三月◇日

文字数 5,729文字

1日1冊、3年で1,000冊の本を読み、月産25万字を執筆し続ける小説家・斜線堂有紀。


謎めいた日常はどのようなものなのか――

その一端が今ここに明かされる。


毎月第一・第三月曜日、夕方17時に更新!

夕暮れどきを彩る漆黒の光・”オールナイト”読書日記が、本日も始まる。

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三月◇日

 小川さやか『チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学』を読む


 香港にある重慶大厦(チョンキンマンション)には、一攫千金を狙うタンザニア人ビジネスマンのコミュニティーがある。そこのボス・カラマを追うことで、彼らの商売を成立させている奇妙な仕組みを明らかにする……というノンフィクションである。


 彼らは香港で中古車や中古携帯を仕入れ母国に送ったり、あるいは同じように香港にやってくるタンザニア人の世話をし、マージンを受け取ったりすることで金を稼いでいる。難民申請やグレーなビザ取得などを駆使しつつ、アングラな経済を渡っていくカラマ達の日々には、騙し騙されることを織り込んだ独特な信頼関係が成立している。チョンキンマンションで商売をする時には、私達には馴染みのない考え方をしなくてはいけないのだ。


 まず、彼らは〝いま〟でしか相手を評価しない。「今あいつは善人である」「今の彼は悪人だ」など、どれだけ親しい友人であろうと無条件にいつでも信じたりはしない。彼らの信頼度に大きな影響を与えるのがSNSで、彼らは友人の多さや羽振りの良さをInstagramに載せることで現在の信頼度を上げるのだ。とはいえ、彼らの信頼が軽いものかといったらそうではない。遙々香港にやって来た同郷の徒を、彼らは見返りもなく助ける。それは、人間にはいい巡りも悪い巡りもあるというある種の悟りを開いているからであり、ここで今日知らない誰かを助ければ、また知らない誰かが自分を助けてくれる──という、もっとスケールの大きな連帯を信じているからだ。これは確かにチョンキンマンションという特殊な場でしか成り立たない関係ではあるのかもしれないが……


 この本はチョンキンマンションのボスであるカラマの破天荒な一代記としても楽しめる。カラマは身一つで香港に渡り、金を稼ぐ為に様々な方法で成り上がっていく。その中でカラマが大事にしているのは、とにかく人をたらし込むことなのだ。優しくしたと思えば突き放し、わざと待ち合わせに遅れて相手を操り、空気が険悪になったらジョーク動画を唐突に送ったり、とにかく子供っぽくて屈託がない。(読んでいる側からすれば、なんだこの男関わりたくないな……と思ってしまうのだが「気になる」という時点で負けなのだ)このカラマのコミュニケーション術と、それに振り回される周囲の人間を見ているだけでも面白い。著者である小川さやか氏もカラマを警戒しつつも、その独特な魅力に一目置いている。


 このはちゃめちゃな男が人生の荒波を乗りこなしている様を見るだけでも、明日を頑張るぞ! という気分になれる



三月☆日

 実業之日本社百合小説アンソロジー『彼女。』が発売された。相沢沙呼、青崎有吾、乾くるみ、織守きょうや、武田綾乃、円居挽および斜線堂有紀が参加している、今熱い人間に百合を書かせたらどうなるか? という試みのアンソロジーである。目の付け所がいい! としか言えない。この書き手が書く百合、読みたいもんな……と思う。


 私は「百合である値打ちもない」という小説を書いた。これはデュオプロゲーマーとして活動する乃枝と真々柚のカップルの物語で、テーマとしてはルッキズムを扱っている。私は元々ゲームが好きなのでE-sports観戦も好きなのだが、観戦の最中に女性プレイヤーとルッキズムの問題はどうしても切り離せないものだよなと思い知ることが多い。プレイヤースキルよりも外見のことが取り沙汰される世界、求められる像を実現させ続けなければ見てもらえない世界。


 以前『コールミー・バイ・ノーネーム』を書いた時から、百合だから書けるものもある、という意識が強くあったので、いい機会だと思って書いた小説だ。この小説に込めたものが、いつかちょっとだけ世界を幸せにしてくれたらいいよな、と心の中で思っている。


 とはいえ、一番注力したのは乃枝と真々柚が幸せで可愛い楽しい生活を送っている様や、乃枝が大好きな真々柚の前でちょっとズルかったり、真々柚が色々戸惑いながらも乃枝のことを大好きであることを書き尽くすことだったので、その点も楽しんで頂けたら嬉しい。


 他の収録作はどれも書き手の趣味が出ているところが素晴らしいと思う。青崎先生の「恋澤姉妹」は、これこそが自分の好きな百合である、というのが筆の乗りに現れている。一番趣味が合ったのは相沢先生の「微笑の対価」だ。共犯者百合が大好きなのでたまらない。奥田英朗『ナオミとカナコ』といい、中村珍『羣青』といい、死体を巡りながら丁寧に綴られる極限の感情が好きである。(この趣味が高じて書いたのが死体埋め部シリーズといってもいいかもしれない)あとは武田先生の「馬鹿者の恋」も好き。何故なら、こういう愚かさが好きだから……。織守先生の「椿と悠」の瑞々しさもいいし、乾先生の「九百十七円は高すぎる」は、ミステリの構造が物凄く上手いなと唸らされた。このフォーマットで何でもいけてしまう……!


 そういうわけで、色々な意味で豪華で濃い百合小説アンソロジー『彼女。』よろしくお願いします。



三月◎日

 仕事のやる気が起きない時に読む本というのがあって、その内の一つが藤本義一『鬼の詩/生きいそぎの記』だ。今回、とある小説の下調べも兼ねて久しぶりに再読して、やはり元気を貰った。それと同時に、前よりもこの小説が刺さる大人になってしまったな、と思う。


 「鬼の詩」は明治末期の上方落語家・桂馬喬の物語である。彼は芸に一生を捧げようと考えている生粋の芸人であるが、人を芸のみで引きつけられるほどの才能はない男である。それでも馬喬は妻の露に支えられながら、売れっ子芸人に着いていこうと、的外れとも思えるような死に物狂いの努力を重ねていく。


 自分の身体を顧みず芸の道に邁進する馬喬は、最愛の妻である露を亡くしたその日から、更に馬喬は一時の喝采に命を懸ける破滅的な日々を送るようになる。


 馬喬はこの一瞬、この一席の客に受ける為だけに電球を噛み砕いて見せるような男である。その切実な様を見る度に、何もそうまでしてと目を覆いたくなる。だがそれと同時に、芸に身を窶したい彼の方に気持ちが寄ってしまう自分もいる。そこまでしなければならない彼の気持ちこそが心に深く重なる夜がある。これは、一つのことに身を捧げた全ての人間が覗かなければならない彼岸だ。だから、私は彼の生き方の上澄みを掬うためにこの本を読み返すのである。


 同じく表題作の「生きいそぎの記」の方もいい小説だ。これは藤本義一が師匠の映画監督・川島雄三との日々を回想する半自伝的小説である。川島雄三はシャルコー病(ALS)を患い、傍目から見ても苦しみながらも、異常なこだわりを持って藤本と映画を作っていく。藤本と川島の日々は、死の匂いの纏わり付いた蜜月だ。脚本にダメ出しを受け、川島の奇妙な要求に応え、二人で鍋を突いている内に、藤本は川島に取り憑いている病に否応なく向き合わされることになる。


 自分の尊敬している相手が病んで苦しむ姿を見るのは、自分が病んで苦しむのとは別種の、居たたまれない苦しみがある。そのことを強く意識させられる小説なのだ。何よりもまず創作が先にある人間の生き様がここにある。


 最後に、この短篇集の中で一番好きな台詞を下記に引用しておこうと思う。


「芸の虫ちゅう虫は、ほんまに小っぽい虫やろけども、一旦これに食らいつかれたら最後、どないしても食い荒されてしまうなあ。芸の虫は、体の中で毒を吐いたり、昼寝したり、また忙しゅうに走りよったりして、どもならんわい」


 小説も芸の一形態だと思う。



三月▽日

 私は外国語を勉強するのが何より苦手である。覚えることが多いからだ。暗記が大嫌いなので、まず単語が覚えられない。外国語学習の八割は語彙力を鍛えるフェーズなので、私は入門すら出来ない。そうして私はドイツ語の単位を落として留年したわけである。今でも私はドイツ語で自己紹介すら出来ない。というか、大学五年間で一度もまともに自己紹介が出来たことがない。数字すらわからないからね。


 留年したくせに、この期に及んでも私はどうしても勉強がしたくなかった。そうして、ドイツ語を勉強しないまま大学を卒業する為に私がギリギリ取得したのが英語である。英語は高校の授業を辛うじて受けていたので、朧気ながら読み書きが出来たのだ。こうして私は、どうにか大学を卒業することが出来た。めでたしめでたし。


 ……どういうことかというと、こういうことだ。ドイツの本は有名どころじゃないと邦訳出版されることが少ないのだが、英訳出版だけはされていることが多い。そういうわけで、私は課題で出された本や講義で扱われた本の英訳版を片っ端から買い、周りがドイツ語を読んでいる間、英語を読んで話を合わせていたのである。これは本当に役に立つので、うっかり外国語学科に入って悩み苦しんでいる人にお勧めである。


 何が言いたかったのかというと、そうして取得した英語は、小説を書く為の資料を読むのに役立っている。留年して良かった! 塞翁が馬! ということだ。いや、本当に何が幸いするか分からないのが面白い。今、とある短篇の為に、英語の資料しか存在しない事件を調べているのだが、もし留年していなかったら読めなかっただろうな、と思うような重いものばかりなのだ。人生何が起こるか分からない……。そう言い聞かせて、私は私の留年の価値を吊り上げている


 その最中、柳広司『百万のマルコ』も読む。これは〝うみがめのスープ〟形式の謎を取り扱ったミステリである。語り手になるのはかの有名なマルコ・ポーロ。マルコは様々な国で出会った、ほら話としか思えないような出来事を機転によって解決する。だが、その肝心の機転の内容を語り手に秘匿するのだ。マルコの話を聞いている人々は、マルコに質問しながら、どうやってマルコが危機を潜り抜けたのかを推理する……。


 私のお気に入りの謎は「この国で一番足の速い馬達を所有する王にレースで勝った。どうやった?」「この国で一番絵の上手い天才画家と、絵の素人であるマルコが絵の腕前を競うことになった。どう渡り合った?」「両方に毒が入った二つの饅頭のどちらかを選べと言われ、どう生き残った?」の謎だ。これだけで、何が起こったかを知りたくてたまらなくなるだろう。聞き手達のもっともらしい推理も、説得力があって面白い。この本は人に勧めたくなる一冊だ。


 冒頭の小話も、この『百万のマルコ』を意識して出してみたものである。この形式は、なんとも楽しい。



三月/日

 歯医者が怖すぎるが故に歯を物凄く大事にしている。嫌だけれど検診にも行くし、歯磨きもその他諸々も頑張ってデンタルリンスでケアしている。虫歯になったこともほぼ無い。だが、悲しいことにそれだけ頑張っていても、私は歯が永久歯に生え替わっていないので、いずれ──というか、近いうちに抜歯してインプラントを入れることになった


 そこから先、若干記憶が無いくらい怖い。その前準備として口の中で無体を働かれ、舌足らずになり、気づけば、シャーリイ・ジャクスン『壁の向こうへ続く道』を買って帰宅していた。


 シャーリイ・ジャクスンといえば不条理ホラー小説『くじ』が有名である。描かれる共同体の何とも言えない嫌さが、シャーリイ・ジャクスン作品の特徴だろう。今作でも、それが遺憾なく発揮されている。舞台となっているのはサンフランシスコ郊外、ペッパー通りという住宅地。ここに住んでいる住人は、誇張じゃなく全員が嫌な人間である。他人を見下し、嘲り、ありとあらゆるもので差別し、隙あらば攻撃の機会を窺っている。子供は全員性格が最悪だし、将来的にも最低な大人に成長するだろうな……と予感させてくる。


 物語の大半は、彼らが延々とギスギスとした日常を送るだけなのだが、これで読ませるのが凄いところ。閉鎖空間での人間の悪意ってこんな風に熟成されていくんだな……と、なんだかしみじみと感じ入ってしまう。途中、ウィリアムズという一家がここを去って行き、その際に周りの住人からボロボロにこき下ろされるのだが、正直こんなところにいなくて正解だよ……と思ってしまう。(当のウィリアムズ一家はここを離れることを悲劇だと考えているのだが)


 そうして人間の嫌なところを煮詰めた日々の先に、とある事件が起こるのだが、その発生から決着に至るまでも、見ていて嫌だなあ……と思ってしまうようなものなのだ。でも、ペッパー通りであればこうなる。タイトルは『壁の向こうへ続く道』だが、この救いようのない住人達に、そんなものは与えられない。彼らはずっと悪意の煮凝りの中で暮らしていくのだ。(もしかすると、この小説の最後の一行こそが、彼らにとっての唯一の「道」なのかもしれないが)


 こうしていい小説を読んでいると、気が紛れて全てを忘れられる──とはいえ、来週もまた歯医者の予約は入っていて、私はきっとまた恐ろしい目に遭うはずで、現実とはままならない


「留年した未来の作家は、ドイツ語の単位を取るために英語を勉強した。なぜか」


次回の更新は4月18日(月)17時です。

Written by 斜線堂有紀 

小説家。2016年、第23回電撃小説大賞にて“メディアワークス文庫賞”を受賞。受賞作『キネマ探偵カレイドミステリー』でデビュー。著作に『詐欺師は天使の顔をして』(講談社)、『恋に至る病』(メディアワークス文庫)、『ゴールデンタイムの消費期限』(祥伝社)などがある。2021年、『楽園とは探偵の不在なり』(早川書房)が本格ミステリ大賞にノミネートされ、注目を集める気鋭の書き手。

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