第2話

文字数 7,304文字

2 通知
 
 いつもなら、舌つづみを打つお気に入りの定食も、全く味が分らなかった。
 口へ入れても、しっかりかんでも、味がしない。――こんなことって、あるのかしら?
 もちろん、原因は分っている。
 連絡が来ない。待っているのだ。もう何日も。
 戸畑弥生は、食堂の中を見回した。
 もしかして、偶然、そこにがやって来るかもしれない、と……。いや、彼は弥生がここでよく夕食をとることを知っている。
 その気なら、この時間、ここにいるかもしれない、と思ってやって来てもいいのだ。でも――そんなことは起らないだろう。
 定食の盆のすぐそばに、ケータイが置いてある。いつ鳴っても、すぐに出られるように。
 しかし、ケータイは沈黙しているばかりだった。
「そんなこと……」
 と、弥生は呟いた。
 あれほどしっかり約束してくれたのだ。
「百パーセント、いや百二十パーセント確実ですよ」
 と、彼は言ってくれた。
 あのときの胸のときめき……。
 弥生の体中の血がわき立つようだった。
 しかし――この一週間、彼、丸山とは全く連絡が取れていない。
 むろん、ケータイには何度もかけている。ほとんど一時間ごとに。
 しかし、つながらない。そして、メールも送っている。返事はない。
 彼の会社へ電話しても、
「出かけております」
 と、女性社員が面倒くさそうに言うばかりだ。
「いつ戻られますか?」
 と訊いても、
「さあ、分りません」
「じゃ、伝えて下さい。戸畑弥生ですけど、連絡して下さい、と」
 何度も、同じことを頼んだ。しかし、連絡は来ない。
 五回も六回も伝言を頼むので、
「いい加減にして下さい」
 と、切られてしまった。
 これは、どう考えてもいい状況とは言えない。
 でも――そうよ。このバッグの中には、もう印刷して製本されたシナリオが入っている。
 映画化が決定して、主演のスターも「押えてある」のだ。
 今さら……。決定が覆るなんてこと、あるわけがない。
 戸畑弥生は今、四十八歳。――この十年余り、シナリオ教室に通い、真剣に勉強して来た。
 課題をこなし、講師からは、
「戸畑さんはプロまであと一歩だよ」
 と言われた。
 そして、ついに、一本の電話が――。
「〈N映画〉のプロデューサーで、丸山と申します」
 人当りのいい、穏やかな紳士だった。
 丸山和貴。――弥生とほぼ同世代で、雑談していても話がすぐ通じた。
「シナリオコンクールに佳作入選した作品が面白いと思いましてね」
 と、丸山は言った。「いくつか直していただければ……」
 むろん、弥生は数日で手直しして丸山に渡した。
 手直しは三度くり返されたが、
「これで話を進めてみます」
 と言われた弥生は、胸がときめいた。
 それまでは、「あてにするまい」と自分へ言い聞かせていたのだ。
 だめになったとき、がっかりしたくない。だから、無理に「きっと、話は立ち消えになる」と思い込もうとしていた。
 そして一ヵ月。丸山からケータイへ、
「企画が通りました」
 と、連絡が入ったのだ。
 信じられない思いで、弥生は、
「あの――確かなんでしょうか?」
 と訊いた。
「百パーセント、いや百二十パーセント、確実ですよ」
 丸山は即座にそう言った……。
 ケータイを持つ手が震えた。
 とうとう……。私のシナリオが映画になる!
 弥生は本当にその場で飛び上って喜んだ。
 それから、何度も丸山と会って、打ち合せた。
 ロケ地をどこにするか、映画の時代設定をどうするか、主演女優の衣裳のデザイナーまで相談を受けた。
 夢のような日々が、ひと月余り続いた。そして、突然の沈黙。
 丸山が病気でもしたのかと心配した。しかし、会社へ電話すると、「出勤している」が「出かけていて」と言われる。
 ――定食を食べ終えていた。いつの間にか。
 もう夜十時近い。
 ここにいても仕方ない。――弥生は支払いをしようと、テーブルの伝票へ手を伸した。
 そのとき、メールの着信があった。
 素早く手に取る。――丸山からだ!
 ドキドキしながら、メールを読む。いや、読むほどでもない一行。
〈企画、流れました〉

 いつ、店を出たのか。
 気が付くと、弥生は見覚えのない団地の中を歩いていた。
 腕時計を見ると、十一時半になろうとしている。どれくらい歩いて来たのだろう?
 風が冷たかった。そう感じたのも、あのメールの後、初めてだった。
 団地の中は、誰もいなかった。こんな時間だ。もうどこも眠りについているのだろう……。
 高層の建物に囲まれて、公園やベンチ、子供の遊び場がある。砂場、ブランコ……。
 そう。――佳世子を、こういう所で遊ばせたかった。
 でも、佳世子が小さいころ、家は貧しくて、古いアパートの一室で暮していた。近くに公園などなかった。
「――何を考えてるの」
 と、弥生は呟いた。
 佳世子はもう二十歳で、家を出て一人暮しをしている。
 そして――夫は、外に女を作って、今はほとんど帰って来ない。
 自分の力で。自分で生きていく。
 それが、弥生の願いだった。切実な。
 映画化される。私のシナリオが。
 その希望が、弥生を支えていたのだ。しかし、結局、泡のように弾けて消えてしまった……。
「呆れたもんね」
 と、自分を笑ってみる。
 丸山にとっては、素人の書いたシナリオ一本、没にすることなど、日常のささいなことに過ぎないのだろう。
 それを、本気にして、真に受けて、夢をかけていた……。
 団地の中をぶらぶらと歩いて行くと、車の音がした。
 タクシーが一台、団地の入口に停った。
 中のスペースには入って来られないのだ。
「高いな、畜生……」
 深夜料金で、相当取られたらしい。コートをはおったその男は、真直ぐ歩けないほど酔っているようだった。
 弥生は酔っ払いが嫌いだった。やり過ごそうとして、建物の暗がりに入ったが――。
「誰だ?」
 と、その男は弥生に気付いて、「何だよ、そんな所に隠れて……」
 フラフラと寄って来そうにしたので、弥生はさっさと男のそばを抜けて出て行こうとした。
「おい、ちょっと待てよ」
 男が手を伸して、弥生の腕をつかんだ。
「やめて下さい」
 と、弥生は振り放そうとしたが、男は逆に面白がったのか、しっかりと弥生をつかんで、
「逃げなくたって、いいだろ……。何かやましいことでもあんのか?」
「ここの者じゃないんです。放っといて」
 と、弥生は言った。
「ここの者じゃない? じゃ、どうしてこんな夜中にここにいるんだ?」
「あなたに関係ないでしょ」
「そうはいかねえ……。俺はね、この団地の役員なんだ。怪しい奴がいたら調べなきゃな。そうだろ?」
 酒くさい息に苛々して、
「放して! 失礼でしょ!」
「へへ……。そうヒステリー起すなよ。俺の女房とそっくりだな。女ってどうして似てんだ?」
「酔っ払いだって似てますよ」
 と言い返した。
「違えねえ……。おい、もしかして、男を捜しに来たのか?」
「何ですって?」
「ここんとこ、何人か出没してるんだ。この団地も、単身赴任の男が結構いるからな、女を呼んだりしてさ……」
「馬鹿にしないで!」
 カッとなって、男を突き放すと、弥生は駆け出した。夢中で、団地の外へと走って行く。
 男は追って来なかった。その代り、団地の中に笑い声が響いた。弥生を頭から馬鹿にし切った笑い声が、どこまでも弥生を追いかけて来るようだった。

 お前にシナリオなんて書けるもんか。
 そう言って笑った夫の顔を、弥生ははっきり憶えている。そんな夫を見返してやりたい。
 その思いが、弥生を突き動かす力の一つになった。だから、丸山から確実に映画化されると聞いたとき、弥生は多少の危うさを覚えながらも、夫に、
「映画になるのよ、私のシナリオが!」
 と、叩きつけるように言ったのだった。「私に謝ってちょうだい!」
 それが……。
「やっぱりだめだった」
 と、どんな顔で言えばいいのだろう。
 夫が何と言うか。夫の嘲り笑う顔が目に浮んだ。――何と言われても、弥生には言い返すすべがない。
 ゴーッという地響きのような音。
 夜中も絶えることのない車の流れ。それも大型トラックがひっきりなしに行き交う、広い国道へ出た。
 国道をまたぐ歩道橋を、どこへ行くというあてもなく、弥生は上って行った。
 そして、ちょうど歩道橋の真中辺りで、下を駆け抜ける車の巻き起す風を感じながら、じっと見下ろしていた。
 ここから……。そう、飛び下りたら、アッと思う間もなく、トラックにひかれてしまう。痛いとか苦しいと感じる暇もないだろう。
 そうだわ。――夫に馬鹿にされ、笑われるくらいなら、ここで死んでしまった方がいい。
 これ以上生きていたって、何もいいことなんか、ありはしない。
 手すりは胸まであって、乗り越えるのはちょっと大変だが、できないことはない。
 大して迷うことも、ためらうこともなく、弥生はバッグを足下へ落とし、手すりに両手をかけた。
 すると、「!」と、声がして、
「はい、そこまで」
 何だろう? 弥生はそこに立っている女性が幻かしらと思った。
「いけませんよ」
 と、その女性は言った。「あなただけじゃなくて、あなたをひいた運転手さんも苦しみます。急ブレーキをかけて、そのせいで追突する車が出るでしょう。大事故になったら、あなたは人を何人も殺すことになります」
 弥生は呆然として、
「そこまでは……考えませんでした」
 と言った。
「そりゃそうですよね」
 と、その女性は軽い口調で言って、「死にたいって思いつめてる人に、他の人のことまで考えてる余裕はない。よく分ります。でも、ちょっと考えたら。――今、言ったみたいに、何人も死者が出るかもしれません」
「ええ……。そうですね」
 と、弥生は肯いた。「考えが足りませんでした」
 そして、弥生はふと、
「今、『カット!』っておっしゃいました?」
 と訊いた。
「ええ、ついで」
 と、その女性は笑って、「仕事柄、いつもそれを聞いてるもんですからね」
「お仕事って……」
「映画の現場で働いてます」
「まあ。――どんなお仕事を?」
「私、スクリプターです。東風亜矢子といいます」
「〈こち〉って、東の風と書く……」
「よくご存知ですね」
「私……シナリオを書いてて」
「あら。――そんな人がどうして死のうと?」
「それが……シナリオのせいなんです」
「それじゃ、いかがですか? 近くでコーヒーでも?」
「そんなこと……」
「紅茶でもいいですよ。ココアでも。アルコール以外ならね」
 弥生は、ついつられて微笑むと、
「じゃ、カフェ・オ・レで」
 と言った。

 3 生死の問題

「そういうことですか」
 と、亜矢子はコーヒーを飲みながら言った。「珍しい話じゃありませんね」
「そうなんでしょうね」
 と、弥生は肯いて、「信じてしまってた自分が馬鹿だったんだって、今になれば……」
「それは違いますよ」
 と、亜矢子が言った。
 弥生は戸惑って、
「え? でも……」
「よくあることです。それは事実です。でも、よくあるからって、正しいわけじゃありません」
「はあ……」
「そこまで断言して、あなたに期待させておいて、どんな事情にせよそれがだめになったら、人間としてあなたに詫びるべきです。あなたは少しも悪くありませんし、馬鹿でもありません。馬鹿は、そのプロデューサーの方です」
 弥生はしばらく黙っていた。亜矢子の言葉を、じっとかみしめていたが……。
「――ありがとう」
 と、ひと言。大粒の涙が頬を伝った。「映画の世界におられる方から、そう言われたら……。本当に救われた気がします」
 そして、ハンカチを取り出して、涙を拭いた。
「私は、もちろん映画好きですよ」
 と、亜矢子は言った。「でも、映画の世界が、ときどきそういういやな顔を見せるときがあって、そのときは、腹が立ちます。映画を汚されてる気がして」
「東風さん……」
「亜矢子で結構です」
「亜矢子さん。私を救って下さって、ありがとう」
「いいえ。私はちょっと手を貸しただけ。救ったのは、あなた自身ですよ」
「私……やっぱり諦めないで、シナリオを書こうと思います」
 と、弥生は言った。
「そうですよ」
 弥生は、何だかとても愉快な気分になって、笑ってしまった。
 そして、亜矢子から、現場での色々なエピソードを聞いて、目を輝かせたのである。
「――じゃ、正木悠介監督についておられるんですか」
「ええ。もちろん、他の現場につくこともありますけど」
「いいお仕事されてますよね、正木監督」
「伝えときます。喜びますよ」
 と、亜矢子は言って、「ところで、そのシナリオって、今お持ちですか?」
「え? ――ええ、ここに」
 と、バッグから取り出す。
「見せていただいても? ――〈決定稿〉まで印刷してあるんですね。これなら信用しますよ」
 亜矢子は、シナリオの初めの数ページを読んで、「このシナリオ、お借りしてもいいですか?」
 と訊いた。
「ええ、もちろん」
「正木監督に読んでみてもらいます。何かアドバイスができるかもしれないし」
「まあ! もし目を通して下さるのなら、それだけで光栄ですわ」
 弥生は声を弾ませた。「どんなにけなされても構いません。亜矢子さんのご意見も聞かせていただければ嬉しいです」
「スクリプターはシナリオなんか分りませんよ。――これって、多少は謙遜ですけど」
 二人は一緒に笑った。
 弥生はすっかり晴れ晴れとした気分になっていた。ついさっき、死のうとしたことが嘘のようだ。
「そうですね、ただ……」
 と、亜矢子はシナリオの表紙を見て、「この〈別れに涙はいらない〉っていうタイトルはちょっと……。どこかで聞いたような気がしません? 演歌にでもありそうな」
「そうですよね。私もいやだったんですけど、プロデューサーの丸山さんがつけたんです」
「センス、ゼロ」
 と、亜矢子はひと言で片付けて、「映画、実現しなくて良かったかもしれませんよ」
「私も、何だかそんな気がして来ました」
「私、明日、別の打ち合せで撮影所に行くんですけど、良かったら来ませんか? 現場を覗くのも面白いでしょ」
「いいんですか?」
 弥生の胸は、まるで女学生のようにときめいていた……。

 やっぱり、帰ってない。
 暗いわが家の玄関を入りながら、弥生は思った。
 夫は、今夜も若いの所に泊っているのだろう。――しかし、弥生は今、ふしぎと腹が立たなかった。
 あの、何だか妙に元気で明るい人――東風亜矢子との出会いが、弥生の中に重苦しく沈んでいたものを取り払ってくれたのだ。
 今、弥生は夫に向って、
「あの映画の企画、ポシャっちゃったのよ」
 と、平気で言える気がした。
 それ見ろ、と言われても、笑って受け流せる自分がいた。
 残念だわ、言ってやれなくて。
 居間の明りを点けて、弥生は、
「キャッ!」
 と、叫び声を上げた。
 ソファに、夫、戸畑進也が座っていたのだ。
「――びっくりした!」
 と、胸に手を当てて、「どうしたの? 真暗な中で」
 戸畑は、初めて弥生に気付いたように、
「お前か」
 と言った。
「他に帰ってくる人なんかいないでしょ。佳世子はマンションだし」
 夫は、背広にネクタイのままだった。――弥生の見たことのないネクタイだ。大方、彼女が選んでくれたのだろう。
「こんな時間まで……。もう寝たら?」
 と、弥生は言った。「お風呂は?」
 戸畑は、妻の言っていることが聞こえていないかのように、
「明日は会社へ行かない」
 と言った。
「お休み? どこか具合悪いの?」
 五十五歳の今まで、めったに平日に休んだことはない。
「いや……。もう寝る」
 立ち上って、戸畑はフラッとよろけた。
「あなた! 大丈夫?」
 弥生はあわてて夫を支えた。
「うん……。ずっと座ってたんで、めまいがしただけだ」
 ひどく疲れて見えた。こんな夫を見たことがない気がした。
「少し休むといいわ。休暇なんかいくらでも余ってるでしょ」
 よろけるように歩き出した戸畑は、足を止めると、弥生に背を向けたまま、
「もう会社には行かない」
 と言った。
「――どういうこと?」
「リストラされた」
 戸畑はそう言って、「黙っててすまん」
「まあ……。あと五年なのに」
「ともかく……終ったんだ」
 張りのない声には、支えを失った人間の心細さがにじんでいた。
「そう。――ね、あなた」
 と、弥生は言った。「私の方もね、私のシナリオの映画化の話、流れちゃったの。だめになったのよ。悪いことって、一緒に起るのね」
 夫への同情か、ついそう言っていた。
「そうか。――残念だったな」
 そう言うと、戸畑は居間を出て行った。
 上着がスルッと脱げて、床に落ちる。戸畑は全く気付いていなかった。
 弥生は上着を拾って、それ以上何も言わなかった。
「どうなるのかしら……」
 多少の貯金はある。しばらくは何とかなるだろう。
 弥生は、夫の上着を、玄関のコート掛けに引っかけて、居間へ戻ったが――。
「あら……」
 右手がベタつくと思って見ると、赤く汚れている。これって……。
「まさか。――血?」
 玄関の明りを点けて、夫の上着を手に取る。右手の袖口が赤黒く汚れていた。
 どう見ても血のようだが。
 しかし、夫にけがした様子はなかった。
「何なの、一体……」
 弥生は台所へ行って、石鹸で手についた血らしいものを洗い落とした。
「――何があったの?」
 そばにいない夫へ、弥生は訊いていた。


(第3話につづく)
※【目次】をご覧ください。

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み