『さざなみのよる』 (木皿泉)

文字数 2,545文字

本を開けば人々の声が聞こえる、知らない世界を垣間見れる。 

本は友だち、人生の伴走者――。

本の森セルバBRANCH岡山店に勤務する現役書店員・横田かおりさんが、「あなたに届けたい!」と強く願う一冊をご紹介!

今回横田さんがお届けする一冊は――

『さざなみのよる』

(木皿泉)

本当に苦しかったとき、私の光になってくれた物語

久しぶりにページをめくった本には、著者直筆の「ガンバルのガ」という文字が記されていて、私の心は激しく揺さぶられた。

物語が刊行されたのと同じ二〇一八年の西日本豪雨で実家が被災し、一階部分の三分の二までが水に浸かった。

たった数日の大雨によって、家族は生活基盤を奪われた。当たり前の日常が壊れていくのを止める術などなかった。


泣き崩れる家族を前に私が支えなければと強く思った。

私も辛いと言うことは、傷を負った人にさらに追い打ちをかけることで、内側に渦巻く負の感情は自らの中に抑え込むしかなかった。

そうして、私は本が読めなくなった。

辛いときこそ、物語の世界に身を浸し、救われてきたのにそれすらできない。

それは私にとって「死」を意味することと同じだった。


今回ご紹介する『さざなみのよる』は、あのとき、泣きながらずっと手に触れていた物語だった。


富士山が間近に見える場所で、亡き両親から受け継いだマーケットストアを家族で営むナスミは、人も物も動かないこの地に学生の頃からうんざりしていた。

中学生での家出は未遂に終わったものの、二十代の半ばに、姉の鷹子に渡された百万円とともに上京する。けれど、病気が発覚したナスミは東京では死ねない、と思った。

「オレ、ナスミの行きたいところについてゆくよ」と言ってくれた夫の日出男とともに、ナスミは生まれた場所で最期を迎えることにした。


ナスミは一人になった病室で、もう目が開けられぬまま、姉の鷹子との幼少期を思い出す。

小学生の時に買ってもらった鉛筆削りを巡るケンカが収まらず、二台に増えても意地の張り合いは続いた。それはやがて、削りカスが溜まるプラスチックのケースを井戸に見立て、どちらの井戸が深いかというケンカに発展した。

投げ込んだ架空の石が、先にぽちゃんと言った方が負けで、要は長生きした方が勝ちだという結論に至ったのに、その言葉をどちらも言わないままだった。

だからこそ、ナスミは最後に「ぽちゃん」と呟いた。それは勝ちも負けもない場所へと旅立つ合図でもあった。


妹の月美は、ナスミが教えてくれた「おんばざらだるまきりくそわか」という全ての人の幸せを願う真言を、夫と義母には唱えたくないと思っていた。けれど、ナスミのガンの転移を知って「ちぃ姉ちゃん」が救われるのなら、嫌いな人の幸せだって願えると思った。

ナスミがこの世を旅立つ直前、「生きとし生けるものっていうのはさ、自分も入っているんだよ」と言ったのは幻想かもしれないが、ナスミが伝えようとしていた真意をようやく月美は理解できたように思えた。

ナスミが死ぬことも、自分が生かされていることも、すべてが「幸せ」なのだと月美は知った。


人を文字にたとえる遊びを始めたのはナスミだった。

楽器のように、感情のままに笑ったり怒ったりするナスミは「ガ」。

無神経で無造作な感じが大地に突き刺さっているみたいだから、夫の日出男は「キ」。

子をなさず自由気ままに生きてきた二人を、ナスミは「ガキ」と名付けた。


ナスミの死は覚悟していたけれど、「ガ」がいなくなった世界で、ナスミの存在が希薄になっていくことに、日出男はただただ途方に暮れる。

ナスミの遺影用の写真を探すうちに見つけた、ナスミの自撮りの動画。

そこにはナスミの姿が変わらずあって、日出男が妻と子どもを得ることで「キッと」いう文字になると告げられていた。

まだまだ生きたいと思っていたはずの時期に撮られた映像は、ナスミが日出男の明るい未来を願っているという何よりの証しだった。


結婚生活がうまく行かず、出戻りの形で三姉妹とともに暮らす叔母の笑子には、卑屈な所があった。姉妹の母の和枝が気を遣って子どもの名づけをお願いした時も、長女の鷹子の次の子は「なすび」だと言いはり、皆を困らせた。

病床の和枝は最後までナスミの心配をしていて、何かあったら渡してほしいと笑子にダイヤモンドの指輪を託していた。ナスミは、最初は受け取らなかった。

東京暮らしの中で金の工面が必要となったナスミは、プラチナでできた指輪の台座を売らざるを得なかった。石だけになったそれを、ナスミは笑子に実家の柱に張り付けて欲しいと頼んでいた。

ダイヤモンドの瞳は、あの世とこの世をつなぐ通路となり、ここからナスミは家族を見守っていく。


ナスミは清廉潔白でその生涯を終えたのではない。

口は悪く強情で、おかしいと思えば上司にだって殴りかかった。

悟りの域に達したのでもない。

でも、ナスミの言葉はこの世の真理と通じていて、“残された”人々が、迷うときや立ち止まってしまうとき、道しるべのようにひときわ明るく輝くものだった。


あれから、私の家族は新しい場所で暮らすことを選択した。

そこに至るまでの過程には「捨てる」という決断と、「選ぶ」という決意が無数に存在していて、再び暮らしを構築することのむずかしさと厳しさに、何度も打ちのめされた。

あらたな生活を謳歌することは叶わぬまま、祖母が逝き、祖父が逝った。

失ったものはあまりに多く、得たもののありがたさを手放しで喜べる境地は、私にはまだ遠い。

けれど、あの経験をいつか言葉にしたいとずっと思っていた。

それは私自身の傷と向き合うと同時に、誰かの傷に触れてしまう危険を孕んだものであったとしても。

それでも今回、私は書くことを選んだ。


真っ暗な闇の中で絶望の淵に立たされた私が『さざなみのよる』という一冊の本に手を伸ばしたことに、意味なんてなかったのかもしれない。

でもあのとき、心が壊れてしまいそうな恐怖に怯えていた私を、掬い上げてくれた本があったことを、私はあなたに伝えたい。


私を救ってくれた物語を、今度は私があなたに届けたい。

横田かおり(よこた・かおり)

1986年岡山県生まれの水瓶座。本の森セルバBRANCH岡山店勤務。担当は文芸書、児童書、学習参考書。1万円選書サービス「ブックカルテ」に参画中。

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