『コーチ! はげまし屋・立花ことりのクライアントファイル』冒頭試し読み!①
文字数 1,713文字
「──ですから、頑張りましょう?」
ことりはインカムのマイクに向かい、何度目かの同じ言葉を言っている。
頑張りましょうは最後の言葉。言ってはいけない。そうわかってはいるのだが、キキに対してはいいかげん言うべき言葉がない。
『でも、どうしてもうまくいかないんです。今日だって結局、きれいに暮らせたのは十時からの二時間だけです。子どもが起きると部屋は散らかってしまうし、料理をしても邪魔されるし』
「そうなんですか」
『やっと食べさせて、トイレをしている間にもうひとりが泣き出す、振り返るとさっき片付けたおもちゃが外に出ている、片付けている間にもうひとりがトイレに行きたいと言う。やっと寝たから洗い物して、猫にごはんをあげて、洗濯物を入れてアイロンをかけている間に夫が帰ってきて、食事は? って聞くんです。それから慌てて作り始めるんですけど、その間、ずっと散らかりっぱなしで』
「なるほど」
ことりはデスクの上にある黒猫のぬいぐるみを見つめ、あいづちにもならない合いの手を入れた。
こうなるとキキは何を言っても聞かない。ひとりでずっと喋り続ける。
双子の幼児がいるんだから散らかるのは当たり前なのではないか。夫に惣菜かなんかを買ってきてもらって、アイロンなんてかけないで、いっそだらけてしまえばいいのではないか、と言いたくなるが、それはことりの仕事ではない。
そもそも独身のことりは子育ての大変さなど知らないし、アドバイスもできない。カウンセリングならば聞くだけ聞いてやればいいのだが、コーチはとにかく相手を励まさなくてはならない。
キキの達成したい目標はただひとつ、「きちんとした暮らし」だ。
「ふー……」
やっとのことでキキの電話セッション──愚痴を聞くだけとも言う──を終わらせ、ことりは電話を切った。
時計を見ると十五時半。キキの一回のセッションは三十分である。普段ならきっちりと守るのだが、今日は十分過ぎている。
「大変だねえ」
ぬいぐるみを引き出しにしまっていると、向かいにいる仁政が気の抜けた様子で声をかけてきた。
ことりははっとした。仁政は美声である。近くで聞くと聞き惚れてしまうような低くてよく響く声で、それを本人も自覚している。クライアントによって声を使い分けているようだ。
仁政が今日着ているのは量販店のデニムとよれよれのパーカ。コンビニでアルバイトをしている大学生のようだが、声を聞くと、パリッとしたスーツを着た、デキる三十男を想像してしまう。毎日顔をつきあわせていることりでさえそうなのである。
きっと楠木所長は仁政を声で選んだのに違いない。
ことりも面接に来たときに言われたのだ。きみは声がいいからねと。仕事に声が関係あるのかと思ったが、仁政の声を聞いていると理解できる。月に何回も話すなら美声のほうがいいに決まっている。
といってもコーチに女性を指名してくるクライアントもいる。キキもそのうちのひとりである。ことりはそのために雇われることになったのだ。
「はい。キキさん、今日はちょっとナーバスになってて。時間オーバーしたんで、上乗せしてもいいでしょうか」
「いいんじゃない。通話記録書いておいて。さっき新しい仕事入ったんだけど、ことりちゃん頼めるかな」
仁政はデスクのパソコンを眺めながら答え、仕事を振ってきた。
「どんな人ですか」
「二十四歳、派遣社員。転職したいんだって」
「時村さんはやらないんですか?」
「若い女子は俺には不向き。惚れられちゃうから。ことりちゃん、ひきこもりの子を大学合格させたし、こういうのは得意でしょ」
「ひきこもりじゃないですよ。浪人生。予備校に行きたくなくて家で勉強していただけです」
ことりは訂正した。
青木祐子(あおき・ゆうこ)
『ぼくのズーマー』が集英社主催2002年度ノベル大賞を受賞し作家デビュー。「これは経費で落ちません! 経理部の森若さん」シリーズがドラマ化、コミック化され人気を博す。『派遣社員あすみの家計簿』も好調!
ことりはインカムのマイクに向かい、何度目かの同じ言葉を言っている。
頑張りましょうは最後の言葉。言ってはいけない。そうわかってはいるのだが、キキに対してはいいかげん言うべき言葉がない。
『でも、どうしてもうまくいかないんです。今日だって結局、きれいに暮らせたのは十時からの二時間だけです。子どもが起きると部屋は散らかってしまうし、料理をしても邪魔されるし』
「そうなんですか」
『やっと食べさせて、トイレをしている間にもうひとりが泣き出す、振り返るとさっき片付けたおもちゃが外に出ている、片付けている間にもうひとりがトイレに行きたいと言う。やっと寝たから洗い物して、猫にごはんをあげて、洗濯物を入れてアイロンをかけている間に夫が帰ってきて、食事は? って聞くんです。それから慌てて作り始めるんですけど、その間、ずっと散らかりっぱなしで』
「なるほど」
ことりはデスクの上にある黒猫のぬいぐるみを見つめ、あいづちにもならない合いの手を入れた。
こうなるとキキは何を言っても聞かない。ひとりでずっと喋り続ける。
双子の幼児がいるんだから散らかるのは当たり前なのではないか。夫に惣菜かなんかを買ってきてもらって、アイロンなんてかけないで、いっそだらけてしまえばいいのではないか、と言いたくなるが、それはことりの仕事ではない。
そもそも独身のことりは子育ての大変さなど知らないし、アドバイスもできない。カウンセリングならば聞くだけ聞いてやればいいのだが、コーチはとにかく相手を励まさなくてはならない。
キキの達成したい目標はただひとつ、「きちんとした暮らし」だ。
「ふー……」
やっとのことでキキの電話セッション──愚痴を聞くだけとも言う──を終わらせ、ことりは電話を切った。
時計を見ると十五時半。キキの一回のセッションは三十分である。普段ならきっちりと守るのだが、今日は十分過ぎている。
「大変だねえ」
ぬいぐるみを引き出しにしまっていると、向かいにいる仁政が気の抜けた様子で声をかけてきた。
ことりははっとした。仁政は美声である。近くで聞くと聞き惚れてしまうような低くてよく響く声で、それを本人も自覚している。クライアントによって声を使い分けているようだ。
仁政が今日着ているのは量販店のデニムとよれよれのパーカ。コンビニでアルバイトをしている大学生のようだが、声を聞くと、パリッとしたスーツを着た、デキる三十男を想像してしまう。毎日顔をつきあわせていることりでさえそうなのである。
きっと楠木所長は仁政を声で選んだのに違いない。
ことりも面接に来たときに言われたのだ。きみは声がいいからねと。仕事に声が関係あるのかと思ったが、仁政の声を聞いていると理解できる。月に何回も話すなら美声のほうがいいに決まっている。
といってもコーチに女性を指名してくるクライアントもいる。キキもそのうちのひとりである。ことりはそのために雇われることになったのだ。
「はい。キキさん、今日はちょっとナーバスになってて。時間オーバーしたんで、上乗せしてもいいでしょうか」
「いいんじゃない。通話記録書いておいて。さっき新しい仕事入ったんだけど、ことりちゃん頼めるかな」
仁政はデスクのパソコンを眺めながら答え、仕事を振ってきた。
「どんな人ですか」
「二十四歳、派遣社員。転職したいんだって」
「時村さんはやらないんですか?」
「若い女子は俺には不向き。惚れられちゃうから。ことりちゃん、ひきこもりの子を大学合格させたし、こういうのは得意でしょ」
「ひきこもりじゃないですよ。浪人生。予備校に行きたくなくて家で勉強していただけです」
ことりは訂正した。
青木祐子(あおき・ゆうこ)
『ぼくのズーマー』が集英社主催2002年度ノベル大賞を受賞し作家デビュー。「これは経費で落ちません! 経理部の森若さん」シリーズがドラマ化、コミック化され人気を博す。『派遣社員あすみの家計簿』も好調!
