須藤古都離『ゴリラ裁判の日』ロングインタビュー(中編)

文字数 5,489文字

第64回メフィスト賞を満場一致で受賞した『ゴリラ裁判の日』。

著者の須藤古都離さんのロングインタビュー(全3回)をお届けいたします。

デビュー前のこと、新人賞に応募をするときの気持ち、『ゴリラ裁判の日』着想のきっかけ、影響を受けた小説家、ゴリラのこと、書いていて一番楽しかったこと、これからのこと――。

じっくりお話しを伺いました。


聞き手:大矢博子さん

▼『ゴリラ裁判の日』ができるまで


――これって、 実際にあったハランベ事件(※)がモチーフになってますが、着想はそこからですか。


(※「ハランベ事件」2016年、アメリカのシンシナティ動物園で、ゴリラの囲いの中に落ちた男の子に命の危険があるという理由で、「ハランベ」という名前のオスゴリラが動物園スタッフにより射殺された事件のこと)


須藤 あ、いえ、実は違いまして。この小説の大本のテーマを思いついたのは2009年なんで、ハランベ事件が起こる前なんですよね。いちばん書きたかったテーマは人間の限界というか、人間というものの枠組みです。人間というものの枠組みは僕たちが思ってるものとは違うんじゃないかっていうところがいちばん大きなテーマなんです。ただ最初は人間が進化した時に人間の枠組みから出てしまうものは何かないか、こぼれ落ちるものは何かないかっていうのを考えていたんですよね。そしたら調べていくうちに引っかかったのが「人権」で。人権って全ての人間が持っている、全ての人間に平等に当てはまると言われますし思ってますけど、その「全ての人間」が何を指すのか(の定義)がないんですよ。それが僕の中ですごく衝撃で。それを小説にしたいなと思ったのがきっかけなんですね。だから最初はゴリラの話じゃなかったんです。


――ゴリラ出てこなかったんですか!


須藤 そうですね、出てきませんでしたね。全然違う書き方をしてました。ただ、進化を描こうとするとテーマが複雑になってきてしまう。分かりやすく、人間の端っこというか、人間のこの枠組みがどこまでなのかっていうのを示したい時に、なぜか突然「ゴリラだ」と思ったんですよ。なぜゴリラなのか、自分でもわからないんですけど。


――「人間って何だ」っていうテーマはSFではとても多くて、たとえば人工知能が心を持ったら人間なのかというような話はたくさんありますよね。けれど『ゴリラ裁判の日』は逆に、動物が人間に近づくという話です。


須藤 テーマはずっと持っていて、でも形にできなくて、だけどやっぱりそのアイデアを諦めきれない。じゃあ、どうやって書き直そうかって考えたのが2019~20年あたりなんですけど、そこでいつの間にかゴリラが思い浮かんだんです。そのときはハランベ事件の後で、僕も事件のことは知ってましたし、もうひとつ、手話ができるゴリラのココ(※)の話も知っていたので、それらが瞬間的に結びついて話ができたっていう感じですね。テーマがあって、ゴリラって思い浮かんだときにハランベとココがいて、話がすっと落ち着いたっていうか、ピースがはまったみたいな感じで。ただそれが、どこからゴリラになったのかは、自分でも覚えてないんですよ。ゴリラが先で、ゴリラといえばハランベとココがいたという順番なので。


(※「ゴリラのココ」手話を使って人間と「会話」をすることができたといわれているゴリラ。2018年、カリフォルニア州で46歳で亡くなった。)


――『ゴリラ裁判の日』は、人間の言葉を理解し、思考力を持ち、自らも手話を使って人間とコミュニケーションができるメスゴリラのローズが、夫のゴリラを射殺されたことで動物園を相手取って裁判を起こす物語です。ローズに一定の権利を与えるべきだと主張する陣営と、ゴリラはゴリラだという陣営が対立しますが、須藤さんの中ではこうあるべきという結論は出されてますか?


須藤 いや、ないですね。問いを発したいっていう気持ちはあるんですけど、こうあるべきだっていうのを人に押し付けたいわけじゃないので。これ面白いよね、これ考えたら面白いんじゃないっていう、ただ、それだけなんですよね。というよりも、自分で決め付けて、こうあるべきだって書いてしまうと、それは多分的外れなものになってしまうと思うんですよ。1人の頭で考えてるとどうしても限界がありますし、自分の中に答えがあったらつまらないんじゃないかな。答えがないものだけを発していたいっていう……無責任かもしれないですけど、やっぱりそれが面白いんじゃないかなと思うんですよね。


――どうするのが正解なんだろう、とずっと考えながら読みました。考えずにはいられない物語だと思います。


須藤 読者にも読んだ後に考えてもらいたいというか、その考える時間こそが面白いんじゃないかと思います。 僕自身、映画を見たり本を読んだりした後に、あれ、なんで面白かったんだろうとか、あれ、なんでつまらなかったんだろうって、1日、2日、3日、時には1週間とかずっと考えてたりします。で、考え続けていると、何かが自分の中でピンとくる瞬間があるんですよ。その瞬間が楽しい。だから小説でも、読んで終わりじゃなくて、考えるのが楽しいんだよっていうのを伝えたいんです。押し付けちゃうとそれが出てこなくなる、その時間がなくなっちゃうと思うんですよね。その余白の部分を楽しんでいただきたいなっていうのもちょっとありつつ、僕ではそんな簡単に答えは出せませんよっていう自分の限界を認めつつの作品っていう感じですかね。


――作中でゴリラと人間を分けるものとして「複雑な言語体系を持っているか」というひとつの基準が挙げられますが。


そうですね、やっぱりコミュニケーションがとれるというのがどうしてもいちばん大事になってくると思うんで。コミュニケーションができることで二者の間に橋ができるんだけど、その橋は実は思ってたほど堅牢ではない。言葉は通じてるのに(言いたいことが)通じ合えない、というのも書きたかったことです。




▼社会の中にも「ゴリラ裁判」の相似形はたくさんある


――そこでちょっと不思議だったのが、ローズがもう自分はゴリラではないと考える場面があるんですが、それは言葉を覚えたからではなく、ゴリラなら当然のある生態を受け入れられなくなっていることに気づいたからなんですよね。言葉の話じゃなかったの? と思ったんですが。


須藤 言葉ってコミュニケーションの道具だけではなく、全ての文化のベースになってると思うんですよ。言葉っていうものが包括する文化文明っていうか。言葉を覚えた時は、言葉だけじゃなくて文化文明に触れるんですよね。ふたつの言葉を覚えると、ふたつの文明を知ることになる。ゴリラの言葉、人間の言葉、両方覚えた時に文明の衝突が起こるわけです。それは誰しも起こり得ることというか、日本語だけじゃなくて他の言語を覚えて、他の文化文明を覚えた時に、やっぱりそのカルチャーショックってあると思うんですよ。なので、あんまり意識して書いたわけではないんですけれども、人間の言葉を覚えたことで人間の文化文明に触れ、ゴリラの文明と衝突が起きた──という場面なわけです。ローズはゴリラですが私たちの内面の反映というか、姿を借りさせてもらってる感じではありますね。


――ああ、なるほど、国だったり性別だったり属性だったりの、歴史やカルチャーの違いから起きる軋轢、ですね。


須藤 そうですね。多分、それは読む人の数だけその例を挙げられると思うんですよ。 で、読んだ人の中で、これはこれのことだよねっていう中身が変わってくると思うんですよね。多分、そういう本なんじゃないかなって、自分で今は思いますね。


――ありましたありました! ゴリラだということで線が引かれる、ゴリラとはこういうものだという「常識」で測られるさまざまなエピソードから、性別や国籍で不当な扱いを受ける例を連想しました。でも同時に、「そうは言っても、ローズはゴリラだよね?」と思ってしまう自分もいて……それは偏見では? と考え込んでしまいました。


須藤 たとえばこの作品が三角形だとしたら、社会にこの三角形のものっていくらでもあると思うんですよ。その相似形を探すのが楽しいと思います。その中で、認めたくないような自分の偏見や本音に気づくかもしれない。その認めたくない部分も感じていただきたいなっていう思いもあります。僕の中にもそれ(偏見)はありますし、みんなの中にもあると思うんですよね。ローズに完全に感情移入して、私はゴリラですって言えちゃう人はまたちょっと違うような気もしますし。その割り切れない部分が楽しいんじゃないか……いや、楽しいっていうとちょっと違うんですけど、その割り切れない部分とどうやって折り合いをつければいいんだろうか、割り切れない部分をどう抱えていけばいんだろうかってことを、僕たちは考えながら生きていかなくちゃいけない。多分答えを出せる人はいないだろうと思いながら書いてますが。


――属性で最初からシャットアウトされてしまうことって現実社会に多々あって、ローズはそんな人たちの象徴でもあるんですね。作中にはアフリカ系やアジア系の人物もいますし、言語を持つのが人間だと言う一方で聾啞のエンジニアを登場させる。さきほどの「三角形」のいろんな例が、この物語には詰まってますね。そこはかなりわかりやすいメタファーになっているように感じましたが。


須藤 そうですね、僕がずっとこれから書いていきたいこととして、社会ってどういうものなんだろうっていうのがあるんです。今の社会って「正しくあるべき」という圧力がすごく強いと思うんですよ。正しくあるべきだ、こうあるべきだ、じゃあそのこうあるべきだっていうその社会は何なんだろう。その社会が間違ってた時は、その求められる姿っていうのも間違っているはずなのに、それをどうやって指摘するのか。そう思った時、そこで文学というか、フィクションが出てくるんだと思ってるんですよね。 


――須藤さんが考える「フィクションの役割」ですね。


須藤 そうですね。社会が正しくあるように求めてるけど、社会自体がもしかしたら正しくないんじゃないの? っていうのを、物語に託して伝えられるのが文学だと思います。今、正しいことっていうのは100年前に正しかったことではなかったはずだし、100年後も正しいわけではない。正しさを社会に丸投げしちゃったら、それって責任転嫁だよなとも思うんですよ。「正しさ」は自分の中で考える、っていうのが大事になってくるんじゃないかな。なので、ある程度その例を出しつつ、これはこういう物語ですよ、この三角形の相似形はたくさんありますよね、というのを内包した、広さを持つ作品でありたいなとは思いました。


――ゴリラと人間の間にいて、ローズは徐々に自分を人間の方に寄せようとしますよね。人前で排泄するのは恥ずかしいとか、洋服を着なくちゃとか、ゴリラの価値観ではなく人間の価値観の方に自分を寄せていってる。ゴリラがゴリラのままで共存する方法は探せなかったのかなって、私は考えてしまったんですけど。


須藤 あ、面白いですね、そういう読み方なんだなって、嬉しくなりました。今聞いてて思ったんですけど、ローズが人間の世界に憧れるのって、例えば……この例は怒られるかもしれないですけど、例えば地方から東京に対する憧れや日本から海外に対する憧れがあって、その憧れに自分を寄せていくのに近いかも。


――ああ、上京して「自分は東京人だ、もう方言なんて使わないぞ」みたいな!


須藤 そうそう(笑)。でも、そこに実は自分がわかってなかった軋轢があるんですよね。それで地元に帰って、結局自分は何なんだろうって思ったり。そういうのって、多分いろんな人が経験すると思うんですよ。地方と都市の他にも例えば、この人が好きだからこの人に合わせようと思ってみたらうまくいかなくて、結局ダメだったみたいな。そういうところにも、いろんな相似形が見つかる話になってると思います。自分では気づいてなかったんですが、これは外側に対する憧れがあって、その外側に出てみて初めて内側がわかる、そして内側と外側の違いに困惑する話なんだなって、今思いました。 



気になる後編は、3月24日の12時に公開!

『ゴリラ裁判の日』

須藤古都離

講談社

定価:1925円(税込)

カメルーンで生まれたニシローランドゴリラ、名前はローズ。

メス、というよりも女性といった方がいいだろう。

ローズは人間に匹敵する知能を持ち、言葉を理解し「会話」もできる。

彼女は運命に導かれ、アメリカの動物園で暮らすようになった。

そこで出会ったゴリラと愛を育み、夫婦の関係となる。

だが ―― 。

その夫ゴリラが、人間の子どもを助けるためにという理由で、銃で殺されてしまう。

どうしても許せない。

 ローズは、夫のために、自分のために、人間に対して、裁判で闘いを挑む!

正義とは何か?

人間とは何か?

アメリカで激しい議論をまきお こした「ハランベ事件」をモチーフとして生み出された感動巨編。



『ゴリラ裁判の日』特設ページはこちら!

須藤古都離(すどう・ことり)

1987年、神奈川県生まれ。青山学院大学卒業。2022年「ゴリラ裁判の日」で第64回メフィスト賞を受賞。本作が初めての単行本となる。「メフィスト」2022 SUMMER VOL.4に、 短編「どうせ殺すなら、歌が終わってからにして」が掲載されている。2023年夏に、新作「無限の月」発売予定。

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