フィクションが現実を超えるには?

文字数 4,438文字

これまでこの連載では、新人賞を受賞した「小説」を様々なジャンルから紹介してきました。

「小説」は絵も音も匂いもない文字のみで、数多くのものを表現することができます。言葉の限りを尽くして五感を呼び起こし、もやもやのままだった感情を明確に伝えてくれる――人間の想像力を信頼したフィクションの形態ともいえるでしょう。

そしてもちろん小説だけでなく、映画や演劇や絵画や漫画、その他あらゆるフィクションは、これまでの歴史でも多くの人に受け入れられて、数え切れないほどの感動や希望を与えてきたはずです。

その一方で、フィクションは必ず現実のなかでうまれます。私たちが生きている現実があることを前提にフィクション=虚構が存在しており、それゆえに、私たちはそこに現実を重ねたり、あるいは虚構に没頭することで、希望や感動を見出すことができます。

しかし、この事実はもうひとつの残酷な事実をも指摘します――それは、フィクションが虚構である以上、現実の壁を突き破ってこちらの世界にやってくることがない、ということ。

だとすれば、私たちが生きている現実のなかでフィクションがうまれている――この事実を前にして、虚構・想像にすぎないフィクションが現実に並ぶ、どころか、現実を超えていくことははたしてあるのでしょうか?


今回は一見して不可能にも思える、「想像が現実を超える瞬間」を描いた新人賞受賞作を二作、紹介していきます。

~第19回~

フィクションが現実を超えるには?

戸部寧子『トモルの海』


第4回フレーベル館ものがたり新人賞の大賞受賞作。


小学生のトモルがおばあちゃんの家へと向かっている途中、車内で居眠りをして、砂浜で知らないだれかとキャッチボールをしている夢を見ているところから物語ははじまります。トモルは応援している高校野球部が浜辺で練習しているのを目にして以来、浜辺での走り込みやキャッチボールをすることに憧れていたのでした。

夏休みのあいだ、おばあちゃんの家に泊まり込んで砂浜で練習する気満々だったトモル。しかし彼は思い違いをしており、連れられてやってきたおばあちゃんの家は砂浜のかけらもない、山なみのなかにありました。それでもトモルはめげることなく、おばあちゃんの家でも野球の練習に励みます。

そんななか出会ったのは、めぐると名乗る十五歳の女の子。そしてめぐるは、夢のなかでトモルがキャッチボールをしていた相手でもありました。


トモルが正体のわからない年上の女の子と交流しながら、山に囲まれたおばあちゃんの家で一度きりの夏を経験していく、瑞々しい青春物語となっている本作。一方で、本来トモルは砂場で野球の練習をすることを夢見ていましたが、先に記したとおり、おばあちゃんの家の周りには海があるわけではありません。

それではタイトルにもなっている「トモルの海」とは一体なにを指すのでしょうか?


その答えは――本物ではないけれど、他にひとつとない想像の海です。

「海の見える場所で野球がしたかった」と不意に漏らしたトモルに向けて、めぐるは語ります。


「いつだって、現実のほうが強いし、ようしゃがない。でも、想像や夢が、現実を追いぬく瞬間だってあるわ」


その言葉の通り、トモルはひと夏のあいだにいくつもの「海」を経験していきます。それはたとえば、めぐるに連れられて山門をくぐった先にあったお寺。ゆらゆらと揺れている木漏れ日や、葉っぱと葉っぱが擦れあう波のような音、漂っているひんやりした朝の空気から、トモルはそこにあるはずのない「海」を感じ取ります。また、お寺で開催されるお祭りでは、朝の静けさとは一転して騒々しい「人の海」に巻き込まれ、トモルは小さな魚になった気分で人の波をすいすいと縫っていくのです。

ほかにも、夜空の鮮やかさを目の当たりにすることで「夜の海もこんなふうに、いろんな色がまざりあっているのかも」と初めて感じたり、現実の海とはかけ離れている場所でも、想像力ひとつで海にもなるのだとトモルは気づいていきます。

また、トモルの体験している「海」が読者にも伝わるよう、きらきらした比喩や描写が作中にはちりばめられていました。そして当然、その描写は海のようでありながら決して海ではない、ごった返す人波や林のなかの木漏れ日などに基づいています。

そのため、トモルが感じている想像の「海」はそのまま、目の前に広がっている現実のかけがえなさにもつながっていくのです。想像を通して現実の美しさを知る、想像が現実を揺り動かそうとする営みを瑞々しく描いています。


そして、この作品にはもうひとつ、想像が現実を乗り越えるための仕掛けが施されていました。その鍵となるのが、トモルの見る夢です。めぐると出会ってから、めぐるが姉になって家族たちと当たり前のように生活を送っている夢を、トモルは頻繁に見るようになります。兄弟姉妹なんていないはずなのに、なぜ――?

夢のなかにだけ現れる想像上の姉と、現実でトモルが接しているめぐるを結びつける秘密が露わになったとき、あくまでも虚構にすぎなかったはずの想像は、確かな現実として手触りを残します。

その「秘密」と、想像や夢が現実を追いぬく瞬間は、本作を読んでぜひ味わってみてください。

佐佐木陸『解答者は走ってください』


第60回文藝賞の優秀賞受賞作。


複数層の世界からなる、複雑な構成によって緻密に組み上げられている本作。自分にまつわる記憶をほとんど憶えていない怜王鳴門(れおなるど)はある日、自分を育ててくれた「パパ上」に届いていたメールの文書ファイルを開きます。そこには、怜王鳴門の登場する物語が綴られていました。この物語を書いている人間は一体だれなんだ? 怜王鳴門は創作された物語を読んでいくうちに、自らが創作によってうまれた存在だと知っていきます。


自らが何者なのかすらわかっていない怜王鳴門に対して行われているのは、「フィクションの存在に創作を与える」ことでフィクションを現実にする、虚構と虚構を掛け合わせて実を生み出すような試みです。怜王鳴門が序盤に読んでいく、「パパ」の視点から語られていく怜王鳴門の半生記は、怜王鳴門自身が読むことで、現実のものとして認識されていくのです。



怜王鳴門は、丑三つ時に生まれた。ヒスイ輝石を思わせるアクアグリーンの髪を持ち、三九六〇グラムだった。この子、ヤンキースの某レジェンドの出生時体重と同じですよ、スゲエ、と筋肉が過剰肥大した看護師は興奮しながら言った。


八月三十一日。ハーフバースデイを過ぎると猛暑日が続き、その日は大型台風が直撃した。私たちの住むマンションは激しい揺れに見舞われ、私はパンケーキを吐いた。怜王鳴門はその上に赤い液体を吐き出した。吐血かと思い青ざめたが、それは赤ワインだった。この家にアルコール飲料は置いていないはずだ。しかし赤ん坊というぐらいだし、葡萄酒やカンパリなどの一杯や二杯吐くものなんだろう。



この半生記は上に引用した通り、荒唐無稽なものです。改行もほとんどされていませんが、ユーモアあふれる文章とツッコミ不在な勢いのよさで、一気に読み進めることができるようになっています。そして、リアリズムからかけ離れた描写ですら現実にしていこうとする姿勢には、想像を想像のままに留めようとせず、読者にいまいる現実がほんとうに現実なのか疑わせようとする力強さがありました。


また、怜王鳴門の半生記の視点人物であり、執筆者でもあるはずだった「パパ」自身も、物語を語っていくうちフィクションに呑み込まれていきます。「パパ」は当初こそ悲痛な現実を豊かに彩るための手段として理想を投影した物語を綴っていましたが、その理想に傾倒しすぎるあまり、フィクションから現実になっていった怜王鳴門と対照的に、フィクションに閉じ込められて物語をコントロールできなくなっていくのです。

創作する作者と創作されるキャラクターの逆転をアイロニカルに描くことによって、作者の理想に合わせてキャラクターを「物語る」行為が秘めているある種の暴力性を指摘し、そのうえで「なぜ書くのか」を掘り下げていきます。


しかし、「なぜ書くのか」を追求するのみでは、メタフィクションのジャンルのなかで繰り広げられる創作論の範疇に留まってしまうでしょう。そこからさらに視野を広げるにはどうすればいいのか――本作で視野を広げていくきっかけを与えるのは、作者とほぼ同一の名前を有する「佐々木」です。といっても、作者が物語に登場するギミック自体は珍しくありません。ただ、本作では佐々木のいる現実世界に、現実となった怜王鳴門が乗り込んできます。現実とフィクションの垣根すらをも破壊するのです。

この干渉によって、私たちのいる現実ですら「現実世界」という名前の層にすぎないと示されていました。そして、「なぜ書くのか」のフィクション的な創作論を「なぜ生きるのか」に発展させて、だれかを産み育てる、あるいは生を営むことへの希望を見出そうとするのです。

この現実世界に対する希望は、フィクションが有する無限大さと重ね合わせられ、より希望を抱かせるように描かれています。


フィクションの登場人物にとって、フィクションを創作した現実の人間は登場人物に等しい、という状況を活かして現実とフィクションを同等に並べることで、二つのあいだにある垣根をまとめて破壊していく物語です。

今回は以上の二作品を紹介していきました。


『トモルの海』のめぐるが口にするとおり、現実は容赦ありません。いまも自然災害によって甚大な被害が発生し、戦争や虐殺によって多くの命が奪われています。

それらを前に、フィクションは無力なのだと打ちひしがれるのではなく、フィクションにしか起こし得ない奇跡によって、現実に希望を見出そうとする――それはひとつの手段であり、決して現実逃避で片付けられるものではありません。

フィクションは現実に干渉して、私たちに光を照らしてくれるはずです。

あわいゆき

都内在住の大学生。普段は幅広く小説を読みながらネットで書評やレビューを手掛ける。趣味は文学賞を追うこと。なんでも読んでなんでも書くがモットー。

Twitter : @snow_now_s

note : https://note.com/snow_and_millet/

第19回「この新人賞受賞作がすごい!」で取り上げたのは――

戸部寧子『トモルの海』
夏休みのあいだおばあちゃんの家で過ごすことになった小学生のトモル。彼が野球の練習中に出会ったのは、めぐると名乗る年上の少女だった。めぐると一度きりの夏を送りながら、トモルは想像による「海」を経験していく。

佐佐木陸『解答者は走ってください』

パパ上に育てられながら、二十七歳を迎えた怜王鳴門。自分のことを憶えていない彼が読み始めたのは、パパ上ではない「パパ」が記した、怜王鳴門の半生記だった。それを読んでいくうちに怜王鳴門は、自身の秘密に気づいていく。

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