第7話
文字数 8,603文字
9 発見
「あちこち訊いてみました」
と、亜矢子は言った。「〈五十嵐真愛、三十九歳。二十八歳で劇団の養成所へ入り、その後、〈S〉という小さな劇団で活動〉ということです」
「そうか」
正木は肯いて、「芝居は確かなんだな」
訊いているのではない。亜矢子の目には信頼を置いている。
「その舞台は――」
「今日までです」
と、亜矢子は言った。「六時開演ですから、充分間に合います」
「分った」
「チケット2枚、買って来ました」
もちろん、そこまでやってあることは、正木も承知している。
写真も何もないが、生で見るのが一番である。
スタッフルームで話していると、カメラマンの市原がやって来た。
「監督、メインのレンズはどうしますか」
と、いきなり訊く。
「標準でいい。できるだけ、現実の感じで行く」
「分りました。照明も……」
「うん。――おい、市原、お前も見てくれ」
亜矢子が見て来た女優の話をすると、
「見たいですね。顔立ちとか、ライティングを工夫しますから」
「じゃ、一緒に来い」
三人で、昨日亜矢子が足を運んだ小さな劇場へと向う。
「チケット、2枚しかないんだろ」
と、タクシーの中で正木が言った。
「一枚ぐらい、たぶん。――取れなければ、私、立ち見でも、階段にでも座ってますよ」
誰よりも、監督とカメラマンの「眼」にどう映るか、である。
着いてみると、最終日ということもあってか、当日券を求める客が十人以上並んでいた。
「おい、亜矢子――」
「何とかします。お二人、入って下さい」
結局、立ち見になったが、何とか入れてもらうことはできた。
舞台は一時間半で、休憩はなし。お尻の痛くなりそうな椅子だが、アッという間だった。
拍手がなかなか止まず、二人の役者はくり返し舞台に出て来た。
先に出た亜矢子は、少し冷たい風の中、正木たちが出て来るのを待った。
ほとんど最後に出て来た正木と市原は、亜矢子を見て、黙って肯いた。
その表情で、亜矢子には二人が満足しているのが分った。
「監督、どうします?」
「できれば話したいな」
「分りました。待ってて下さい」
亜矢子は劇場の中へ戻って行った。
「お疲れさま」
チラシを並べていたテーブルを片付けているのは、今出演していた主演女優だった。
「失礼します」
と、亜矢子は声をかけた。「五十嵐真愛さんですね」
「ええ」
「お疲れのところ、すみません。少しお時間をいただけないでしょうか」
無名の女優を相手にしても、正木は必ず敬意を払って、決して無理は言わない。亜矢子も正木とそういうところが気の合うところなのである。
「――正木監督ですか」
「ご存知ですか」
「ええ、もちろん。――じゃ、少し待っていただけますか?」
「はい。表は少し寒いので、どこかこの近くに……」
「それじゃ、いつもスタッフの行くお店が、出て右のすぐの所に、小さな居酒屋ですけど」
「分りました。そこでお待ちしています」
亜矢子は外へ出た。
カウンターだけの小さな店に、二十分ほどして、五十嵐真愛はやって来た。
「舞台をご覧いただいて、どうも」
と、正木に礼を言うと、「小さな劇団なので」
「いや、立派な芝居だった」
と、正木は言った。
「ありがとうございます」
「仕事の話をしてもいいかな?」
と、正木は訊いた。
「はい、もちろん」
と、女優は肯いて、「ただ、私、映像のお仕事には慣れていません」
「何か出演したことが?」
「端役です。刑事物のドラマとか、単発の二時間ものとか。ほとんどワンシーンだけで……」
「ともかく、何か頼みましょう」
と、亜矢子が言った。「話が長くなるかもしれませんよ」
サラリーマンらしい客が何人かやって来たので、亜矢子たちは店を出ることにした。
仕事の話を女優とするのだから、五十嵐真愛も分っていよう。
「帰りは急ぐのか?」
と、正木が確かめる。
「子供は母が見てくれています」
と、真愛は言った。
「今いくつだ」
「七歳になったところです」
正木は肯いて、
「あまり遅くならない方がいいな。亜矢子――」
「この近くなら、〈S〉が早いでしょう」
手早く食べられるパスタの店である。
「よし、そこにしよう」
亜矢子は素早くタクシーを停めて、自分は助手席に座り、車から店の席を取った。
「――お話は分りました」
と、五十嵐真愛はパスタを食べながら、正木の説明を聞いていた。「〈闇が泣いてる〉拝見しました。水原アリサさん、とても良かったですね」
「ありがとう」
「それで、私は今のお話の、何の役を?」
と訊かれて、正木はちょっと意外そうに、
「もちろん主役だ」
と言った。「君しかいないと思った」
しかし、真愛の方はもっとびっくりしたようで、
「え?」
と、食事の手を止めて、「主役? 私がですか」
と、訊き返した。
「ああ。ぜひやってほしい」
正木の言葉に、しばし黙っていた真愛は、
「でも――映画といったら、私たちのように、小さな劇場を一杯にすればいいわけではないでしょう。私みたいな無名の人間を使うなんて……。お金を出す人たちが承知しませんよ」
と言った。
「いや、心配してもらってありがたいが」
と、正木は微笑んで、「今回、その点は心配いらないんだ。もちろん、作るからには、大勢に観てもらいたい。そういう作品に仕上げるつもりだ。その責任は私にある」
「監督……。お話は本当に、本当にありがたいのですけど、私には無理です。申し訳ありません!」
早口にそう言って、真愛は頭を下げると、
「すみません。もう行かないと」
せかせかと立ち上り、正木たちが呆気に取られている間に、逃げるようにレストランから出て行ってしまった。
「――亜矢子」
「私にも分りません」
と、首を振って、「何かよほどの事情が……」
「うん。ともかく諦めないぞ。亜矢子、お前に任せる。あの女に、何としても承知させろ」
「監督。――もちろん、できる限りのことはしますが、どうしてもいやだと言われたときのために、誰か他に――」
「いかん! もうあの五十嵐何とかのイメージで、俺の中には絵ができている」
正木がここまで言い出したら、引っ込むことはない。
「分りました……」
と、ため息と共に言った。「でも、せめて五十嵐真愛って名前ぐらいは憶えて下さいよ」
「朗読のお仕事ですか」
と、五十嵐真愛はケータイに出て言った。
「――はい、もちろんです、喜んで。――ええ、承知しています。交通費だけ払っていただければ。――十二月十日ですね」
メモを取って、通話を切る。
「さて……」
と、一人きりのアパートで呟く。「何かアルバイトを見付けないと……」
公立の養護施設での朗読会だ。ギャラは期待できない。交通費といっても、赤字になりかねない。
時計に目をやる。午後一時を回ったところで、礼子が小学校から帰るまでまだ少しある。
近くのスーパーでのバイトを訊いてみようか。前にも何度か使ってもらっている。
でも、最近はその手のパートの仕事も減っていて、なかなか見付からない。
冷めたお茶を飲んでいると、玄関のチャイムが鳴って、
「はい」
と、立って行く。
ドアを開けて驚いた。正木監督が立っていたのだ。
「突然申し訳ない」
と、正木が言うと、後ろに立っていた亜矢子が、
「私が調べたんです。すみません」
と言った。「監督が、どうしてももう一度お話ししたいと言って聞かないので」
「どうぞ」
と、真愛は言った。「スリッパもなくてすみません。来客がほとんどないので」
「いや、構わないでくれ」
正木は部屋へ上ると、「この東風亜矢子は私のかけがえのない相棒でな」
「ただのスクリプターです」
と、亜矢子が【訂正】した。
「事情は分った」
と、正木は言った。「あなたの夫は三崎治さんというのだな」
「結婚してはいませんが、娘の父親です」
「今、殺人罪で刑務所にいる」
「はい」
と、真愛は肯いた。「刑期はあと十年あります。せっかくのお話をお断りしたわけがお分りでしょう。無名の女優が突然主役となったら、マスコミが必ず私の身辺を調べます。夫が殺人犯と分ったら、製作の方々も――」
「それはこちらの問題だ」
「でも、礼子が……。娘はまだ七歳で、父親は遠くの国で働いていると思っています。映画に出て騒がれたら、礼子も傷つくでしょう」
真愛は頭を下げて、「申し訳ありません」
正木は肯いて、
「あなたの気持はよく分る」
と言った。「しかし、映画は大勢のスタッフ、キャストを抱えていて、いつまでも待ってはいられない。私は、ともかくあなたを主役にして撮りたい」
「でも……」
「心配することはない」
と、正木は言った。「ここにいる亜矢子が、何かいい方法を考える」
「監督――」
「スクリプターといっても、こいつはただのスクリプターではない。いわば〈スーパースクリプター〉だ」
勝手な名前、つけるな! 亜矢子は心の中だけで正木に文句をつけた。
「正木さん。正直言って、夢のようなお話です。いきなり映画で主役なんて。でも――」
「ともかく、シナリオの第一稿を置いていく」
正木が亜矢子を見ると、亜矢子は分厚い大判の封筒を置いた。
「読んでおいてくれ」
「はあ……」
「亜矢子から連絡する。それと――」
正木は上着の内ポケットから封筒を取り出して、真愛の前に置いた。「撮影の準備に多少の時間が必要だ。その間の生活費はこちらで負担する。これを取りあえず受け取ってくれ」
「そんなこと……」
「万一、断られたとしても、返す必要はない。あなたがシナリオを読んで検討する時間の分のギャラだ」
真愛は少しの間黙っていたが、
「――分りました」
と言った。
舞台で聞くような、力のこもった声だった。
「お役に立てるかどうか分りませんが、せっかくのお気持です。シナリオをよく読み込んでみます」
「うむ。頼みますぞ」
正木はニッコリ笑った……。
「どうだ、俺の説得力は」
「それって、日本語としておかしいですよ」
と、亜矢子は言った。
撮影所へのタクシーの中である。
「後はお前の腕にかかっている」
「何でも屋だからって、できないものはできませんよ」
「お前なら大丈夫だ。あの崖でのスタントを見ていて、俺は確信した。こいつには幸運の女神がついてるってな」
亜矢子は、聞いていない
――問題は明らかだった。
五十嵐真愛と、三崎治との関係は、亜矢子でも調べられたのだ。じきに知れる。
だから、最悪なのは、彼女の身許を隠すこと。今に必ず発覚すると思わなければならない。
ひと昔前なら、架空の出生地や生い立ちをでっち上げても通用したが、情報社会の現代ではとても無理だ。
ということは――真愛には辛いことになるだろうが、初めからすべてを明らかにするのが一番いい、という結論になる。
ただ、それにもやり方というものがある。
「そうか……」
と、亜矢子は呟いた。「もしかすると……」
ある考えが浮んだ。しかし、そのためにはもっと調べなくては……。
「監督」
と、亜矢子は言った。「どうでしょうね。今、思い付いたんですけど――」
見ると、正木は少し口を開けて眠ってしまっていた……。
10 アルバイト
「ごめんね、連ちゃん」
と、長谷倉ひとみは言った。「私が甘かったんだわ」
「君のせいじゃないよ」
と、「連ちゃん」こと叶連之介は元気付けるように、「良かったじゃないか。正木監督について学べるなんて」
「それはそうなんだけど……」
――今日も、ひとみは撮影所に来ていた。
心はすでに「正木組」の一員で、用があろうがなかろうが、毎日のようにスタッフルームに顔を出し、他の助監督と会ったり、手伝ったりしていた。
今は、撮影所のすぐ向いの喫茶店で、叶連之介と会っていた。
自分が撮るはずだった映画に、連之介を出演させる約束をしていたのだが、結局実現しなかったわけで……。
「それに、その有田って奴、君をオモチャにしておいて、三百万出しただけで、製作費なんか出さなかったよ、きっと。そんなことにならなくて良かったよ」
と、連之介は腹立たしげに言った。
「うん。――いざとなったら、ぶん殴ってでも逃げるつもりだった。連ちゃんを裏切るなんて、とんでもないもの」
テーブルの上で、二人はしっかり手を取り合った。そこへ、咳払いして、
「お邪魔してごめんなさい」
と、いつの間にか亜矢子がテーブルのそばに立っていた。
「あ、亜矢子! 気が付かなくて」
「仕方ないけどね、彼と一緒じゃ」
と、亜矢子は言った。「ちょっと相談があるの」
「じゃ、僕はこれで――」
と、連之介が腰を浮かすと、
「
と、亜矢子が彼の肩を叩く。
「僕に、ですか?」
「そう。席を移りましょ。ここは映画の関係者が年中出入りしてるから」
念のため、と店を出て、五分ほど歩いたファストフードの店に入る。
「こういう所の方が、内緒の話には向いてるの」
と、亜矢子は言った。
セルフサービスで飲物を持って来ると、
「叶君だっけ。今、アルバイトする時間、ある?」
「ええ、時間ならいくらでも」
「亜矢子、何の話?」
と、ひとみがふしぎそうに言った。
「これは極秘」
と、前置きして、亜矢子は五十嵐真愛のことを打ち明けた。
「そんな女優さんが……」
「それでね」
と、亜矢子は続けて、「今刑務所に入ってる三崎治って人のこと、叶君に調べてほしいの」
「調べるって……」
「殺人犯ってことだけど、どういう事件だったのか。裁判ではどうだったのか。そしてできれば関係者に話を聞いたりして、その事情を、できるだけ詳しく調べて」
「分りました」
「今は私、忙しくて、そこまでとても手が回らないの。やってくれる? もちろん、ちゃんとバイト代は出すわ」
「やりますよ。今度の映画のためなんでしょ?」
「ええ」
と、亜矢子は肯いて、「五十嵐真愛さんを抜擢すれば、必ずその三崎って人のことも知れる。そのとき、どういうわけで人を殺したのか、被害者はどういう人だったのか、分っているようにしたい」
「分ります。できるだけ詳しく――」
「でも、時間もないの。一週間で、できるだけ調べてちょうだい」
「一週間ですね」
「途中、何か分ったらその都度、私にメールで知らせて」
「承知しました」
「ただし」
と、亜矢子は言った。「正木監督の名前を出さないで。今度の新作についてもね」
「はい」
聞いていたひとみが、
「亜矢子、もし連ちゃんがお役に立てたら、今度の映画のお手伝いさせてあげて」
「売り込むわね」
と、亜矢子は笑って、「もちろんよ! 任せて」
「お願いね!」
と、ひとみは頭を下げた。
「ただね、叶君」
と、亜矢子は言った。「私もその手の事件に巻き込まれたことがあるけど、調べるのは殺人事件のことなの。だから、もしかすると危険なことに出くわすかもしれない」
「そうですね」
「危いと思ったら、無理しないで。あなたは刑事でも私立探偵でもないんだから。もし不安になったら、すぐ私に連絡して」
「そうします。大丈夫ですよ、僕は用心深いんで」
「気を付けてよ」
と、ひとみが連之介の手を握る。
「何かあったら、私がひとみに恨まれそうね」
と、亜矢子は微笑んだ。
「ご心配なく。任せて下さい」
連之介は、亜矢子からもらったメモを手に立ち上ると、「早速取りかかります!」
と言って、足早に店を出て行った。
「せっかちね」
「元々はのんびりなんだけど、嬉しいんだと思うわ。直接でなくても、正木監督の新作に係われて」
と、ひとみが言った。
「彼の調査結果次第では、『直接』係わることになるかもしれないわよ」
亜矢子の言葉に、ひとみは身をのり出して、
「本当に? それって……」
「今は内緒。――ひとみは、スタッフルームで、色々用があるから」
「分ってる。正木監督と亜矢子に恩返しするわよ!」
と、ひとみは張り切って言った。
良かったわ、と亜矢子は思った。ひとみが、元気な自分を取り戻したこと。その力になれたことが、素直に嬉しい。
「そういえば、報告しようと思って忘れてたわ」
と、ひとみが言った。「三百万円、貸して下さった本間ルミさんの所に、お礼に行ったの。連ちゃんと一緒に」
「ああ、それは良かったわね」
「凄いビルの中でね。〈社長室〉が、また広いの! 連ちゃんなんか、『俺のアパートの何倍あるかな』って言ってた」
「ちゃんとけじめはつけないとね。一応、正木監督が貸した形になってるから」
「うん、分ってる。アルバイトで稼いだ分、返済にあてるつもり」
「無理しないのよ。ひとみだって、食べてかなきゃいけないんだからね」
「撮影所のカレーが当分主食になりそう」
と、ひとみは笑って言った。「そういえば、あの方……」
「本間さん?」
「そう。今、四十代半ば?」
「そうね。監督と同世代だから」
「連ちゃんと一緒に行ったら、何だか、じっと連ちゃんを見つめてたわ。まだまだ色気があるのね」
「そう。――あなたの『連ちゃん』は大丈夫?」
「平気。私たち、愛し合ってるもの」
「あ、そう」
まだ独身で決った彼氏もいない亜矢子としては、そう言うしかない。
すると、そこへ、
「亜矢子、何をさぼってるの?」
と、思いがけない声がした。
「――お母さん! ここで何してるの?」
亜矢子は目を丸くした。
亜矢子の母、東風茜は福岡に住む実業家である。度々仕事で東京へやって来るが、どっちも忙しいので、娘と顔を合せることはめったにない。
「車でこの前を通りかかったら、あんたが見えたのよ。目がいいでしょ」
「何を自慢してるの」
と、亜矢子は苦笑した。「憶えてる? 高校で一緒だった、長谷倉ひとみ」
そう言われて、茜は、
「ああ! よくうちに遊びに来てたわね。あのころからきれいだったわ」
と言った。「ここで何の打ち合せ?」
「ひとみ、次の正木監督の映画で、助監督の見習い」
「あら、亜矢子に引きずり込まれたの? 映画なんてヤクザな世界、やめときなさい」
「お母さん! 失礼でしょ。娘が頑張ってるっていうのに」
「まぁ、確かに……」
と、飲物を持って来てテーブルに加わると、茜は言った。「映画作りって、ふしぎな魅力があるみたいね。あの大和田さんも……」
「貝原エリちゃんが映画に出るって聞いたよ」
「そうなの! 大和田さん、すっかり映画にはまっちゃって。本業放ったらかしで、社員が困ってるそうよ」
「はまるって言っても、大和田さんはお金出してるだけでしょ」
大和田広吉は六十五歳。前述の如く、九州で手広く商売をしていて、亜矢子もよく知っている。
ひとみは、大和田と貝原エリの話を聞くとびっくりして、
「凄いわね! 十八歳か!」
「初めはお金出すだけのはずだったのよ」
と、茜が言った。「ところが、若い奥さんをスターにするんだって、あれこれ口を出し始めて。監督が降りるんじゃないかって話よ」
「そこまで……。まあ、結果が良ければいいんだけどね」
亜矢子は、いささか不安になった。
まさか、本間ルミはそんなことになるまいが……。
「私が
とか言い出したらどうしよう。
いくら、まだ色気があっても、素人が主演するわけにはいかない……。
「どうしたの?」
と、茜に訊かれ、
「別に。何でもない。お母さん、いつ九州に帰るの?」
「今夜、と思ってたけど、あんた、今夜は時間あるの?」
「ある!」
と、亜矢子は即座に言った。「ね、ひとみと一緒に、フレンチ、おごって。新しいお店、知ってるの」
「あんたは食い気ばっかりね」
と、茜は苦笑した。
「でも、亜矢子
「へえ。亜矢子、また崖からぶら下ったの?」
「違うわよ!」
「私が騙されたんです」
と、ひとみが事情を話すと、
「亜矢子も人助けすることがあるの。――でも、あんたどうして私にお金貸してって言って来なかったの?」
「考えたけど……時間もなかったし」
「どっちにしろ、自分じゃ出せなかったわね」
「そんな余裕ないわよ」
「私も、もう有田みたいな男に騙されないようにしないと」
と、ひとみが言うと、茜が、
「――有田? もしかして、有田京一っていうの、その男?」
「そうです」
「お母さん、知ってるの?」
「まあね。――直接は知らない。でも、親しくしてた旅館の経営者の女性がね、ひどい目にあったのよ」
「へえ。じゃ、九州で?」
「もともとは小倉の小さな興行屋だったの。――有田が、相変らずそんなことしてるのね……」
茜の声に、俄然凄みが加わって、亜矢子とひとみは思わず顔を見合せた……。
(つづく)
「あちこち訊いてみました」
と、亜矢子は言った。「〈五十嵐真愛、三十九歳。二十八歳で劇団の養成所へ入り、その後、〈S〉という小さな劇団で活動〉ということです」
「そうか」
正木は肯いて、「芝居は確かなんだな」
訊いているのではない。亜矢子の目には信頼を置いている。
「その舞台は――」
「今日までです」
と、亜矢子は言った。「六時開演ですから、充分間に合います」
「分った」
「チケット2枚、買って来ました」
もちろん、そこまでやってあることは、正木も承知している。
写真も何もないが、生で見るのが一番である。
スタッフルームで話していると、カメラマンの市原がやって来た。
「監督、メインのレンズはどうしますか」
と、いきなり訊く。
「標準でいい。できるだけ、現実の感じで行く」
「分りました。照明も……」
「うん。――おい、市原、お前も見てくれ」
亜矢子が見て来た女優の話をすると、
「見たいですね。顔立ちとか、ライティングを工夫しますから」
「じゃ、一緒に来い」
三人で、昨日亜矢子が足を運んだ小さな劇場へと向う。
「チケット、2枚しかないんだろ」
と、タクシーの中で正木が言った。
「一枚ぐらい、たぶん。――取れなければ、私、立ち見でも、階段にでも座ってますよ」
誰よりも、監督とカメラマンの「眼」にどう映るか、である。
着いてみると、最終日ということもあってか、当日券を求める客が十人以上並んでいた。
「おい、亜矢子――」
「何とかします。お二人、入って下さい」
結局、立ち見になったが、何とか入れてもらうことはできた。
舞台は一時間半で、休憩はなし。お尻の痛くなりそうな椅子だが、アッという間だった。
拍手がなかなか止まず、二人の役者はくり返し舞台に出て来た。
先に出た亜矢子は、少し冷たい風の中、正木たちが出て来るのを待った。
ほとんど最後に出て来た正木と市原は、亜矢子を見て、黙って肯いた。
その表情で、亜矢子には二人が満足しているのが分った。
「監督、どうします?」
「できれば話したいな」
「分りました。待ってて下さい」
亜矢子は劇場の中へ戻って行った。
「お疲れさま」
チラシを並べていたテーブルを片付けているのは、今出演していた主演女優だった。
「失礼します」
と、亜矢子は声をかけた。「五十嵐真愛さんですね」
「ええ」
「お疲れのところ、すみません。少しお時間をいただけないでしょうか」
無名の女優を相手にしても、正木は必ず敬意を払って、決して無理は言わない。亜矢子も正木とそういうところが気の合うところなのである。
「――正木監督ですか」
「ご存知ですか」
「ええ、もちろん。――じゃ、少し待っていただけますか?」
「はい。表は少し寒いので、どこかこの近くに……」
「それじゃ、いつもスタッフの行くお店が、出て右のすぐの所に、小さな居酒屋ですけど」
「分りました。そこでお待ちしています」
亜矢子は外へ出た。
カウンターだけの小さな店に、二十分ほどして、五十嵐真愛はやって来た。
「舞台をご覧いただいて、どうも」
と、正木に礼を言うと、「小さな劇団なので」
「いや、立派な芝居だった」
と、正木は言った。
「ありがとうございます」
「仕事の話をしてもいいかな?」
と、正木は訊いた。
「はい、もちろん」
と、女優は肯いて、「ただ、私、映像のお仕事には慣れていません」
「何か出演したことが?」
「端役です。刑事物のドラマとか、単発の二時間ものとか。ほとんどワンシーンだけで……」
「ともかく、何か頼みましょう」
と、亜矢子が言った。「話が長くなるかもしれませんよ」
サラリーマンらしい客が何人かやって来たので、亜矢子たちは店を出ることにした。
仕事の話を女優とするのだから、五十嵐真愛も分っていよう。
「帰りは急ぐのか?」
と、正木が確かめる。
「子供は母が見てくれています」
と、真愛は言った。
「今いくつだ」
「七歳になったところです」
正木は肯いて、
「あまり遅くならない方がいいな。亜矢子――」
「この近くなら、〈S〉が早いでしょう」
手早く食べられるパスタの店である。
「よし、そこにしよう」
亜矢子は素早くタクシーを停めて、自分は助手席に座り、車から店の席を取った。
「――お話は分りました」
と、五十嵐真愛はパスタを食べながら、正木の説明を聞いていた。「〈闇が泣いてる〉拝見しました。水原アリサさん、とても良かったですね」
「ありがとう」
「それで、私は今のお話の、何の役を?」
と訊かれて、正木はちょっと意外そうに、
「もちろん主役だ」
と言った。「君しかいないと思った」
しかし、真愛の方はもっとびっくりしたようで、
「え?」
と、食事の手を止めて、「主役? 私がですか」
と、訊き返した。
「ああ。ぜひやってほしい」
正木の言葉に、しばし黙っていた真愛は、
「でも――映画といったら、私たちのように、小さな劇場を一杯にすればいいわけではないでしょう。私みたいな無名の人間を使うなんて……。お金を出す人たちが承知しませんよ」
と言った。
「いや、心配してもらってありがたいが」
と、正木は微笑んで、「今回、その点は心配いらないんだ。もちろん、作るからには、大勢に観てもらいたい。そういう作品に仕上げるつもりだ。その責任は私にある」
「監督……。お話は本当に、本当にありがたいのですけど、私には無理です。申し訳ありません!」
早口にそう言って、真愛は頭を下げると、
「すみません。もう行かないと」
せかせかと立ち上り、正木たちが呆気に取られている間に、逃げるようにレストランから出て行ってしまった。
「――亜矢子」
「私にも分りません」
と、首を振って、「何かよほどの事情が……」
「うん。ともかく諦めないぞ。亜矢子、お前に任せる。あの女に、何としても承知させろ」
「監督。――もちろん、できる限りのことはしますが、どうしてもいやだと言われたときのために、誰か他に――」
「いかん! もうあの五十嵐何とかのイメージで、俺の中には絵ができている」
正木がここまで言い出したら、引っ込むことはない。
「分りました……」
と、ため息と共に言った。「でも、せめて五十嵐真愛って名前ぐらいは憶えて下さいよ」
「朗読のお仕事ですか」
と、五十嵐真愛はケータイに出て言った。
「――はい、もちろんです、喜んで。――ええ、承知しています。交通費だけ払っていただければ。――十二月十日ですね」
メモを取って、通話を切る。
「さて……」
と、一人きりのアパートで呟く。「何かアルバイトを見付けないと……」
公立の養護施設での朗読会だ。ギャラは期待できない。交通費といっても、赤字になりかねない。
時計に目をやる。午後一時を回ったところで、礼子が小学校から帰るまでまだ少しある。
近くのスーパーでのバイトを訊いてみようか。前にも何度か使ってもらっている。
でも、最近はその手のパートの仕事も減っていて、なかなか見付からない。
冷めたお茶を飲んでいると、玄関のチャイムが鳴って、
「はい」
と、立って行く。
ドアを開けて驚いた。正木監督が立っていたのだ。
「突然申し訳ない」
と、正木が言うと、後ろに立っていた亜矢子が、
「私が調べたんです。すみません」
と言った。「監督が、どうしてももう一度お話ししたいと言って聞かないので」
「どうぞ」
と、真愛は言った。「スリッパもなくてすみません。来客がほとんどないので」
「いや、構わないでくれ」
正木は部屋へ上ると、「この東風亜矢子は私のかけがえのない相棒でな」
「ただのスクリプターです」
と、亜矢子が【訂正】した。
「事情は分った」
と、正木は言った。「あなたの夫は三崎治さんというのだな」
「結婚してはいませんが、娘の父親です」
「今、殺人罪で刑務所にいる」
「はい」
と、真愛は肯いた。「刑期はあと十年あります。せっかくのお話をお断りしたわけがお分りでしょう。無名の女優が突然主役となったら、マスコミが必ず私の身辺を調べます。夫が殺人犯と分ったら、製作の方々も――」
「それはこちらの問題だ」
「でも、礼子が……。娘はまだ七歳で、父親は遠くの国で働いていると思っています。映画に出て騒がれたら、礼子も傷つくでしょう」
真愛は頭を下げて、「申し訳ありません」
正木は肯いて、
「あなたの気持はよく分る」
と言った。「しかし、映画は大勢のスタッフ、キャストを抱えていて、いつまでも待ってはいられない。私は、ともかくあなたを主役にして撮りたい」
「でも……」
「心配することはない」
と、正木は言った。「ここにいる亜矢子が、何かいい方法を考える」
「監督――」
「スクリプターといっても、こいつはただのスクリプターではない。いわば〈スーパースクリプター〉だ」
勝手な名前、つけるな! 亜矢子は心の中だけで正木に文句をつけた。
「正木さん。正直言って、夢のようなお話です。いきなり映画で主役なんて。でも――」
「ともかく、シナリオの第一稿を置いていく」
正木が亜矢子を見ると、亜矢子は分厚い大判の封筒を置いた。
「読んでおいてくれ」
「はあ……」
「亜矢子から連絡する。それと――」
正木は上着の内ポケットから封筒を取り出して、真愛の前に置いた。「撮影の準備に多少の時間が必要だ。その間の生活費はこちらで負担する。これを取りあえず受け取ってくれ」
「そんなこと……」
「万一、断られたとしても、返す必要はない。あなたがシナリオを読んで検討する時間の分のギャラだ」
真愛は少しの間黙っていたが、
「――分りました」
と言った。
舞台で聞くような、力のこもった声だった。
「お役に立てるかどうか分りませんが、せっかくのお気持です。シナリオをよく読み込んでみます」
「うむ。頼みますぞ」
正木はニッコリ笑った……。
「どうだ、俺の説得力は」
「それって、日本語としておかしいですよ」
と、亜矢子は言った。
撮影所へのタクシーの中である。
「後はお前の腕にかかっている」
「何でも屋だからって、できないものはできませんよ」
「お前なら大丈夫だ。あの崖でのスタントを見ていて、俺は確信した。こいつには幸運の女神がついてるってな」
亜矢子は、聞いていない
ふり
をして、窓の外へ目をやった。――問題は明らかだった。
五十嵐真愛と、三崎治との関係は、亜矢子でも調べられたのだ。じきに知れる。
だから、最悪なのは、彼女の身許を隠すこと。今に必ず発覚すると思わなければならない。
ひと昔前なら、架空の出生地や生い立ちをでっち上げても通用したが、情報社会の現代ではとても無理だ。
ということは――真愛には辛いことになるだろうが、初めからすべてを明らかにするのが一番いい、という結論になる。
ただ、それにもやり方というものがある。
「そうか……」
と、亜矢子は呟いた。「もしかすると……」
ある考えが浮んだ。しかし、そのためにはもっと調べなくては……。
「監督」
と、亜矢子は言った。「どうでしょうね。今、思い付いたんですけど――」
見ると、正木は少し口を開けて眠ってしまっていた……。
10 アルバイト
「ごめんね、連ちゃん」
と、長谷倉ひとみは言った。「私が甘かったんだわ」
「君のせいじゃないよ」
と、「連ちゃん」こと叶連之介は元気付けるように、「良かったじゃないか。正木監督について学べるなんて」
「それはそうなんだけど……」
――今日も、ひとみは撮影所に来ていた。
心はすでに「正木組」の一員で、用があろうがなかろうが、毎日のようにスタッフルームに顔を出し、他の助監督と会ったり、手伝ったりしていた。
今は、撮影所のすぐ向いの喫茶店で、叶連之介と会っていた。
自分が撮るはずだった映画に、連之介を出演させる約束をしていたのだが、結局実現しなかったわけで……。
「それに、その有田って奴、君をオモチャにしておいて、三百万出しただけで、製作費なんか出さなかったよ、きっと。そんなことにならなくて良かったよ」
と、連之介は腹立たしげに言った。
「うん。――いざとなったら、ぶん殴ってでも逃げるつもりだった。連ちゃんを裏切るなんて、とんでもないもの」
テーブルの上で、二人はしっかり手を取り合った。そこへ、咳払いして、
「お邪魔してごめんなさい」
と、いつの間にか亜矢子がテーブルのそばに立っていた。
「あ、亜矢子! 気が付かなくて」
「仕方ないけどね、彼と一緒じゃ」
と、亜矢子は言った。「ちょっと相談があるの」
「じゃ、僕はこれで――」
と、連之介が腰を浮かすと、
「
あなたに
相談なの」と、亜矢子が彼の肩を叩く。
「僕に、ですか?」
「そう。席を移りましょ。ここは映画の関係者が年中出入りしてるから」
念のため、と店を出て、五分ほど歩いたファストフードの店に入る。
「こういう所の方が、内緒の話には向いてるの」
と、亜矢子は言った。
セルフサービスで飲物を持って来ると、
「叶君だっけ。今、アルバイトする時間、ある?」
「ええ、時間ならいくらでも」
「亜矢子、何の話?」
と、ひとみがふしぎそうに言った。
「これは極秘」
と、前置きして、亜矢子は五十嵐真愛のことを打ち明けた。
「そんな女優さんが……」
「それでね」
と、亜矢子は続けて、「今刑務所に入ってる三崎治って人のこと、叶君に調べてほしいの」
「調べるって……」
「殺人犯ってことだけど、どういう事件だったのか。裁判ではどうだったのか。そしてできれば関係者に話を聞いたりして、その事情を、できるだけ詳しく調べて」
「分りました」
「今は私、忙しくて、そこまでとても手が回らないの。やってくれる? もちろん、ちゃんとバイト代は出すわ」
「やりますよ。今度の映画のためなんでしょ?」
「ええ」
と、亜矢子は肯いて、「五十嵐真愛さんを抜擢すれば、必ずその三崎って人のことも知れる。そのとき、どういうわけで人を殺したのか、被害者はどういう人だったのか、分っているようにしたい」
「分ります。できるだけ詳しく――」
「でも、時間もないの。一週間で、できるだけ調べてちょうだい」
「一週間ですね」
「途中、何か分ったらその都度、私にメールで知らせて」
「承知しました」
「ただし」
と、亜矢子は言った。「正木監督の名前を出さないで。今度の新作についてもね」
「はい」
聞いていたひとみが、
「亜矢子、もし連ちゃんがお役に立てたら、今度の映画のお手伝いさせてあげて」
「売り込むわね」
と、亜矢子は笑って、「もちろんよ! 任せて」
「お願いね!」
と、ひとみは頭を下げた。
「ただね、叶君」
と、亜矢子は言った。「私もその手の事件に巻き込まれたことがあるけど、調べるのは殺人事件のことなの。だから、もしかすると危険なことに出くわすかもしれない」
「そうですね」
「危いと思ったら、無理しないで。あなたは刑事でも私立探偵でもないんだから。もし不安になったら、すぐ私に連絡して」
「そうします。大丈夫ですよ、僕は用心深いんで」
「気を付けてよ」
と、ひとみが連之介の手を握る。
「何かあったら、私がひとみに恨まれそうね」
と、亜矢子は微笑んだ。
「ご心配なく。任せて下さい」
連之介は、亜矢子からもらったメモを手に立ち上ると、「早速取りかかります!」
と言って、足早に店を出て行った。
「せっかちね」
「元々はのんびりなんだけど、嬉しいんだと思うわ。直接でなくても、正木監督の新作に係われて」
と、ひとみが言った。
「彼の調査結果次第では、『直接』係わることになるかもしれないわよ」
亜矢子の言葉に、ひとみは身をのり出して、
「本当に? それって……」
「今は内緒。――ひとみは、スタッフルームで、色々用があるから」
「分ってる。正木監督と亜矢子に恩返しするわよ!」
と、ひとみは張り切って言った。
良かったわ、と亜矢子は思った。ひとみが、元気な自分を取り戻したこと。その力になれたことが、素直に嬉しい。
「そういえば、報告しようと思って忘れてたわ」
と、ひとみが言った。「三百万円、貸して下さった本間ルミさんの所に、お礼に行ったの。連ちゃんと一緒に」
「ああ、それは良かったわね」
「凄いビルの中でね。〈社長室〉が、また広いの! 連ちゃんなんか、『俺のアパートの何倍あるかな』って言ってた」
「ちゃんとけじめはつけないとね。一応、正木監督が貸した形になってるから」
「うん、分ってる。アルバイトで稼いだ分、返済にあてるつもり」
「無理しないのよ。ひとみだって、食べてかなきゃいけないんだからね」
「撮影所のカレーが当分主食になりそう」
と、ひとみは笑って言った。「そういえば、あの方……」
「本間さん?」
「そう。今、四十代半ば?」
「そうね。監督と同世代だから」
「連ちゃんと一緒に行ったら、何だか、じっと連ちゃんを見つめてたわ。まだまだ色気があるのね」
「そう。――あなたの『連ちゃん』は大丈夫?」
「平気。私たち、愛し合ってるもの」
「あ、そう」
まだ独身で決った彼氏もいない亜矢子としては、そう言うしかない。
すると、そこへ、
「亜矢子、何をさぼってるの?」
と、思いがけない声がした。
「――お母さん! ここで何してるの?」
亜矢子は目を丸くした。
亜矢子の母、東風茜は福岡に住む実業家である。度々仕事で東京へやって来るが、どっちも忙しいので、娘と顔を合せることはめったにない。
「車でこの前を通りかかったら、あんたが見えたのよ。目がいいでしょ」
「何を自慢してるの」
と、亜矢子は苦笑した。「憶えてる? 高校で一緒だった、長谷倉ひとみ」
そう言われて、茜は、
「ああ! よくうちに遊びに来てたわね。あのころからきれいだったわ」
と言った。「ここで何の打ち合せ?」
「ひとみ、次の正木監督の映画で、助監督の見習い」
「あら、亜矢子に引きずり込まれたの? 映画なんてヤクザな世界、やめときなさい」
「お母さん! 失礼でしょ。娘が頑張ってるっていうのに」
「まぁ、確かに……」
と、飲物を持って来てテーブルに加わると、茜は言った。「映画作りって、ふしぎな魅力があるみたいね。あの大和田さんも……」
「貝原エリちゃんが映画に出るって聞いたよ」
「そうなの! 大和田さん、すっかり映画にはまっちゃって。本業放ったらかしで、社員が困ってるそうよ」
「はまるって言っても、大和田さんはお金出してるだけでしょ」
大和田広吉は六十五歳。前述の如く、九州で手広く商売をしていて、亜矢子もよく知っている。
ひとみは、大和田と貝原エリの話を聞くとびっくりして、
「凄いわね! 十八歳か!」
「初めはお金出すだけのはずだったのよ」
と、茜が言った。「ところが、若い奥さんをスターにするんだって、あれこれ口を出し始めて。監督が降りるんじゃないかって話よ」
「そこまで……。まあ、結果が良ければいいんだけどね」
亜矢子は、いささか不安になった。
まさか、本間ルミはそんなことになるまいが……。
「私が
主役
をやる」とか言い出したらどうしよう。
いくら、まだ色気があっても、素人が主演するわけにはいかない……。
「どうしたの?」
と、茜に訊かれ、
「別に。何でもない。お母さん、いつ九州に帰るの?」
「今夜、と思ってたけど、あんた、今夜は時間あるの?」
「ある!」
と、亜矢子は即座に言った。「ね、ひとみと一緒に、フレンチ、おごって。新しいお店、知ってるの」
「あんたは食い気ばっかりね」
と、茜は苦笑した。
「でも、亜矢子
さん
には本当に感謝してるんです。助けてもらって」「へえ。亜矢子、また崖からぶら下ったの?」
「違うわよ!」
「私が騙されたんです」
と、ひとみが事情を話すと、
「亜矢子も人助けすることがあるの。――でも、あんたどうして私にお金貸してって言って来なかったの?」
「考えたけど……時間もなかったし」
「どっちにしろ、自分じゃ出せなかったわね」
「そんな余裕ないわよ」
「私も、もう有田みたいな男に騙されないようにしないと」
と、ひとみが言うと、茜が、
「――有田? もしかして、有田京一っていうの、その男?」
「そうです」
「お母さん、知ってるの?」
「まあね。――直接は知らない。でも、親しくしてた旅館の経営者の女性がね、ひどい目にあったのよ」
「へえ。じゃ、九州で?」
「もともとは小倉の小さな興行屋だったの。――有田が、相変らずそんなことしてるのね……」
茜の声に、俄然凄みが加わって、亜矢子とひとみは思わず顔を見合せた……。
(つづく)