わず、顔も知らずに話すということですか?」
「そういう方針だったんだけど、最近はSkypeとかZoomで話したいって人も増えています。ダイエットと筋トレの人は、体見せて自慢したいからね。こっちの情報を知りたがるお客さんもいるし。人を知るときの入り口としてルックスを重視する人って多いの。顔を知らないほうが腹を割って話せると思うんだけど。立花さんは視覚情報と言葉の情報、どっちが優位なタイプですか?」
「言葉──だと思います。もちろんどちらも大事ですが」
「そうだと思ったんだよね。立花さんて文章がいいんですよね。簡潔にしてポジティブで、わかりやすい」
 楠木所長は嬉しそうに持っているタブレットをタップした。おそらくそこにはことりの電子履歴書に添えて出した、四百字の志望動機データがある。
「ありがとうございます」
 文章がいいのは出版業界にいたからである。昔から文章を書くのだけは好きだった。
 ことりの胸がちくりと痛む。
「ツールはお客さんによるんですよ。送るの面倒だから、SNS見て返事欲しいって人もいるし。最近は電話が嫌いで、メールとかLINEだけっていう人も多いからさ、そうなると業務時間外にも連絡が来ることになるんですけど、そういうのはダメですかね。公私混同はしないタイプですか?」
「公私混同はしませんが、仕事としてならやります。プライベートの時間に長い返事を書いたりしなきゃならないものなんでしょうか」
「それはないです。長ければ励ましの効果があるってもんでもないんだよね。よく頑張ったねって言うだけでいいってパターンのほうが多い」
「よく頑張ったね──相手を褒めてあげるんですね」
「褒めてあげる、って言い方はよくないな。上司とか先生じゃないから。成功を一緒に喜ぶっていうほうが近い。同じチームの仲間がうまくいったらこっちも嬉しいもんでしょ。
 たとえばクライアントが減量中で、今週までに二キロ減らすのを目標としていたとする。でも一キロしか減ってなかった。こういうときに立花さんならどうしますか?」
 ことりは少し考えた。
「減っていたなら頑張ったと伝えると思います。でもダイエットって個人差があるし、簡単にいい悪いって言えないんじゃないでしょうか。やりすぎても反動がありそうだし。どうして目標を達成できなかったのか、体調はどうか、そのあたりを聞いて、褒めるべきところは褒め──じゃなくて、一緒に喜ぶ、ダメだったところは計画を立て直す。そういう感じでどうでしょうか」
 楠木は満足そうにうなずいた。
「立花さん、今、聞くって言ったよね。それを言ってほしかったの。褒めるだけでも

⇒この続きは、青木祐子・著『コーチ!  はげまし屋・立花ことりのクライアントファイル』でお楽しみください!

青木祐子(あおき・ゆうこ)
『ぼくのズーマー』が集英社主催2002年度ノベル大賞を受賞し作家デビュー。「これは経費で落ちません! 経理部の森若さん」シリーズがドラマ化、コミック化され人気を博す。『派遣社員あすみの家計簿』も好調!

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