魔法と呪いと 千街晶之(ミステリ評論家)

文字数 1,146文字

魔法と呪いと


『ゴリラ裁判の日』というタイトルである以上、物語のメインとなるのは裁判だろう――と、手に取った多くの読者が予想する筈のこの作品だが、前半の展開はその予想に収まりきらないに違いない。

 本書の大部分は、「私」ことローランドゴリラのローズの視点で綴られる。冒頭、彼女は原告としてアメリカの法廷にいる。彼女の夫オマリは、動物園のゴリラパークに転落した四歳の男の子を引きずり回したため、園長が呼んだ射撃チームに射殺されたのだ。夫を殺害されたローズは動物園相手に裁判を起こす。果たしてその結果は……。

 こう紹介すると、ゴリラと人間が同等の知性を持つファンタジー的世界が舞台なのかと誤解されそうだが、決してそうではなく、ごく一部のゴリラが知性を持つ以外は現実の世界と変わらないという点が重要なのだ。判決が出たところで、物語は過去に遡る。カメルーンで生まれ育ったローズは、母のヨランダとともに、他のゴリラにはない特徴を持っていた。自分たちの気持ちや欲求を正確に伝えあう能力だ。ローズの父が率いるグループを観察していた研究者たちは、まずヨランダに手話によるコミュニケーションを教え、やがて生まれたローズにもヨランダとともに手話を教えたのだ。やがて、ローズと母は研究者たちの計らいで、人間のように声を発することが可能な機械を与えられ、アメリカに渡った。ローズは人間たちの歓迎を受けるが、時には彼らに対して油断できないものも感じる。そして夫となるオマリとめぐり合ったが……。

 私が冒頭で「前半の展開はその予想に収まりきらないに違いない」と記したのは、このローズの生い立ちや、アメリカに渡ってからの生活の描写にかなりのページ数を割いている点だ。せっかちな読者は、「裁判はどうなった?」と思うかも知れない。

 だが、後半、ローズを見舞った思わぬ運命をきっかけに、物語は法廷劇へと再帰する。新たに現れた弁護士は、圧倒的に人間が有利でゴリラが不利なこの裁判に、意外な戦術で臨もうとする。そこで前半の、ローズが夫の悲劇に邂逅するまでの長い記述が必要なものだったことに気づかされるのだ。このあたりの構成の妙味には感嘆した。

 思考や感情を複雑な言語体系で表現し得るか否かが人間とそれ以外を分かつのだとすれば、ローズはゴリラなのか人間なのか。人間と全く変わらないローズの一人称を読み進めるうちに、読者はいつしかローズに同じ人間として感情移入し、事態の決着に納得するのではないだろうか。だが著者は後日譚にあたる部分で、ゴリラと人間の関係を更に問い直してみせる。両者の境を越える優しい魔法にも、両者を隔てる悪意ある呪いにもなり得る、ある存在――読者はそれについて今までより深く思いをめぐらせながら頁を閉じることになるだろう。

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