『街とその不確かな壁』 (村上春樹)

文字数 2,939文字

本を開けば人々の声が聞こえる、知らない世界を垣間見れる。 

本は友だち、人生の伴走者――。

本の森セルバBRANCH岡山店に勤務する現役書店員・横田かおりさんが、「あなたに届けたい!」と強く願う一冊をご紹介!

今回横田さんがお届けする一冊は――

『街とその不確かな壁』

(村上春樹)

物語の力を信じる“私たち”に贈られた最愛の一冊

その物語を読んだのは今から十六年前、大学四年生の秋だった。

高校生のときに村上春樹氏の作品に出会って以来、独特な世界観と難解さ、ここが魂の在りかと思うような、心の深い場所が震える読書体験の虜になっていた。


大学時の卒業論文の題材に『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を選んだのは、なぜこんなにも惹かれてしまうのか「分からない」からこその挑戦だった。

この小説は「世界の終り」と「ハードボイルド・ワンダーランド」の世界が交互に展開されていて、「世界の終り」のパートは、一九八〇年に文學界に発表された「街と、その不確かな壁」が基になっている。


今回ご紹介するのは、村上春樹氏の六年ぶりとなる長編小説『街とその不確かな壁』。

タイトルが発表されたとき、私は激しく動揺し、期待と同時に恐怖すら抱いた。

“あの”物語を思い出してしまうのは必然で、私にとって特別な作品になるという予感は、ほどなくして確信へと変わった。


『街とその不確かな壁』は三部構成になっている。

第一部では十六歳の「ぼく」と、十五歳の少女の「きみ」の出会いから別れ。

そして「きみ」に会うために「ぼく」が足を踏み入れた〈高い壁に囲まれた街〉の二つの物語が描かれる。


ぼくと彼女は「高校生エッセイ・コンクール」の表彰式で出会った。ぼくは彼女の文章を、自分が書いたものよりずっと優れていると感じた。

彼女に強く心を惹かれたぼくは、勇気をかき集めて連絡先を渡した。

そこから二人は手紙を交わし、互いの住む街で逢瀬を重ねるようになる。


〈そしてぼくらはやがて二人だけの、特別な秘密の世界を起ち上げ、分かち合うようになった――高い壁に囲まれた不思議な街を〉


その街へと入るためには、「影」を棄てなければならない。

金色に輝く毛並みをもつ単角獣。針のない時計台。南の壁のすぐそばにある溜まり。

街の在り方や仕組みや、その光景。

過去の物語を踏襲しながら、さらに深みを増した描写が「街」をより鮮明に起ち上がらせる。



「ぼく」と「きみ」は、電車で一時間半ばかりをかけて互いの住む街に行き、長い散歩の間にたくさんの言葉を交わした。木陰で抱き合い、密やかに唇を重ねた。

ぼくと彼女は一年近くの間、混じりけもなく心をひとつに結び合わせていた。

きみが語る〈高い壁に囲まれた街〉をぼくは詳細に記録し、特別な秘密の世界を分かち合っていた。


〈何もかもぜんぶ、あなたのものになりたい〉

〈でも急がないでね。わたしの心と身体はいくらか離れているの。少しだけ違うところにある〉

〈ときどき自分がなにかの、誰かの影みたいに思えることがある〉


彼女は自分を誰かの「影」だと語り、本当の自分がいるのは〈高い壁に囲まれた街〉だと話した。

ぼくには、彼女の告白のすべてを受け止め、理解することはできない。

けれど、時が満ちるのを待ち「本当のきみ」に会うために、その街に行くことを誓う。

たとえ、代償として「影」という名の心をなくさねばならずとも。


高い壁に囲まれた街で、ぼくときみは再び出会う。

“私”は古い夢を読み解き、解放する〈夢読み〉となり、そのサポートをするのが“君”の役割だ。夜ごと訪れる小さく古い図書館で、君は私のために薬草茶を用意し、ストーブに火を入れてくれた。

けれど、幼いころに影をなくした君は、「ぼく」と「きみ」が過ごした特別な時間を覚えていないと言う。


街の秘密と、「壁」が意味するもの。

それは、私と影のやりとりを通して暴かれていく。

この街で起こることのすべてを把握し、強大な力をもつ壁。

壁に囲まれ、心をなくした人々の住むこの街を作り上げたのは――。


「影」に死が迫り、私は街に留まるか、「影」とともに現実世界に戻るかの決断を迫られる。


“現実”の世界で、ぼくの前から唐突にきみは姿を消した。

影とのやりとりの果てに、私はこの街に残ることを選ぶ。


しかし、物語はここで終わらなかった。


第二部の舞台は、福島県にある町営図書館へと移る。


〈私は何らかの力によって、ある時点で二つに分かたれてしまったのかもしれない〉

〈ここに戻ってきてから――おそらく私は戻ってきたのだろう〉


四十台半ばになった私は、なぜ決断と反する世界にいるのか分からぬまま、「影」を取り戻したにもかかわらず、どうしようもない「欠落」を抱えている。

やがて「きみ」が不在の“この現実”が自分にそぐわないという違和感から、私は長く勤めた書籍の取次会社を退職する。


長く深く眠る内、不思議な夢を見た。

夢の中で、私は地方都市の小さな図書館で働いている。

中央のテーブルの上にある陶器の花瓶。デスクの隅に置かれた濃い紺色のベレー帽。


まさに夢で見た通りの図書館に辿り着いた私は、導かれるように館長職に就く。

そこで出会ったのは、夢の中で見たベレー帽を被る、いささか変わった風貌の前館長。

ほぼ毎日図書館に来館し、むさぼるようにあらゆる書物を読む、サヴァン症候群の「イエロー・サブマリン」のパーカを着た少年。

駅の近くにあるコーヒーショップで働く「きみ」の記憶が呼び起こされてしまう女性。

「ぼく」の抱える傷と、「きみ」が抱えていた痛みを宿す人々との邂逅はやがて、閉じられたはずの“輪”を否応なく開いていく。

そして、〈高い壁に囲まれた街〉へとふたたび降り立った私は、“少年”に〈夢読み〉の役目を継承することで、「影」との揺るぎない統合を果たしていく。


「街と、その不確かな壁」から始まり、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、そして『街とその不確かな壁』へと深化した物語は、想像をはるかに超えた境地を私に見せてくれた。

村上春樹氏の新たな作品がこの先読めなくとも、生涯をかけて読み解いていくべきテキストは、十分すぎるほどに渡されたと心から思う。


物語の中で繰り返し提示され、私の心を震わせた大いなる示唆や、メタファーに擬態した多くの真実。そのすべてを読み解くことはできそうにもないが、魂に刻まれた物語と、私はいつか懐かしい場所へと還る。


今回、この物語を届けたい“あなた”は、いつも以上に限定的な意味をもつ。

物語を読み解き自らの中に落とし込んでいく作業は、多くの時間を読書に割いた経験が必要とされる。

また、心の深い部分、魂にまで到達する物語と対峙することは、自らの中にある〈高い壁に囲まれた街〉へと踏み入る覚悟が読み手にも要求される。

魂の救済は、痛みなくして訪れることはない。


けれど、ヴィークル(乗り物)としての“物語”の意義を深く理解し、こよなく愛するあなたに、どうかこの物語が届いてほしいと願う。


これは、物語の力を信じ続けてきた“私たち”に贈られた、唯一無二のものだ。

横田かおり(よこた・かおり)

1986年岡山県生まれの水瓶座。本の森セルバBRANCH岡山店勤務。担当は文芸書、児童書、学習参考書。1万円選書サービス「ブックカルテ」に参画中。

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