もうひとりの自分とどう向き合う? 本物と偽物の間に聳える壁と人間としての在り方

文字数 5,123文字

いま自分が立っているこの現実を、ふと辛く感じてしまうときはありませんか?

そんなとき、私たちはどう現実の辛さを乗り越えていけばよいのでしょう。力をつけたり我慢したり、知恵を振り絞って辛さを突破したり、解決策を編み出していくことは人生で多々あるはずです。

一方、現実の辛さから逃れるために想像のなかや夢の世界で「もうひとりの自分」をつくりだし、彼/彼女の活躍に想いを巡らせることで、辛さから解き放たれようとしたひともいるのではないでしょうか。

それはともすれば、所詮は妄想だと鼻で笑われたり、もっと現実を見たほうがいいと言われてしまうことなのかもしれません。

でも、ほんとうに妄想だと切り捨ててしまっていいものなのでしょうか?


今回は「もうひとりの自分」をつくりだし、「本物の自分」と「つくりだした自分」の違いを考えていく新人賞受賞作を二作品、紹介していきます。

~第11回~

もうひとりの自分とどう向き合う? 本物と偽物の間に聳える壁と人間としての在り方

市川沙央『ハンチバック』


第128回文學界新人賞の受賞作。


ミオチュブラー・ミオパチーを患い、右肺を押しつぶすかたちで背骨が極度に湾曲している女性、井沢釈華が語り手です。釈華は喉の真ん中に穴を開けて仰臥時には人工呼吸器を必要としながら、両親が遺したグループホームで毎日を生きていました。

しかしあるとき、通信制の大学に通いながらライティングで小銭を稼ぐ変わり映えのない毎日に、大きな事件が訪れます。病院に勤めているヘルパーの田中が、健常者になれない絶望を日々呟いている釈華の裏アカウントを見せつけてきたのです。「普通の人間の女のように子どもを宿して中絶するのが私の夢です」。田中は妊娠と中絶を叶えてあげようと、脅迫に近い形で釈華に現金の取引を持ち掛けます。それは釈華にとって、重度障害者の自らが人間として認められるかの尊厳を賭けた、重大な取引でもありました。


重度障害を抱えている釈華にとって、生きるために必要なものが揃っている施設はもはや小さな社会も同然です。自分の力で歩けず、言葉を喋るのにも一苦労する以上、健常者が生活しているような社会からは完全に遮断されてしまっています。


だとすれば、釈華が健常者の社会に参加して、認められるにはどうすればいいのでしょうか?


真っ先に浮かび上がる答えは「SNS」です。多様な人々がその身体性に関係なく集っているSNSは実際、釈華にとって承認を満たしてくれる場でもありました。「妊娠と中絶がしてみたい」「私の曲がった身体の中で胎児は上手く育たないだろう」「でもたぶん妊娠と中絶までなら普通にできる」と、諦観を滲ませながらも執着を感じさせる呟きの数々は、真に迫る響きを伴って読者に届くようになっています。

ただ、それだけでは社会から認められても、釈華自身が施設を出て、健常者の社会に身を置けるわけではありません。インターネットの世界でしかないSNSと健常者が生きている現実には、身体性の有無を軸に大きな壁が存在します。


そこで釈華がとったもうひとつの手段が、現実を自由に動けるような存在を創り出すことでした。自らが施設から動けないかわりに、自らの実存を委ねた理想の存在、“ワセジョのSちゃん”を創作することで、健常者の自分を現実に顕出させようとするのです。

しかし、“ワセジョのSちゃん”はあくまでも創作にすぎない存在。ハプニングバーで奔放に性行為をする冒頭のシーンも、WordPressの<head></head>に囲まれていて現実を否定されています。ライティングによって自由自在に街を歩かせようと、あるいはR18 サイトでSちゃんの乱交日記を不定期連載しようと、“ワセジョのSちゃん”には現実と創作を隔てる大きな壁が存在します。創作の世界から出られていない以上、本当の意味で社会から認められてはいないのです。


SNSと現実。あるいは創作と現実。

身体に障害を抱えるがゆえ社会から認められず、SNSと創作に依拠するしかない釈華にとって、この二つの壁はあまりに強大なものでした。

そこで釈華は、健常者が生きる社会を自分も生きていくために、この壁を破壊しようと試みます。


その結果が——終盤の展開です。

終盤、この『ハンチバック』の視点人物は体を売っている女子大生、紗花に移ります。パーソナリティの共通点や商社マンとの関係性が酷似していることからして、この紗花と“ワセジョのSちゃん”は同一人物でしょう。そして紗花は一見のお客さんに向かって、「釈華が殺されてしまった物語」を語るのです。

この構造によって、ここまで綴られてきた釈華の物語が空想だったのか、あるいはいま語られている紗花の物語が釈華の創作なのか、一見して混乱させられるようになっていました。


しかしこの混乱は、意図して引き起こされたものでしょう。


なぜなら——現実と創作の境目をあえて混乱させることによって、この二者間にあった壁を打ち壊せるからです。

もしかしたら紗花の視点こそが現実だったのかもしれない、読者にそう一瞬でも思わせた時点で、本来創作の世界から飛び出せないはずだった紗花——釈華にとって“理想の自分”だったワセジョのSちゃんは、現実にいるのだとも肯定されます。

それはすなわち、社会から認められなかった釈華が健常な肉体を手に入れて現実社会で認められる、二つの大きな壁を乗り越えた証左に他なりません。

釈華は創作によって健常者としての自分を産み出し、あえて現実と混合させる(同列に置こうとする)ことで、身体性の壁を突き抜けて社会から認められようとしたのです。

現実にいるのを肯定された証拠として、紗花が生きている世界はもう<head></head>で囲まれてもいません。


実際は釈華のいる世界こそが現実で、創作によってうみだした紗花に自分自身を殺させる(語らせる)ことで、人間としての尊厳を守ろうとしたのでしょう。

しかし同時に釈華は、健常者の紗花を自らの手で孕み、産むことを成し遂げ、人間として生きていこうともしました。

不自由な身体に縛られた狭い病室から、理想の自分を現実社会に送り出そうとする、切実な小説です。

榛名丼『レプリカだって、恋をする。』


第29回電撃大賞の受賞作。


愛川素直が7歳のとき、幼馴染との喧嘩を収めるために偶然生み出されたのは瓜二つな肉体をもつ分身体(レプリカ)の〈私〉でした。〈私〉は素直から「ナオ」と名付けられ、素直からも双子の姉妹のように接されていましたが、成長するにつれて次第にぎくしゃくするように。

やがて素直は用件があるときにだけナオを呼び出し、ナオは素直の身代わりとして忠実に働くようになりました。素直の代わりに勉強してテストを受け、喧嘩した友達と仲直りし、不要と判断されればどこへともなく消える不安定な日々。

いまも素直の代役として高校に通うナオは、オリジナルである素直の人生に波風を立てないよう、誰ともかかわらず文芸部で静かに過ごしていました。

しかし、バスケ部を退部した真田秋也がナオのいる文芸部に入部してきてから、ナオの毎日は色づきはじめます。空っぽだと思い込んでいたはずの分身体(レプリカ)の心に、はじめて恋心が宿ったのです。


一見してSF 要素を強く思わせる作品ですが、「どうしてレプリカが生み出されるのか?」を深く追求する科学考証には進みません。あえてレプリカであるナオを視点人物にしながら、ドッペルゲンガーゆえの抑制された日々を魅力的に描いていきます。

たとえばお手伝いするたびに貯めていた五十円玉をこっそり隠しておいたり、家に本を持ち帰れないから、放課後を使って少しずつ本を読んでいったり。ナオがたまにしか人間的な活動をさせてもらえないなかでささやかな幸福を見出していく、ひとつひとつの描写やエピソードに味がありました。

そして、抑制されている痛ましさを抱えていたナオが秋也と出会い、恋愛感情を抱くことでいまにも抑えきれない切なさを引き出してもいます。これまで素直の人生を邪魔しないよう努めていたナオにとって、自らの恋愛感情は〈許されなかったはずの自分勝手さ〉を象徴したものでもあるのです。

しかし、恋愛感情は決して自分勝手なものではありません。多くの人間が本能的に抱くものであって、むしろ素直にはない恋愛感情を抱いた事実は、ナオが素直の分身ではなくナオ自身として存在している証明にもつながるのです。だからこそナオは秋也との密かな交流を通じて「私は、今、私だ」と、抑制していた自らを少しずつ解放していけました。やがてナオはレプリカの役割に縛られない、人間としてのアイデンティティを獲得していきます。


一方で、レプリカ(ドッペルゲンガー)を題材にするうえで避けて通れない問題があります。それが「ドッペルゲンガーは果たして人間であるのか?」という根源的問いかけ。

どれだけナオが人間としてのアイデンティティを獲得していったとしても、人間である素直と、分身体としていきなり呼び出されるナオのあいだには、人間と非人間の線引きがされてしまっている。ナオが「私が私であること」の喜びを見出せるようになったからこそ、ナオが人間であることを否定してくる覆せない身体性は彼女をいっそう苦しめ、絶望に陥らせることになりました。

本作ではナオの身体性について、ドッペルゲンガーと類似した部分もある思考実験、「スワンプマン問題」——沼地からうまれた原子レベルで等しい存在ははたして同一人物と言えるのか——を通して、どう向き合えばよいかの答えを見つけ出していきます。ナオが本当に人間として自意識を確立するためには、人間でない部分を自覚しつつ、それでも人間で在ろうとする心が必要です。


また、本物である愛川素直の側からも、レプリカが存在するがゆえの悩みを描いているのが本作の特徴でした。ナオが「私が私であること」を喜ぶようになるのは、決して素直にとっても他人事ではありません。むしろレプリカであるナオが人間としてのアイデンティティを獲得していくのは、素直視点で言い換えれば、本物である自分のアイデンティティが脅かされている状況とも形容できるでしょう。レプリカが本物よりも本物らしくなってしまう恐怖——それに怯えている素直がナオを邪険に扱うのは、すでに獲得しているアイデンティティを守ろうとする、一種の防衛策でもあります。

ですが、このままだと二人はアイデンティティを巡る争いを続け、やがてどちらかが膝をついてしまうに違いありません。それを避けるべく、素直の側もナオがレプリカではない別の人間として存在する事実を知っていきます。それによって、ナオが模造品ではなく双子の姉妹のような存在なのだと、幼いころの原点に立ち直っていくのです。


ナオが「私が私であること」を知り、素直も「私が私であること」を知る。

瓜ふたつな二人がそれぞれ別個であると自覚するのが、アイデンティティを巡る悩みから解放されて自分を手にいれるための第一歩です。

「レプリカ」という題材を通し、若い高校生たちがアイデンティティを確立させていく過程を丁寧に描いている作品でした。

今回は以上の二作品を紹介していきました。

どちらの作品も「本物の自分」と「偽物の自分」のふたつをつくりだし、二者間のギャップからうまれる悩みや、肉体性の違いに伴う大きな壁を描いています。

しかし、どちらの自分も蔑むものではなく、本物だろうと偽物だろうと、人間として尊重されるべき存在には違いありません。だから辛さから逃れるために「もうひとりの自分」を生み出すのも、決して蔑ろにされるような行いではないのです。

あわいゆき

都内在住の大学生。普段は幅広く小説を読みながらネットで書評やレビューを手掛ける。趣味は文学賞を追うこと。なんでも読んでなんでも書くがモットー。

Twitter : @snow_now_s

note : https://note.com/snow_and_millet/

第11回「この新人賞受賞作がすごい!」で取り上げたのは――

ミオチュブラー・ミオパチーを患って中学の頃からほとんど寝たきりの生活を続けている井沢釈華は、コピーライターで小銭を稼ぎながら両親の遺産を頼りに生活していた。

しかし釈華は介護士の田中から、ある取引を持ちかけられる。

愛川素直のレプリカとして生み出されたナオは、学校に行くのが億劫な素直にかわって呼び出されて偽者として学校に通う日々。

しかしクラスメイトの真田秋也に恋をして、本物にはないナオだけの感情を手に入れていく。

登場人物紹介

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