『流星の絆』東野圭吾 冒頭無料公開! 2

文字数 5,250文字



 雨はやんだらしく、タクシーのワイパーは止まっていた。
 国道16号線の短いトンネルを抜け、最初の信号で右折した。少し走ると前方に京急本線の高架橋が見えてきた。そのすぐ手前にパトカーが何台か止まっている。
 萩村信二(はぎむらしんじ)はタクシーから降り、ゆっくりと現場に近づいていった。細い道と交差した四つ角があり、右手前の角に小さな洋食屋がある。住居付きの店舗だ。『アリアケ』と彫られた扉は開け放たれ、警官たちが出入りしていた。
 腕時計を見ると、深夜の三時になろうとしている。さすがに野次馬の姿はないが、店の前にはロープが張られていた。
 萩村は店の前を通り過ぎ、右に曲がった。周囲の様子を観察しておこうと思ったのだ。するとそこに一人の男がいた。傘をゴルフクラブに見立て、素振りをしている。暗くて顔は見えにくかったが、それが誰なのか萩村にはすぐにわかった。最近その人物がゴルフに熱中していることは署でも有名だった。刑事課長に誘われて始めたのがきっかけらしい。似合わない、と陰口を叩いている者が少なくないことは、本人も承知しているはずだった。
 びゅん、と傘を振る音がした。
「ナイスショット」萩村は声をかけた。
 フォロースルーの体勢で静止していた男が、萩村のほうを振り向いた。相変わらず口の周りに無精髭(ぶしょうひげ)を生やしている。
「早かったな」男は傘を下ろした。
柏原(かしわばら)さんこそ早いじゃないですか」
「署にいたんだよ。例の報告書を明日までにまとめろとかいわれてな。だけどちっともはかどらなくてソファで寝てたら、この連絡が入った。たまげて目がさめたぜ」
 柏原はまだ傘を逆さに持ったままだ。黒いコウモリ傘だった。癖になっているらしく、話しながらもゴルフのアプローチショットをするように小さく振っている。傘の柄の先端が、時折地面にコツコツと当たった。
「俺もびっくりしましたよ。まさかこの店で殺しとはね」萩村はそう口に出してから先輩刑事に小声で確認した。「殺し、なんでしょ?」
「たぶんな。マスターと奥さんが一階の部屋で刺されてる。傷が何箇所あるかはわからん。どっちも血まみれだ」
「柏原さん、現場を見たんですか」
「ちらっと見ただけだ。すぐに鑑識が来たし」
「あの夫婦がねえ……」萩村は顔をしかめた。「たしか三日前じゃなかったですか、この店に昼飯を食いに来たのは」
「そうだ。俺はハヤシライスを食った」
「あのハヤシライス、うまかったですもんねえ。あれ、もう食えないのかな。こんなことになるなんて、ほんとに人間の一生ってどうなるかわからないですよねえ」
 萩村は三日前のことを思い出した。ひき逃げ事件の追加捜査で柏原と共に聞き込みをした帰りに、この『アリアケ』で昼食をとったのだ。彼等は常連客だった。安価で量が多く、おまけに旨いのだから、体力が必要な刑事にとってはありがたい店だった。
「この家、子供がいましたよね」萩村は家のほうを見ていった。「たしか、男の子が二人いたはずですよ」
「三人だ」柏原はいった。「一番下に女の子がいる。小学校の六年と四年と一年だ」
「よく知ってますね」
「さっき、会った。といっても、上の息子だけだがな。俺が来た時、家の前に立っていた。警察に電話したのも、その息子だ」
 萩村は記憶を辿った。いつだったか、『アリアケ』で食事をしている時、背の高い少年が外から入ってきたのを覚えている。顔まではさすがに思い出せない。
「話を聞いたんですか」
「一応はな。だけど、県警の連中が来たら、もう一度同じことをしゃべらせることになると思ったから、今は部屋で休ませている」
「部屋って?」
「二階だ」そういって柏原は傘の柄を上に向けた。
 つられるように萩村は上を見た。だがすぐ上には窓がなかった。
「親が殺されて、子供たちは助かったわけですか」
「出かけてたらしい」
「出かけてた? 事件が起きたのは何時頃なんですか」
「たぶん十二時から二時の間だ。子供らが外出している間に殺されたらしい」
「そんな時間に子供だけで外出ですか」
「流星だってさ」
「はあ?」
「ええと」柏原はズボンのポケットから手帳を取り出した。「ペルセウス座流星群ってやつだ。それを見に、ニュータウンの建設地まで行ってたんだってさ」
「へえ、そいつは不幸中の幸いでしたね」
「二階の窓から、親に内緒でこっそり抜け出したそうだ。その時には両親は生きていたと長男はいってる」
 萩村は頷きながら家の裏に回った。裏には細い路地がある。路地に面した裏口の戸が開いていて、中から明かりが漏れていた。鑑識たちの声もかすかに聞こえてくる。
 裏口の手前に物置らしき小屋があった。屋根はトタンだ。萩村は、そこからさらに視線を上げていき、どきりとした。
 二階の窓が開いていて、窓枠に一人の少年が腰掛けていたのだ。少年は下に刑事がいることなど意に介さぬ様子で、じっと夜空を見上げている。
「コウイチ」横から声がした。柏原がそばに立っていた。
 えっ、と萩村は訊いた。
「あの子の名前だ。次男がタイスケで妹がシズナ」手帳を見ながらそういうと柏原はため息をつき、小さく首を振った。「かわいそうにな」
 萩村たちの上司が駆けつけてきたのは、それから間もなくだった。その頃には同僚の刑事も何人か到着していた。上司の指示で、萩村は近所の聞き込みに当たることになったが、柏原は県警本部からやってくる捜査員たちを待つことになった。最初に現場に到着しているうえ、日頃から『アリアケ』を利用していて多少の予備知識があり、死体を発見した子供たちとも面識があるからだった。
「聞き込みったって、こんな時間じゃなあ。起きてる人間のほうが少ないぜ」(やま)()というベテラン刑事がぼやきながら歩きだした。
「まずは、あれから当たってみましょうよ」萩村は遠くに見えるラーメンの屋台を指差した。
 ちょうどその時、県警本部から来たと思われるパトカーが近づいてきた。

 当店自慢のハヤシライス、百年の歴史の味をどうぞ――。
 メニューの表に書かれている文章を見て、功一は何年か前に父の幸博(ゆきひろ)に質問したことを思い出した。うちの店は百年も前から洋食屋なのかと訊いたのだ。
「馬鹿野郎、そんなわけないだろ」タマネギを刻む手を止めることなく幸博はいった。
「でもここに百年の歴史があるって書いてあるぜ」
 歴史、という言葉を学校で習ったばかりだった。
「歴史があるのはハヤシライスのほうだ。おまえは知らんだろうけどな、ハヤシライスってのは日本人が考えた料理なんだ。横須賀っていうと海軍カレーが有名だろ。だけど日本人はやっぱり日本人が作った料理で勝負しなきゃな」
「ふうん。だけどこれ読むと、うちのハヤシライスが百年前に作られたみたいだ」
「みたいなだけだろ。そうだとは書いてないだろ。いいんだよ、客が勝手に勘違いする分にはさ」そういって幸博は、わっはっはと太い腹を揺すって笑った。
 功一たちの父親は、大抵のことについては大雑把(おおざっぱ)な考え方をする人物だった。健康で他人に迷惑をかけさえしなければ、子供たちが何をしようと文句をいうことはなかった。勉強しろとか家の手伝いをしろとかいわれた記憶が功一には全くない。
 商売についても、細かいことを考えるのは苦手だったようだ。功一たちの母親である塔子(とうこ)が、よく子供たちにこぼしていた。
「父さん、商売が下手(へた)なのよねえ。お客さんでさえ、もっと値段を高くしてもいいんじゃないかっていってくれるのに、うちは安くて旨いのが取り柄だからとかいって、威張ってるんだもん。安い材料とか使ってるんならそれでもいいけど、旨い料理を作るのに半端なものは使えないとかいってお金をかけてるんだから、一体何をやってるんだかわかんないわよねえ」
 塔子のこの言葉でもわかるように、大雑把な性格の幸博だが、料理に関しては別だった。素材にも調理法にも徹底的にこだわり、決して妥協はしなかった。
 じつは幸博は二代目だった。彼の父親が『アリアケ』を開いたのだ。小さな店ではあるが、味には定評があり、遠方からやってくる客もたくさんいたらしい。そういう店を引き継ぐ以上、二代目になって味が落ちたといわれるのが、幸博にとっては最も嫌なことのようだった。
「今日の客、親父がやってた頃に来たことがあるらしい。先代に比べて味が辛めだね、なんてぬかしやがった。どんな舌をしてやがるんだ」こんなふうに怒っていたこともある。
 功一は実際に見たことがないが、同業者が味を盗みに来ることもあるという話だった。また、レシピを教えてほしいと正直にいってくる料理人の卵もいるとのことだった。そんなこともすべて塔子から聞いた。
「若い人でねえ、熱心に頼みに来るんだけど、教えるわけにはいかないって父さんはいうの。自分が考案したレシピならまだしも、親父から教わったものだからって。お祖父(じい)さんは誰にも教えずに、父さんだけに伝授したそうよ」
 功一には料理のレシピというものにどれほどの価値があるのか、今ひとつよくわからなかった。ただ、父にとって大切なものの一つであるということだけは認識していた。両親の部屋には小さな仏壇があるのだが、その引き出しに古い大学ノートが入っていることを功一は知っている。幸博は時々、それを引っ張り出してきては、読んだり、時には少し書き加えたりしていた。いうまでもなく、料理の作り方を記したものだった。
 ある時、功一がそれを盗み読みしていると、突然幸博が部屋に入ってきて、彼の頬を叩いた。
「後を継ぐ気があるなら料理は俺が仕込んでやる。コソコソと泥棒みたいな真似をするな」
 功一は歯をくいしばり、泣きだしそうになるのを(こら)えた。すると幸博は、なぜ盗み読みしたのかと訊いてきた。
 誰でも作れるっていわれたから、と功一は答えた。
「誰でも作れる? どういうことだ」
「昨日学校で、作り方がわかればどんなにおいしい料理だって誰にでも作れるって……」
「誰にいわれた?」
「友達だけど」
「それで、作ろうと思ったのか」
 功一は頷いた。
「どこで?」
「友達の家で」
「何を作る気だった」
「……ハヤシライス」
 幸博は舌打ちをした。くだらないことを考えやがって、と吐き捨てた。
 だがしばらくすると彼は立ち上がり、ちょっと来い、と功一にいった。
 厨房(ちゅうぼう)に連れていかれた功一は、父親から包丁を渡された。野菜を切れ、というのだった。
「俺が教えてやる。ハヤシライスの作り方を一から十まで叩き込んでやる。誰にでも作れるかどうかは、その後でおまえが考えろ」
 幸博は店を臨時休業にした。驚いた塔子がやめさせようとしたが、彼は聞かなかった。
「こいつに料理とは何かを教えてやるんだ。口出しするな」
 功一は逃げだしたかったが、そんなことをすると今度は本気で殴られそうな気がした。
 幸博はベースとなるソース作りから始めた。その手順の複雑さ、火加減、味加減の微妙さに功一は目を見張った。父親は毎日このように神経を細かく遣っているのかと思うと、気が遠くなった。
 午前中から始めたというのに、完成する時には外が暗くなっていた。それでも、本当はもっと時間をかけるんだ、と幸博はいった。
「食ってみろ」そういって幸博は、出来たばかりのハヤシライスを功一の前に置いた。
 功一はスプーンですくって食べた。紛れもなく、いつものハヤシライスだった。
 おいしい、と彼はいった。
「どうだ。誰にでも作れると思うか」幸博は訊いた。
 功一はかぶりを振った。
「作れないよ。こんなにおいしいハヤシライスは、作り方がわかってたって誰にも作れない。父さんにしか作れないよ」
 すると幸博は満足気に頷き、笑いながらこういった。
「それがわかったんなら、もう大丈夫だ。おまえにだって作れるさ」
「本当?」
「嘘はいわねえよ。ただしだ」幸博は厳しい顔になって続けた。「友達の家でなんか作るな。ここで作れ。で、作って食わせたら金を取れ。うちのハヤシライスは、ただで食わしてやるものじゃないからな」そういった後、また元の笑顔に戻った。
 当店自慢のハヤシライス、百年の歴史の味をどうぞ――。
 メニューを眺めるうちに、功一の脳裏に様々な思い出が次々に浮かんできた。楽しく、つい笑みを漏らしてしまいそうになる思い出ばかりだ。
 だがどんな思い出も、ひとたびメニューから顔を上げると一瞬のうちに粉々に砕け散ってしまう。客が幸博の料理を楽しむための空間が、険しい顔つきの警官たちによって占拠されている。
「有明功一君、だね」
 声をかけられ、顔を上げた。背広を着た二人の男が立っていた。

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