第17話

文字数 12,728文字

 26 秘めごと(承前)
 
 ()()()は急いで(くら)()に続いてモーテルの部屋の中へ駆け込んだ。
 中で銃声がしたことを考えたら、危険な行動だったが、倉田一人に任せるわけにいかない。
 部屋へ駆け込む瞬間、この前の映画で、断崖から突き出た棒にぶら下ったことを思い出していた。
 私はどうせ「スタントガール」なんだ!
 銃弾が飛んで来る──かと思ったが、それはなかった。
 ドアに体当りした倉田はその勢いで床に転ってしまって、ぶつかった肩を押えつつ、立ち上った。
「倉田さん! 大丈夫?」
「亜矢子君、入って来ちゃ危い!」
 入っちゃってから言われても。
 しかし──室内を見渡して、二人は顔を見合せた。
 ベッドと小さなテーブル。引っくり返った椅子。しかし、誰もいない。
「確かに銃声が──」
 と言いかけて、倉田は、「バスルームだ!」
 と、奥のドアへと目をやった。
 半分開いていたバスルームのドアが、ゆっくりと開いて来た。
 そして──フラッと現われたのは、(おち)(あい)()(さく)だった。
「落合さん! 大丈夫ですか?」
 と、亜矢子は駆け寄った。
「いてて……」
 喜作は、左腕を押えた。しわくちゃになったワイシャツの左腕が、血で汚れている。
「けがしてるんですか?」
「争ってる内に……どこかの金具で引っかけたんだろう」
 と、喜作は言った。
「中に……」
「うん。──倒れとるよ」
 倉田が、バスルームの中へ入って行った。
「おじいちゃん……」
 入口に、今日(きょう)()が立っていた。
「今日子か! 心配かけたな」
 と、喜作は言って、ベッドにぐったりと腰かけた。
 亜矢子はバスルームの中を(のぞ)いた。
「倉田さん……」
「大丈夫だ。──銃は持ってるが、死んでる」
 と、倉田は言った。
 亜矢子は中へ入って行った。──空のバスタブの中に、拳銃を手にした男が倒れていた。
 バスタブが狭くて窮屈そうだ。
 (あい)(ざわ)(つとむ)だった。
 右手に拳銃を持って、胸の辺りが血に染っている。
「──今日子、そこへ入っちゃいかん!」
 と、喜作が言った。
 今日子は、祖父の方へではなく、バスルームの方へと、足早に向った。
「──今日子ちゃん」
 と、亜矢子が振り返って言った。「お父さんは……」
 今日子はバスタブのそばまで来ると、父親の死体を、じっと見下ろしていた。
 倉田は、ベッドに力なく座り込んでいる喜作の方へ、
「今、救急車を呼んでいます。けがの手当を……」
「ありがとう。──痛みはあるが、そう深い傷じゃないと思う」
 と、喜作は言って、「今日子を連れ出してくれないか。あんなものを見せておきたくない」
 しかし、今日子は亜矢子と一緒にバスルームから出て来ると、
「お父さんはどうして……」
 と、喜作に訊いた。
「あいつは、自分の罪が明るみに出るのを恐れていたんだ。──(くに)()を殺したことがな」
「お母さんを殺した?」
「うん。映画のことや、わしやお前が上京して来て、せっかく他の男が刑務所へ入ってるのに、本当のことが調べ出されるんじゃないかと怖くなったらしい。わしのホテルへやって来て、(けん)()になり、成り行きでわしを銃で脅して、連れ出した。自分でもどうしたらいいか分らなかったんだろうが、ともかく邦子を殺したことがわしの口からばれるとおしまいだ。──わしを捜しに来た若者を、金で雇ったチンピラたちに襲わせたが、逃げられて、追い詰められてしまったんだな……」
 喜作はタオルをつかんで汗を拭った。
「銃を撃ったのは──」
 と、亜矢子が言うと、
「バスルームにいたとき、チャイムが鳴って、あいつはびくびくしてたからな。びっくりして銃を持ったまま、尻もちをついたんだ。わしは、立ち上ろうとするあいつを、バスタブの中へ突き倒してやった。だが、こっちも引張られて、バスタブの中で折り重なってしまった。──もみ合っていると銃が発射されて……。一瞬、撃たれたかと思ったが、あいつは自分で胸を撃ってしまっていた。わしはバスタブから()い出るとき、狭いんで、トイレの金具で左腕を切ってしまった……」
 喜作は大きく息をつくと、「とんでもないことになったな。しかし、今日子、もう大丈夫だ……」
 すると、今日子が言った。
「違う」
 少し間があって、
「今日子ちゃん──」
「違うよ。そうじゃない」
「何のこと?」
「お父さんがやったんじゃない」
 と、今日子は言った。「おじいちゃん、(うそ)ついてる」
「何を言うんだ」
 喜作は苦笑して、「今日子、お前、どうかしちまったのか? わしのことを──」
「お父さんは左ききだった」
 と、今日子は言った。「右手で銃を持つはずないよ」
 ──しばらく沈黙があった。
 喜作の顔が、次第にこわばって来た。そして、
「馬鹿な!」
 と言った声は上ずっていた。
「落合さん」
 と、亜矢子が言った。「私、会ったんです。()(なべ)寿(とし)()さんに」
「──誰だ、それ?」
「相沢さんが一緒に暮してた人です。心配して、私に会いに来たんです。相沢さんがあなたに連れ出されて、何をさせられるか分らないと言って(おび)えていたと……」
「どうしてわしがそんなことをするんだ? 馬鹿げたことを……」
「おじいちゃんが、お母さんを殺したから」
 と、今日子が言った。
「今日子……」
「お父さんがいなくなった後、おじいちゃんがお母さんをどんな目で見てたか、小さかったけど、私にも分ってた」
 と、今日子は言った。「お母さんが、東京へ出て来たとき、おじいちゃんもすぐその後で、『土地の権利のことで会って来る人がいる』って言って、出かけてったでしょ。──でも、それだけじゃない」
 今日子の目に涙がたまっていた。
「今日子ちゃん、もう帰らないと言ってたのは……」
「うん」
 と、今日子は(うなず)いて、「私、忘れようとした。おじいちゃんと二人で暮すしかないんだもの。きっと──私の思い過しだったんだと思おうとした。でも……一年くらい前、夜お風呂に入ってて気が付いたの。おじいちゃんが土壁の壊れたところから、お風呂場を覗いてることに」
 今日子は辛そうだったが、じっと喜作を見つめて、目をそらさなかった。
「でも、私が気付いてることを、おじいちゃんに知られないように、気をつかったわ。可愛い孫なんだもの、そんな目で見ないで、って気持が伝わってくれたらって……」
 ──しばらく沈黙があった。
「救急車だ」
 サイレンが聞こえて来て、倉田が言った。
「落合さん、ともかく傷の手当が必要です。私が同行しますから」
「しかし……」
「その上で、詳しいことを、拳銃を撃ったら手に硝煙反応が残ります。あなたの手と手首を調べて反応があり、相沢さんの手に反応がなかったら、あなたが撃ってから、拳銃を相沢さんの手に握らせたことになる。──結果はごまかせませんよ」
 救急車が外で停った。
 倉田が促すと、喜作はゆっくりと立ち上った。外ではパトカーもやって来たところだった。
 亜矢子は今日子と一緒に、倉田と喜作の後から外へ出た。
 ひとみが立っていた。
「亜矢子。──聞いてたわ、中の話」
(かのう)君はもう心配ないわよ」
 と、亜矢子は言った。
 救急車に乗ろうとして、喜作は振り返ると、
「今日子、相沢のような奴は、お前の母さんにふさわしくなかった」
 と言った。「女房子供を放り出していなくなるなんて男は……。わしは邦子を守ってやろうとしたんだ。だけど……」
「さあ」
 倉田に促されて、喜作は救急車に乗り込んだ。倉田は、
「亜矢子君、後で連絡するよ」
 と言うと、続いて救急車に姿を消した。
 救急車と、それについてパトカーも走り出した。
 サイレンが遠ざかって行くと、
「──何だか、悪い夢からさめたみたい」
 と、亜矢子は言った。「今日子ちゃん、一緒に帰る?」
「うん」
 と、今日子が肯いた。
「でも──よく気が付いたね、お父さんが左ききだったって」
「あれ──噓なの」
 と、今日子が言った。
「え?」
「とっさに思い付いて、お父さん、いなくなったの、四つのときだもの。憶えてない」
「それじゃ……」
「あのままじゃ、おじいちゃんのこと、誰も疑わないで終っちゃうと思って」
 亜矢子はフウッと息をついて、
「カット! OK!」
 と言った。

 27 グラビア

「やあ、おはよう」
 もう午後だったが、撮影所に入ると、亜矢子にカメラマンの(いち)(はら)が声をかけて来た。
「今日はよろしくお願いします」
 と、亜矢子はいつになくていねいに挨拶した。
 今日、スタジオで撮るカットで、〈坂道の女〉はクランク・アップになるはずだ。
「よく撮れてたじゃないか」
「は?」
「これだよ」
 と、市原が、丸めて持っていた週刊誌を亜矢子の方へポイと投げた。
 あわてて受け取ると、
「これがどうかしたんですか?」
()()亜矢子、グラビアデビューだ」
 と言って、市原は行ってしまった。
「何よ、わけの分んないこと──」
 と言いかけて、亜矢子は手にした週刊誌をめくると、「──え?」
 と、目を丸くした。
〈男と女──スターとスクリプターは今日も一緒!〉
 というタイトル。
 グラビアページの写真は、夜、レストランから並んで出てくる、(はし)()と亜矢子だった。
「何よ、これ!」
 と、思わず大声を上げたので、近くを歩いていた人たちがみんなびっくりして振り返った。
 確かに、このレストランで、亜矢子と橋田は食事をした。ただし、二人で、というわけじゃない。
 他に、(まさ)()五十嵐(いがらし)()()と娘の(れい)()(ほん)()ルミ、(みず)(はら)アリサ、そして今日子も一緒だった。本間ルミとアリサのスケジュールの都合で、少し早いが、「打上げ」の会食だったのである。
 当然、レストランからもゾロゾロ出て来たわけで、写真に撮られている橋田と亜矢子の前後に、何人も写っているはずだ。
 それを二人の部分だけ、縦長にトリミングして、二人だけで食事したかのように見せている。
「頭に来る!」
 と、怒りまくりながら、亜矢子は現場へと向った。
 スタジオへ入って行って、亜矢子はびっくりした。
 正木がセットの中の椅子に腰をおろしているのだ。他のスタッフはまだ来ていない。
 撮影は役者の都合があって、夕方からなのだ。
「監督」
 と、亜矢子が声をかけると、正木は亜矢子の方を向こうともせず、
「終るときは終るんだな……」
 と、(つぶや)くように言った。
「どうかしたんですか?」
「亜矢子、お前は感じないか、このスタジオの空間を飛び交った、数々のセリフの余韻を。映画作りにかけた情熱の熱いかけらを……」
「監督……」
「一本、映画を撮る度に、俺は()()を取り、死へ近付いて行く。そうだろう」
「いやなこと言わないで下さいよ」
「俺は二十代のころ、『三十五までに傑作を撮って死ぬ。そして夭折の天才と呼ばれるんだ』と思っていた」
「もう手遅れですよ。四十五じゃ、今死んでも(よう)(せつ)とは言いません」
 正木は渋い顔で、
「デリカシーのない奴だ」
 と、亜矢子をにらんだ。
「監督は、日本の映画監督の長寿記録を更新して、百歳まで撮り続けるんです。そういう運命なんですよ」
「お前も付合うか?」
「はい、スクリプターのミイラになって、監督のそばに座ってます」
 正木は豪快に笑った。亜矢子も笑って、
「夭折する人の笑い声じゃないですね」
「そんなことより、真愛はどうしてる?」
「大変ですよ。TVのワイドショーから週刊誌、スポーツ紙……。入院してる()(さき)さんの無実が明らかになって、この映画の話がかすんでます」
「そうか。しかし良かった」
「真実が明らかになるって、容易なことじゃないんですね」
 と、亜矢子は言った。「三崎さんが刑務所で過した日々は返って来ません」
「全くだ。──一応裁判のやり直しがあるんだろう?」
「そうらしいです。落合喜作さんが、罪を認めてますから、そう手間はかからないでしょうけど」
「あの今日子ちゃんって子はどうした? この前は元気に飯を食べてたな」
「これですね」
 亜矢子がグラビアの写真を見せると、正木は笑って、
「器用なことをするもんだな」
「笑いごとじゃありませんよ」
「しかし、今日子ちゃんは、両親を祖父に殺されたわけだな。他に身寄りはあるのか?」
「もう十六歳だから、一人で生きていく、って言ってます」
(けな)()な子だな」
「でも、お涙ちょうだいとは無縁ですよ。『一人で暮してたら、いくらでも彼氏が作れる!』って喜んでました」
「しかし、高校生だぞ」
「もちろん、内心は色々複雑ですよ。たった一人のおじいちゃんが、自分の入浴してるところを覗いてた、なんて。男不信になりますよね」
「あのじいさんはもう八十くらいだったろ? いくつになっても男は男だ。お前が悲劇の起るのを防いだのか」
「いいえ。でも──家に帰りたがらない今日子ちゃんの様子が、何だかおかしいな、とは思ってました。それと……」
「何だ?」
「喜作さんが泊ってたビジネスホテルから姿を消したとき、室内に、喜作さんの衣類や持物は散らかってましたが、ホテルの物は一つも壊れてませんでした」
 と、亜矢子は言った。「おかしいでしょ? 本当にさらわれそうになって暴れたら、花びんやコップの一つや二つ、壊れてますよ。でも、そこはやっぱり年寄りなんですね、人様の物を壊してはいけない、って思ったんでしょう。だから、これって狂言なんじゃないかと思ってました。それで喜作さんのことを疑ってみたんです」
「ともかく、あの今日子って子はお前を慕ってるらしいじゃないか」
「お姉さん代りでしょうかね」
 と、亜矢子は言ってから、ジロッと正木をにらんで、「『お母さん代り』だなんて言わないで下さいよ」
「お前はさすがに俺の考えてることがよく分るな」
「ともかく──」
 と、亜矢子は深呼吸をして、「今日でクランク・アップです!」
「他のこともアップでいいのか」
「何ですか、他のことって」
「このグラビアだ」
「そんな──。週刊誌が勝手に書いてるだけですよ」
「しかし、あの席でも、橋田はお前の隣に座って、一番よくしゃべってたぞ」
「気が楽なんじゃないですか? こっちはしがないスクリプターですから」
 と、亜矢子は言った。

「──よし、OK!」
 正木がディレクターチェアから立ち上って言った。
「このカットで、〈坂道の女〉、すべてクランク・アップです!」
 と、()西(さい)が言って、拍手が起る。
 今日はいくらか人が少なめだが、主役はもちろん、シナリオの()(ばた)弥生(やよい)、娘の新スター、戸畑佳()()()、そしてスポンサーの本間ルミも来ていた。
 ルミは、クランク・アップの集合写真に、
「私、これに一度入りたかったの!」
 と、大喜びで、正木を、真愛と二人で挟んで座った。
 横長のパネルに〈坂道の女〉のタイトル、そして今日の日付、〈正木組〉の名──。
 これでまた、一本の映画が終った。
 いつも通り、控えめに端っこに立った亜矢子が、カメラマンの市原がカメラのセットをするのを見ていると、ぐいと手をつかまれて、びっくりした。
「橋田さん!」
 ぐいぐい引張られて、橋田の隣に座らされてしまった。
 冷やかすような拍手がスタッフから起きる。
「やめて下さいよ……」
 と言って、こんな所でもめるのもいやで、仕方なく、できるだけ細くなって──かなり大変だったが──写真におさまることになった。
「──何考えてるんだろ」
 と、亜矢子は片付けながら文句を言った。
「いいじゃないか。橋田さん、独身だぜ」
 と、一緒に片付けながら、葛西が言った。
「放っといて下さい」
 もし、橋田が

なら? ──これきりでなく、何か言ってくるだろう。
 亜矢子には役者たちと違って、これから作品を仕上げるためのポストプロダクションがある。これでのんびりできるわけじゃないのである。
「──今回もフィルムで撮れた!」
 と、正木は嬉しそうで、「君のおかげだ! ありがとう!」
 と、本間ルミの手を固く握った。
 デジタルの時代、フィルムでの撮影は高くつくのだ。ルミが快く出資してくれたことで、フィルムでの撮影が可能になった。
「おい、亜矢子」
「はいはい。またフィルムの山と格闘ですね」
「うん、カンヌかヴェネツィアにでも招待されたら、お前も連れてってやる」
「あてにしないで待ってます」
 と、亜矢子は言い返した。

 撮影所を出るのは大分遅くなった。
 スクリプターとしては、やっておかなくてはならない仕事が色々ある。明日のために、今夜の内に用意しておく方が楽なのだ。
 撮影所の門を出ると、少し離れた所に五十嵐真愛が立っているのが目に入った。とっくに帰ったと思っていた。
 声をかけようかと思うと、車が走って来て真愛のそばに寄せて停った。真愛が助手席に素早く乗り込む。
「え? あの車……」
 何度か見かけていた、橋田の車である。
 橋田の車に真愛が? でも、橋田と真愛はスタジオの中でも一緒だったのだ。
 どうしてわざわざ……。
 橋田の車が走り出すのを見送ると、そこへ空車のタクシーが来た。亜矢子はとっさに停めると、
「前の車について行って」
 と言っていた。
 橋田と真愛? ──映画の中では恋人同士だが、現実には、真愛には小さな礼子がいるから、さっさと帰っていて、ほとんど二人で帰ることはなかったろう。
 では、どうしてこんな遅くに?
 亜矢子は、いささか気は(とが)めたが、やはり気になって仕方なかった。
 しかし──誤解のしようがなくなった。
 橋田の車は、ホテルの駐車場へと入って行ったのである。
 亜矢子もタクシーを降りた。
「そんな……」
 でも、いくら何でもスターなのだ。こんなホテルに入ってほしくない。泊るのではなく、何時間かを過すだけ、ということなのだろうが、それにしても……。
 亜矢子は、どうしようかと迷った。
 橋田が何を考えているのか、気になった。でも、二人でいるところへ、妻でも恋人でもない身で乗り込んで行くわけにはいかない。
「まあ……放っとくしかないか」
 と、自分へ言い聞かせるように呟いた。
 ここで、二人が出てくるのをボーッと待ってるなんて、馬鹿みたいだ。
 それでも、しばらくウロウロしてから、思い切って歩き出した。
 そこへ──小型車が一台、走って来ると、ホテルの出入口の斜め前に停った。道の反対側で、ライトを消したが、誰も降りて来ない。
 何だか、いやな予感がした。それに、あの車、どこかで見たような気がする。
 隠れて様子を見ていると、小型車のドアが開いて、ジャンパーをはおった男が、一眼レフのカメラを手に降りて来た。
 亜矢子も顔を知っている、フリーのカメラマンで、記者会見やロケ現場にときどき現われる。
 男はホテルの入口を入って行くと、少しして出て来て、小型車の中に戻った。
 どういうことか、見当がついた。
 このホテルの誰かから、真愛と橋田のことを聞いたのだろう。いや、その誰かがカメラマンへ売り込んだのかもしれない。
 二人がホテルへ入って来たと知らされてカメラマンが急いで駆けつけて来た。そして今、ホテルの人間に謝礼を払って来たのだろう。
「それって、まずいわよね」
 と、亜矢子は呟いた。
 週刊誌やスポーツ紙は、橋田と亜矢子の仲を書き立てている。しかし、ここで、橋田と真愛の二人が車で出て来るのを撮られたら、スクープになる。
 今、真愛は、無実の恋人を待ち続けた、「美談のヒロイン」になっているのだ。それなのに……。
 でも──どうしよう? まさか、あのカメラマンをぶん殴ってくるわけにもいかない。
 すると、男が車を出て、駆け出して行ったのである。あの先を曲るとコンビニがある。飲物か何か買いに行ったのだろう。
 亜矢子は思い切ってホテルへと走って行った。車、車……。
 駐車場は地下にあった。橋田の車は容易に見付かった。駐車場は半分くらい埋っている。
 ここで待つしかない。──何だか(むな)しい気がしたが、仕方ない。
 スクリプターは待つのに慣れている。それでも、薄暗い駐車場での一時間は長く感じられた……。
 階段を下りて来る足音がして、亜矢子は他の車のかげに身を隠した。
「──いつも送ってもらって、悪いわね」
 真愛の声だ。
「それぐらいは……」
 橋田が、真愛の肩を抱いて、駐車場へ入って来た。
 二人は何となく重苦しい様子で黙っていたが、突然真愛が橋田に抱きついてキスした。息づかいが聞こえるようなキスだった。
「──もう、無理なんだね」
 と、橋田が言った。
「どこかで思い切らないと……」
「分ってるよ」
「あの人を今見捨てるわけにはいかないわ。あんなに苦しんだ人を……」
「もちろんだ。礼子ちゃんの父親なんだからな」
「ええ……。親子で暮せるんですもの」
 真愛は涙を拭って、「でも、あなたと出会えて良かった……」
「うん、僕もだ」
「ただ……気が咎めるわ。亜矢子さんのことは」
「そうだな。申し訳ないことをしたよ。でもきっと彼女は分ってくれるさ」
「謝っておいてね」
「いや、何も言わない方がいい。亜矢子君も忙しさに紛れて忘れていくさ」
「そうかしら……。そうね、きっと」
 ──勝手なこと言って!
 要するにカモフラージュに使われたってわけだ。
 でも、今は、腹を立ててる場合じゃない。
「さあ、車に」
 と、橋田がドアを開ける。
「だめですよ!」
 と、亜矢子が声をかけると、真愛がびっくりして声を上げた。
「──亜矢子さん!」
「表で、お二人を狙ってカメラマンが待ってます」
 橋田と真愛は言葉を失って、立ち尽くしていた。亜矢子は腰に手を当てて、
「ホテルを使うにしても、同じ所を使わないで下さいよ。いずれ目につきます」
「どうしましょう?」
 と、真愛が橋田を見る。
「私が助手席に座ります」
 と、亜矢子は言った。「真愛さんは後ろの席で身を伏せてて下さい」
「亜矢子君──」
「行きましょう」
 亜矢子は助手席に座ってシートベルトをした。真愛が後部座席で横になる。
「それじゃ……」
 橋田がエンジンをかける。車の外ではカメラマンがカメラを構えているだろう。
「行くよ」
 と言うと、橋田が車を出した。
 駐車場から出ると、パッと正面からストロボが光った。
 橋田がスピードを上げ、ホテルを後にする。
 五、六分走って、橋田は車を停めた。
「──今ごろ、撮ったカットを見て、カメラマンがびっくりしてますよ」
 と、亜矢子が言った。「スクープと思ったのが、よそのグラビアと同じじゃね」
「亜矢子さん、ありがとう」
 真愛が後ろの座席で起き上って言った。
「たまたまこの車に乗るのを見かけたんです。ラッキーだったんですよ」
 亜矢子はそう言って、「どこか、タクシー拾えそうな所で降ろして下さい」
「いや、送って行くよ」
 と、橋田が言った。
「いいですよ。お二人の、最後のドライブなんでしょ」
「彼女はこの近くで降りるんだ」
「ええ、礼子をお友達の所に預けてるから」
「でも、やっぱり……」
 亜矢子は首を振って、「橋田さんには言いたいことがあるけど、二人のときに言います。その先で、広い通りに出ますよね。そこで」
「分った」
 広い通りに出た所で、亜矢子は車を降りた。真愛が代って助手席にかけると、
「ありがとう、亜矢子さん」
 と、もう一度言った。
「監督には内緒ですよ」
 と、亜矢子は言った。
「ええ、分ってますわ」
「じゃ、おやすみなさい」
 車が走り去るのを見送って、亜矢子は、
「私、怒ってもいいのよね」
 と呟いた。
 でも、これで映画にとってマイナスのスキャンダルが明るみに出なくてすんだ。そのことの方にホッとしている亜矢子だった。
「スクリプターは損な商売」
 ちょうど空車が来て、亜矢子は手を上げた。

 エピローグ

「やあ! これはこれは!」
 何だか、やたら大きな声で、その男は亜矢子たちのテーブルへやって来ると、「戸畑さん、すばらしいじゃないですか! 〈坂道の女〉、見ましたよ! いや、もう立派に一人前のシナリオライターですね。僕も嬉しいですよ!」
 ホテルのラウンジでテーブルを囲んでいた面々は、みんな呆気に取られていた。
 戸畑弥生に、なれなれしく声をかけて来たのは──。
(まる)(やま)さん」
 と、戸畑弥生は呆れて、「何ですか、今ごろ。あなた、撮影現場に邪魔しに来たんじゃないですか」
 弥生のシナリオを没にしたプロデューサーだ。
「いや、まあ色々ありましたが、水に流しましょう。映画の世界は、もともと水ものですからね、ハハハ」
「そうですか」
「これから他の仕事でご一緒することもあるかもしれませんからね。ま、よろしくお願いしますよ!」
 何でも冗談にしてしまえば、それですむ。こういう人間が適当に泳いでいける世界でもあるのは確かだ。しかし、
「水ものですか」
 と、弥生は言うと、水のコップを手に立ち上り、丸山の頭から一気にかけてやった。
 丸山は目をパチクリさせて、
「いや、みごとな洗礼でした! 失礼!」
 と、ラウンジを出て行った。
「真面目になるってことを忘れてるのね」
 と、亜矢子が言った。
〈坂道の女〉は公開されて、上々の成績を上げていた。大ヒットとまではいかなくても、本間ルミにいくらかの利益をもたらす程度には入っていた。
 今回は、新たに増えた上映館での舞台挨拶があって、その後、ここでケーキを食べている。
 正木はもちろん、五十嵐真愛と橋田、そして戸畑佳世子も母親と一緒に参加していた。
 亜矢子は、もちろん舞台には出ないが、挨拶の段取りを確認に来ていたのである。
「──私、まず大学を出てから、演技の基礎をやろうと思います」
 と、佳世子は言った。
「うん、大学優先なのはいいことだ」
 と、正木は言った。「ただ、夏休みとかに、ちょっとした仕事でもやっておくといい。現場の空気を忘れないためにもな」
「また監督の映画に使って下さい」
「まだ何も決ってない。そのときは考えるよ」
 正木は上機嫌だ。〈坂道の女〉の成績なら、次の企画も通るだろう。
「──亜矢子、お前、次の仕事は決ってるのか」
「いいえ、少し休みます。私、映画の仕事だけじゃなくて、探偵までやってるので」
「本当に……」
 真愛が言った。「亜矢子さんにはお世話に……」
「終ったことは忘れました。でないと、スクリプターはやってけないんです」
 橋田は黙ってコーヒーを飲んでいた。
 橋田と亜矢子の「密会」も、アッという間にワイドショーから消えた。
「三崎さんの裁判のやり直しも決ったんでしょ?」
 と、佳世子が言った。
「ええ。とりあえず病み上りですから、三崎も」
 真愛の笑顔には、もう迷いはなかった。
「亜矢子、どこか旅行でもして来たらどうだ?」
 と、正木が言った。
「でも、今日子ちゃんがいますから。こっちの高校へ編入する手続きしてるんです」
 正木は何となく亜矢子の「失恋」に気付いているようだった。
「監督、取材の申し込みが一件──」
 と、亜矢子が言いかけると、
「亜矢子!」
 と、呼ぶ声がした。
「お母さん!」
 九州で仕事をしている母、東風茜(あかね)がテーブルの間をやって来る。
「どうしたの、急に?」
「ちょっとお話しがあってね。正木さんに」
「私に?」
「ええ。話があるのは私じゃないんですが、ちょっと照れくさいって言うんでね」
 少し遅れてラウンジに入って来たのは、(おお)()()だった。
「どうもその節は……」
 と、大和田はいつになく遠慮がちで、「座っても?」
「どうぞ」
 と、正木は言った。「そちらの映画はどうなってます?」
 若い妻の(かい)(ばら)エリを主役にSFファンタジー映画を撮る、という話になっていた。エリは十八。大和田にとっちゃ可愛くてたよりないのだろう。
「いや、そのことで伺ったんです」
 と、大和田が言った。「今、撮影はストップしてましてな」
「はあ」
 と、亜矢子は眉をひそめて、「まさか大和田さん──」
「やはり、正木さんに撮ってもらいたいんです」
「無理ですよ」
 と、亜矢子は苦笑して、「監督にそんな映画──」
「いや、どんな映画でもいい。任せます」
 大和田の言葉に、誰もが面食らっている。
「どういう意味です?」
 と、正木が訊くと、茜が代って、
「若い奥さんがおめでたなの」
 と言った。
「え?」
 と、亜矢子が思わず声を上げた。「じゃ、出られない?」
「スターになるのは後でもいい」
 と、大和田は言った。「俺も若くない。ぜひ子供を抱いてみたい」
「それで……」
「実際、まだそう撮ってるわけじゃない。しかし、この映画のために、キャスト、スタッフはスケジュールを空けてる。このメンバーを使って、正木さんに好きなものを撮ってほしい。製作費はうちが出す」
 大和田はファイルに入れた書類を正木の前に置いた。
「そんな突然に……」
 と、亜矢子は言いかけたが、正木がそのスタッフ、キャストの表を本気で眺めているのを見て、「まさか……」
 と、口の中で呟いた。
 もちろん、製作中止となれば、役者もスタッフも困ってしまう。だからといって……。
 正木が、キャストの表を弥生に渡して、
「どうだ」
 と言った。「その役者たちに

、シナリオを書けるか」
 弥生は緊張した面持ちでその表を見ていたが、
「──やってみます」
 と言ったとき、目が輝いていた。「二週間下さい」
「十日で書け」
「はい」
「ありがたい!」
 と、大和田がホッと息をついて、「これで俺の顔も立つ」
「おい、亜矢子」
 亜矢子の方にスタッフの表が回って来る。
「どう思う?」
「いつもの人が入らないと……。チーフ助監督とカメラは、少なくとも……」
「連絡してみてくれ」
「はい……」
 ついさっき、「旅行に行け」とか言っていて、すっかり忘れてる!
 しかし、こんな時代だ。なかなか撮る機会を与えられない監督も少なくない中、転り込んで来たチャンスは逃したくないだろう。
「電話して来ます」
 亜矢子はラウンジを出ると、ロビーのソファにかけて、葛西と市原に連絡を取った。
「──じゃ、いいんですね? 具体的なスケジュールは追って知らせます。──え? 何を撮るのか、って? ──知りませんよ、そんなこと!」
 向うで呆れている顔を想像して、亜矢子は通話を切ると、呟いた。
「用意──スタート!」

(終)

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