「おかしな冒険譚」 宮下奈都

文字数 1,038文字

(*小説宝石2021年3月号掲載)
2021/02/24 12:32

年ぶりに出る新刊が、おかしな本になった。ずっと冒険譚(たん)を書きたいなぁと考えていたのはほんとうである。ただ、それがこんな形になるとは思っていなかった。


 ワンさぶ子というのは、うちで暮らす白い柴犬だ。彼女と彼女の家族(人間)の日々を、「Mart」で三年間連載させてもらった。楽しかった。ワンさぶ子は、胸を張って散歩をし、ボール遊びをし、人が来れば吠える。あとは、だいたいお昼寝をしている。どこが冒険譚なのかと問われれば、返答に詰まる。ただ、彼女は毎日の散歩で、家族とのやりとりで、庭に来るカラスとの対話で、新しい何かを発見して成長していく。茶色くて賢そうな目には、精神的な冒険が映っている。


 ワンさぶ子はいい。三年間「精神的な冒険」をしていただけでゆるされる。かわいいからだ。そして何より、犬だからだ。しかし、飼い主はどうだろう。読み返してみたら、私も仕事量としてはワンさぶ子並みだった。ほとんど「精神的な冒険」しかしていなかった。愕然とする。


 三年寝太郎という人が、昔、いたらしい。三年寝ていて、ある日突然起き、めざましく働いて大活躍をしたという。寝太郎はいいなあ、と思う。どんなに寝ていても、ちゃんと目を覚ました。ワンさぶ子もいいなあ、と思う。家族もいい。子供たちは活躍はしないまでも、それぞれの持ち場でちゃんと大きくなった。夫もよく働いていた。唯一寝たままの寝太郎だったのが私だ。この三年寝ている間に、単行本が三冊、文庫が三冊出た。旅行に行った。コンサートにも行った。子供たちが家を出た。小説が二度、映画になった。新しい友達ができた。父が突然亡くなった。そして、晴れた日も、雪の日も、毎朝毎夕ワンさぶ子と散歩に出かけた。それらを「精神的な冒険」と呼んで心を鎮(しず)めたいと思う。読んでくれた方が、これでいいのか、と内心でホッとしてくれたら、著者としてはたいそうしあわせである。

2021/02/24 12:33
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【あらすじ】

北海道トムラウシの山村留学から福井に帰ってきた宮下家には、白い柴犬ワンさぶ子が家族の一員に。三人の子供たちは、大学生高校生中学生となり、それぞれが自分の道を歩き始めていく。広がる世界、かけがえのない音楽。宮下家五人と一匹の三年間の記録。


【PROFILE】

みやした・なつ

1967年福井県生まれ。2004年「静かな雨」で文學界新人賞佳作に入選してデビュー。『羊と鋼の森』で本屋大賞受賞。ほかに『スコーレ№4』『神さまたちの遊ぶ庭』『つぼみ』など。

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