『愛されなくても別に』武田綾乃

文字数 2,075文字

本を開けば人々の声が聞こえる、知らない世界を垣間見れる。 

本は友だち、人生の伴走者――。

本の森セルバ岡山店に勤務する現役書店員・横田かおりさんが、「あなたに届けたい!」と強く願う一冊をご紹介!

今回横田さんがお届けする一冊は――

『愛されなくても別に』

(武田綾乃)

〈暴力を振るわれたことはないし、母から愛されていないわけでもない。

私を苦しめるものが、もっと分かりやすい不幸ならよかったのに。〉


物語の中で出会った一節に、上手く息ができなくなった。

長らく私が抱えてきた感情が、たったの数行で見事に言い表されていたからだ。

白日の下に晒された秘密は無様で哀れなものだった。

けれど、この小説を読み終わった今の私には、暗く陰鬱な感情でさえも笑い飛ばせそうな気がする。


今回あなたに届けたい一冊は、武田綾乃さんの『愛されなくても別に』だ。


物語の主人公は、大学二年生の宮田陽(ひ)彩(いろ)。

陽彩にとって、きらびやかなキャンパスライフは遥か遠くにある。

母と二人で暮らす彼女は、月八万円という大金を家に入れ、学費も自分で賄っている。

大学に進学をするためには、母に出された理不尽な条件を吞むしかなかった。

奨学金には手を付けないようにしていて、深夜シフトのコンビニでどんなに働いても、そのほとんどは支払いに消える。

母は典型的な毒親で、家事をせず、収入以上の出費もやめられないのに、働いて朝方帰ってきた娘に容赦なく食事の支度をねだる。

母の言う「愛してるわ、陽彩」では到底カバーできない負担が、華奢な身体に圧し掛かっているのに、見捨てることはできない。

母は陽彩を愛しているし、彼女も母を愛している。

それが虚構の上に成り立っているなんて考えたくもない。

しかし、同じ大学に通いアルバイト仲間でもある、二歳年上の江永雅(みやび)と言葉を交わすうちに、陽彩は変わり始めていく。


深夜のコンビニで、リズムに乗って首を振る雅に初めて話しかけたのは、知人にある噂を聞いたからだ。

雅の父は殺人犯で、彼女も相当ヤバイ奴らしい。

陽彩は、雅に興味が湧いた。

陽彩からの直球の質問に涙を流すほど笑った雅は、噂以上の壮絶な過去を話し始めた。

雅は、両親に時間もお金も、性でさえも搾取されてきた。

過去をネタにして消費するのだと言う彼女は、強く明るく、でも突然ポキリと折れそうな脆さがあった。


地べたを這いずるような暮らしであったとしても、陽彩は母との別離を望んでいなかった。しかし、久しぶりに再会した父によって、母の嘘と、どうしようもない狡さを知らされる。

母の情事を目撃してしまった小学生以来、陽彩は芳香剤の安っぽい香りを嗅ぐことで平穏を取り戻そうとしてきた。何も知らない子どもを演じ、母に愛されるためだった。

思考を停止し、心まで麻痺させて、何度母の裏切りを見過ごしてきただろう。

でも、もう限界だった。

陽彩はこのままだと母を殺してしまうと思った。

「家を出る」と電話越しに母に伝えた陽彩は、たまらず雅に電話をかけた。

陽彩の話を笑いながら聞いた彼女は「家、来なよ」と軽やかな声で言ったのだ。


月四万円の家賃で手に入れた二人暮らしは、思いのほか心地が良かった。

家事の負担も、お金の心配も格段に減った。

コタツ机を囲んで二人で食べる食事に、他愛もない会話。

どの部屋にどんな芳香剤を置いてもいいし、デザートにうんと濃くしたカルピスを飲んでもいい。

家族なんて幻想で、愛なんてクソだと悟ってしまった二人の生活には、歪な所もある。

でも、こんな自由を陽彩は初めて知ったのだ。


陽彩と雅の関係を中心に、物語は現代社会を生きる私たちが無関係ではいられない、社会の暗部を容赦なく描き出す。

親という絶対的な立場で子どもを支配し、依存させることは容易い。

無条件に愛してくれるはずの人に、その対価として自分の人生を差し出すしかないなんて、何のために生まれてきたのか分からなくなる。

お金の呪縛から解き放たれることは困難で、居場所をなくした人が縋る場所には、さらなる搾取が待ち構えている。

絶望するのは当然だと思うくらい、この世界はとんでもなく生きづらい。


なのに、暗澹たる気持ちさえ吹き飛ばしてしまう、この爽快感は何だ。

痛みを知る二人が手を取り合うことで、傷は癒され明るい希望の光が差し込みました――

そんなハッピーエンドは安易に語られるはずもない。

けれど、傷を負う少女が出会い、笑い合った時間はどんな瞬間よりも眩く尊く、逞しく生きる二人の姿に思わず胸は熱くなる。

私も、生き延びることができてよかったと、たまらず零れた本音があった。

でないと、こんな物語と出会うことはなかった。


地獄のただ中にいるあなたに、私はこの物語が届いてほしいと願う。

それは、あなた自身の力で、悲劇から脱出することができると物語が叫んでいるから。

あなた自身の選択で、幸せを手にすることができるのだと、物語が信じさせてくれるからだ。

横田かおり(よこた・かおり)

1986年岡山県生まれの水瓶座。本の森セルバ岡山店勤務。担当は文芸書、児童書、学習参考書。1万円選書サービス「ブックカルテ」に参画中。

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