私はいましあわせ? 「幸福だ」と思いこむことで見えなくなるもの

文字数 4,183文字

あなたはいま、幸福ですか?

そう訊かれたとき、返ってくる答えはひとによってそれぞれでしょう。幸福だと力強く断言できるひともいれば、不幸だと言うひともいるはず。

もしかしたら、貧困や病気などでいまも苦しんでいる誰かを思い浮かべて、「自分は幸福な生活をしている」と思うひともいるかもしれません。

……ですが、誰かを思い浮かべながら「自分は幸福だ」と判断してしまうのは、ときに自分が置かれている状況を曇らせてしまう危うさを秘めています。

今回は「自分は他のひとよりも幸福に違いない」と比較してしまう、その裏側にある問題を描いた新人賞受賞作を二作、紹介しています。

~第15回~

私はいましあわせ? 「幸福だ」と思いこむことで見えなくなるもの

夢野寧子『ジューンドロップ』


第66回群像新人文学賞の受賞作。


ジューンドロップ——生理的落果——とは、一本の木が種を維持するために、種の入っていない実や、他より弱そうな実を小さいうちに落としてしまう現象のことを言います。梅雨の時期によく発生するため名称に〈ジューン〉がついているのですが、この物語がはじまるのも梅雨の季節。

偏頭痛の前兆として視界に閃光が走る「閃輝暗点」を抱えている椎谷しずくは、不妊治療で心身の状態を崩しがちな母親を心配させないよう、家と高校を往復する毎日を送っていました。

しかし、遠回りを選んだ帰り道の先、御堂に佇んでいる縛られ地蔵の前で、タマキと名乗る同い年の少女と出会います。

どうして彼女も自分と同じように御堂を訪れているのだろう? 好奇心を抱いたしずくは縛られ地蔵の前で、タマキとたびたび会うようになります。



お地蔵様を縄で縛って願をかけ、願いが叶うと縄を解く風習からうまれた「縛られ地蔵」。

母親の不妊治療が失敗しないよう友人とのプライベートな交流をすべて断っているしずくも、縛られ地蔵のように「縛られている」状況ともいえるでしょう。

ですが、しずくは何度も、世界の悲惨な現状を憂いて「自分は幸福な人生を送っている」と規定するのです。コロナウイルスで多くの人が現在進行形で亡くなっていて、戦争、弾圧、天災、事故、貧困、いじめが蔓延りいまも誰かがどこかで死んでいるのだ、と。

確かにいまも誰かがどこかで亡くなっているのは事実です。「電気やガスのある時代に、戦争のない国で、お金持ちとは言えないまでも、金銭的に余裕のある家庭で生まれ育ったわたしは、間違いなく幸福な子どもといえました」と語るしずくはある意味においては的を射ています。

ですが幸福を相対的に規定してしまうのは、自らが抱えている不幸を——縛られている事実を——曇らせてしまう結果にもつながりかねません。

だからこそ、その綻びとして、しずくは自らを幸福だと思い込むのと同時に「いまも生きていること」への後ろめたさも感じてしまっています。不妊治療に失敗して生まれないまま死んでいった子どもがいるにもかかわらず、どうして彼らと同じ道を辿らなかったんだろう、と自責の念に駆られてしまうのです。



そして相対的な「幸福」の観念に縛られているのは、しずくだけではありません。何度も妊娠に失敗してそのたびに精神を病んでいく母、それを献身的に支え続ける父。二人が子を作ろうとするのは、「子どもを作れば幸福な家庭を築ける」という世の中の固定観念が根底にあるからです。しずくを「縛っている」ようにも思える両親は決して縛ろうとするつもりはなく、あくまでも幸せな家庭を目指しているにすぎない——大きな対立や喧嘩が描かれるわけではない、お互いが思い合っているがゆえの不幸は、じわじわと家族を蝕んでいきます。



であれば、幸福を相対的に規定してしまう固定観念から抜け出すにはどうすればいいのか? それは、比較することによってうまれる孤独な幸福から抜け出すために、ささやかな幸福を誰かと分かち合うことです。

しずくが偶然出会い、縛られ地蔵のもとを訪れていたタマキも、家族にまつわるとある事情によって縛られていました。「どうして生きているんだろう」と罪悪感を抱えるタマキは、しずくが立たされている状況と似ています。ですが、二人はあくまでも別人です。だからこそ、二人が徐々に仲良くなり、同じ幸福を分かち合えるようになる過程は、決して相対的ではない誰かと共有できる幸せに結びつくのです。


タイトルの「ジューンドロップ」は生理的落果と淘汰される命が重ねられているだけでなく、水滴や飴玉、「しずく」という名前のように、いくつもの意味が重なり合っています。

幸福だと固定観念に縛られている状況を、そっと解こうとする物語です。

四月猫あらし『ベランダのあの子』


第20回長編児童文学新人賞の入選作。


小学5年生の颯が友人の理,隼也と楽しく下校しながら、明日からはじまる春休みについて話しているシーンからはじまる本作。一見してほのぼのしていそうな下校の光景ですが——場面が切り替わると様相は一変。家庭内で颯が父親にみぞおちを蹴られて、背中をピアノにぶつけるショッキングなシーンがいきなり描写されます。

颯はさまざまな理由をつけられて、父親から日常的に暴力をうけていたのです。母親は自分が傷つくのを恐れ、見て見ぬふりしながら父親に従うばかり。外側から見れば父親も家族旅行に行ったりいい会社で働いていたり、「立派なお父さん」として映るため、周囲からも〈いい家庭〉だと思われています。

颯は暴力をおそれて父親の顔色をうかがうことしかできず、両親がときおり見せる笑顔を目にするたび、「これでいいんだ」と思い込みながら過ごしていました。しかしある日、「食事中にうっかり肘をついていた」のを理由にベランダへ放り出された颯は、向かいのマンションのベランダでしゃがみこんでいる女の子を見つけます。



颯が身を置いている家庭の状況は言うまでもなく危険で、いますぐ脱するべき(あるいはなんらかの介入がされるべき)ものでしょう。しかし、颯は両親から「もっと大変な子はいる」「颯を思って言っている」と繰り返し説かれ、『ジューンドロップ』のしずくにも見られたように、「自分は周りと比べたら幸福に違いない」と相対的に幸福を規定してしまっているのです。そのため父親からの日常的な暴力を受け入れてしまい、自らを「惨めなもの」と自己否定してしまっています。暴力を内面化し、「虐待ではない」「されて当然」なのだとする思考が占めているので、ときおり疑問をよぎらせながらも声を出せずにいるのです。


だからこそ、自分自身と境遇の重なるベランダでしゃがみこんでいる女の子を目にしたとき——颯は彼女と「助け合う関係」を結ぶことはしません。より正確にいえば、できません。

むしろ「たかがそれぐらいで」「自分はあんなに惨めじゃない」「みっともない」などと、彼女に対して嫌悪と軽蔑をおぼえるのです。虐待を受けている子どもが精神的に追い込まれ、自己防衛の果てに歪みかけていく心理を的確な描写で活写していきます。


また、暴力を「受けて当然」と思い込んでしまう洗脳は、自分から他者に向くことで二次被害、三次被害を引き起こしかねません。

現に颯はクラスメイトたちとお祭りに行き、頭を叩かれている女の子を見かけた際、「不注意なのが悪い」「小さくってもしつけは必要」と思ったことを口にして周りの顰蹙を買いました。自己防衛として暴力を内面化させた結果、他者への暴力に対しても鈍感になってしまうのです。そして颯は自らが虐待されているにもかかわらず、周囲からは逆に“暴力に対して理解のない存在”だとして遠ざけられてしまいます。

やがて颯は、父親と同じ暴力性をクラスメイトに向けて発露させてしまいます。その瞬間までを描写することで、親→子への「暴力の連鎖」が露わになる瞬間をはっきりと捉えています。

それと同時に、本来であれば理解されづらい「暴力性を発露してしまう人間」がどのような心理によってそこに至っているのかを、わかりやすく描くことにも成功しているのです。


それでは、颯が自分に施してしまっている暴力の内面化は、どのようにすれば解き放たれるのでしょうか?

その答えはクラスメイトの理が放った一言、「自分だけは最後まで自分の味方でいろ」にあります。自分自身を「惨めだ」と思い込んで嫌いなままでいては、他人を大切にすることは到底かないません。似た境遇の相手に対して「惨めだな」と軽蔑するのではなく、手を差し伸べられるようにする——そして誰かに手を差し伸べることは、洗脳されてしまっている自分自身に手を差し伸べて、好きになるための第一歩でもあるのです。

颯は少しずつ、自分を好きになれるようにかわっていきます。


家庭内の暴力やそれによって歪んでいく心を簡潔な文体で、真に迫るように描かれている本作。息の詰まるシーンも多々ありますが、読み終わったときには「読んでよかった」と思えるはずです。

今回は以上の二作品を紹介していきました。


どちらも「自分は他のひとと比べて幸福に違いない」という固定観念によって曇ってしまった問題から、抜け出すまでの過程が描かれています。

一度植え付けられた固定観念から抜け出すのは大変ですが、登場人物に思いを馳せながら客観的に読むことのできる小説は、“気づく”ための大きなきっかけになります。

だからこそ小説は、救いにもなり得るのです。

あわいゆき

都内在住の大学生。普段は幅広く小説を読みながらネットで書評やレビューを手掛ける。趣味は文学賞を追うこと。なんでも読んでなんでも書くがモットー。

Twitter : @snow_now_s

note : https://note.com/snow_and_millet/

第15回「この新人賞受賞作がすごい!」で取り上げたのは――

6月、椎谷しずくが縛られ地蔵の前で出会ったのは、「タマキ」と名乗る同い年の少女だった。

不妊治療している母親の体調に気を遣いながら、しずくはタマキと交流を深めていく。

小学6年生になった颯は、父親から度重なる暴力を受けていた。逆らえない父親、見て見ぬふりをする母親、理解してくれない周囲。虐待されていると誰にも言えない颯はある日、向かい側のマンションのベランダにしゃがみこんでいる女の子を見つける。

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