二月〒日

文字数 6,938文字

1日1冊、3年で1,000冊の本を読み、月産25万字を執筆し続ける小説家・斜線堂有紀。


謎めいた日常はどのようなものなのか――

その一端が今ここに明かされる。


毎月第一・第三月曜日、夕方17時に更新!

夕暮れどきを彩る漆黒の光・”オールナイト”読書日記が、本日も始まる。

前回の日記はこちら


二月〒日

 これは北海道から東京に戻る飛行機の中で書いている。補足すると、乱気流の中で書いている。私は旅行が好きで、コロナ禍が始まる前は度々旅行に行っていた。だが、この旅行好きの性質を裏切るように、私は飛行機が大の苦手だ。勿論、飛行機が墜落することが稀であることや、飛行機事故に巻き込まれるよりも車による交通事故に巻き込まれる確率の方が遥かに高いことも知っている。とはいえ、飛行機は理屈じゃなく怖い。特にこのような乱気流の中では、明確に「死」の文字を意識してしまう。この揺れによる安全上の問題は無いそうだが、その言葉を聞いただけで身が竦む。友人にパイロットをやっている人間がいるのだが、彼が就職した時に「こ、怖く……ないのか?」という気持ちが強すぎて、「おめでとう!」の次にそのまま口に出してしまった。最悪である。飛行機はそうそう落ちないので、みんなそんな心配はしないのだそうだ。現代文明を信頼している……。


 揺れる飛行機の中で『だからダスティンは死んだ』を読んだ。『そしてミランダを殺す』『アリスが語らないことは』を書いたピーター・スワンソンの新作である。邦訳をどんどん出してくれる東京創元社のお陰で、とんでもないスパンで作品が発表されているような錯覚に陥る作家だ。


 これはとある証拠品を見つけてしまったことから、隣人・マシューを殺人犯だと疑うようになったヘンの葛藤を描いたサスペンスである。正直なところ、ここまで抜き出せば魅力的だがよくある物語だ。有名なものだと、夫が殺人鬼である証拠を見つけてしまった妻の葛藤を題材に取ったスティーヴン・キング『素晴らしき結婚生活』なんかが挙げられるだろうか。


 だが、そんなありきたりな物語で終わらないのがピーター・スワンソンである。なんと、視点人物の変更により、マシューが殺人犯であることは即明かされる。疑惑ではなく、マシューは歪んだ思考で殺人を犯す殺人犯なのだ。これは疑惑の隣人との探り合いの物語なのだろう……と身構えていた読者の予想を裏切り、物語が3%しか進んでいないのにこの作品最大の謎を明かしてしまうのである。これ残りの97%は何するの? というところでまずドキドキさせられた。探り合いをしないならどうやって告発するかの物語になるのか? けれど、証拠があるかつマシューがまるで隠そうとしていないこの感じで一体……と思っていると、信頼出来ない語り手達による予想のつかない展開が幕を開ける。


 この物語における最初のどんでん返しとしてヘンのとある過去(この物語にはかなり大きく関わってくる過去)が明かされるのだが、その驚きすらまだまだ序の口。特に中盤のマシューの「こいつ……開き直ってるのか!?」という行動が描かれる辺りは、あまりにも面白くて目が離せなかった。読者がある程度予想できる筋書き……と見せかけて、ことごとくそれを裏切ってくるのが小気味よくすらある。『アリスが語らないことは』を読んだ時も思ったのだが、スワンソンは自分の作品がどう読まれているかを強く意識し、期待に応えつつもそれをどうにか裏切っていこうと意欲的な作家なのではないかと思う。スワンソン作品なんだから、この辺りでひっくり返してくるだろう、こういうやり方で読者を欺してくるのだろう、という思い込みを逆手に取って仕掛けてやろうという意欲が凄いような気がしている。


 後書きにてこれからのスワンソン作品の邦訳予定を眺めていると、着陸のアナウンスが流れた。飛行機は比較的乗り物酔いがしにくく本が読みやすい乗り物である気がする。こうして密室状態で本を読むと捗るんだよな……なんてことを考えていたら、着陸の時の揺れが骨を震わせて、私は怯えた。全然関係が無いのに飛行機が大変なことになる映画(『ハドソン川の奇跡』『フライト』『元カレとツイラクだけは絶対に避けたい件』など。それにしても『元カレ~』の邦題、散々バズって弄られていた上に別にこのタイトルのお陰で大人気! というわけでもなかった気がするので恐ろしい。邦題は難しいものだ)を思い出す。


 私以外は特に怯えることなく平然としていた。みんな飛行機のことを信頼しているのだ。たった十数秒のことで心を磨り減らした私を後目に、飛行機は普通に着陸し、北海道に着いた。


 所用を済ませた後は、温泉に浸かりお寿司を食べ、鮭とばを買って帰った


 本を読む為にどこかに旅行に行くのもいいかもしれない……と思ったものの、帰りの飛行機でもまた私は怯えた。ちなみに、帰りのお供はスティーヴン・キング『ダークタワーⅡ 運命の三人 上』である



二月◎日

 河出書房新社から『百合小説コレクションwiz』が発売された。私は「選挙に絶対行きたくない家のソファーで食べて寝て映画観たい」という短篇で参加している。タイトルそのまんまの感情を持った、政治に全く関心が無く生活においてとてもだらしないが、一緒に暮らす同性の恋人・恵恋のことは大好きな那由他という女性の物語である。選挙にすら行かない那由他に対し、恵恋は政治活動に熱心で、同性婚が早期に認められるようになるべく頑張っている。この政治に対する熱量の違いが、恋人同士をどんどんすれ違わせて行くのだ。


 個人的には選挙には沢山の人に行ってほしい人間なので、面倒だからという理由だけで選挙権を捨てる那由他とは相容れない。(個人的に、この松本那由他という女性が今まで書いた中で一番「苦手」と「共感」を一身に集めた人物なのではないかと思う)


 だが、それはそれとして彼女が同性愛者であることが、彼女の不真面目さを更に悪目立ちさせ糾弾されるものになるのではないか……。その根っこには法の不備があるのに、どうして那由他だけが余計に責められるのだろう?


 実業之日本社の百合アンソロジー「彼女」収録の「百合である値打ちもない」の時にも同じことを言ったのだが、私は百合小説を書く時に何かしら問題意識を持ちたいと考えている。今回は、政治意識についての話になった。奇しくも現実の方で同性婚についての暗い話題が出た時に発表となったので、少し複雑な気持ちである。けれど、多くの方に読んでほしい。


 ちなみに当アンソロジーで私が特に好きなのは坂崎かおる「嘘つき姫」だ。舞台は1940年の戦時下。意味ありげに付けられた章番号に首をかしげながら読み進めていくと、物語に仕掛けられた企みに気づくというミステリ要素のある一作だ。辛く厳しい時代に「愛」がどのように力になったかを描く物語だった


 異形コレクションの時も思ったのだが、こうしたアンソロジーに参加すると身が引き締まる思いがある。他の作品と遜色無い出来であるかが気になり、もっと研鑽を積まなければと思うのだ。


 それでいうと、私が小中学生時代に読んで多大なる影響を受けた戯言シリーズの新刊『キドナプキディング』も、私のモチベーションとなった。シリーズを知らない方に簡単に説明すると、物語の主人公は当該シリーズの語り手の娘である。その娘が、父がかつて出くわしたものとよく似た首切り殺人事件に遭遇するのだ。……このあらすじだけで、シリーズを読んでいた読者の感動が伝わるだろう。ここ近年ますますミステリセンスを冴え渡らせている西尾維新が、今このミステリを書き上げたということに感動してしまう。シリーズの最新作が安定して面白いというのは偉業だ……。これも、真面目にキーボードに向かう意欲を与えてくれた一冊だった。ありがとう、二十年ずっと楽しませてくれて……。そして、講談社ノベルスよ永遠なれ……



二月☆日

 この間のノーベル文学賞をアニー・エルノーという作家が受賞した。こういう時に動きが速いのが早川書房の特徴で、この度ノーベル文学賞を受賞した『嫉妬/事件』『シンプルな情熱』がもうAudibleで配信されることとなった。Audible愛好家としてはとてもありがたく、早速聞いてみることに。


 そして驚いた。アニー・エルノーがこんなに私好みの作家だったなんて……! おこがましい物言いだと思いながらも敢えて言うが『愛じゃないならこれは何』などの恋愛小説が好きな人は、アニー・エルノーの小説が気に入るに違いない。というのも、彼女の作品は強い感情に振り回され恋愛の中で自分を見つめ直す物語が多いからである。(物語、といってもアニー・エルノーは自分自身の経験を小説化するオートフィクション作家であるのだが)


 まず『嫉妬/事件』の表題作となっている「嫉妬」だが、これは元カレに新しい恋人が出来た瞬間から激しい嫉妬に苛まれ、四六時中新しい女のことを考えるようになった「私」を描いた物語だ。その嫉妬の強さといったら凄まじく、「私」はありとあらゆる手段を使って新しい彼女を特定しようとし、怒りに胸を焼き続ける。その熱意を見た元カレが危険を感じ、「私」に新しい彼女の情報を一切与えないくらいだ。(ちなみに「私」と元カレは今でも身体の関係がある。「私」は彼に未練があって、明らかにクズなこの男から何故か離れられないのだ)


 「私」の嫉妬はエスカレートし、彼女の日々の大半は新しい彼女を探すために費やされる。憎しみや苦しみしか無いのに、どうして考えるのをやめられないのか。……やめられないんだよなあ、と、この小説を読むと思う。嫉妬という名の無間地獄を彷徨いながらも、「私」の語り口は何故か冷静で淡々としている。嫉妬に突き動かされる「私」を、その冷静な筆致が理解させる。この語り口こそが、アニー・エルノーの真骨頂なのだろう。とはいえ、愛に狂ったが故の異常行動は、痛々しいけど理解も出来てしまって、ユーモラスだけれど悲しくもあって、苦しい。というかどの時代のどの国の人も「その女誰だよ!! 赦せねえ!!」の気持ちは共通しているんだな……としみじみしてしまった。嫉妬は共通言語だ


 色々なことが起こりつつ、嫉妬の日々は元カレによる「とある一言」で終わる


 この一言が一番胸に残った。これを言われたら、確かにおしまいだな、と納得してしまう一言だった。これを言われたら、もう新しい彼女には勝てない。自分の存在はどうしたって「二番目」なのだと思い知らされて、折れる。それが分かったからこそ、読者も「私」に「もういいよ」と言ってあげたくなるのだと思う。この一言が何かは、是非とも読んで確かめてほしい


 恋愛って人を狂わせるよな……と思いながら『シンプルな情熱』(既婚年下男性と浮気をして、都合のいい女になった時の話。都合の良い女の軽んじられ方がとても生々しくてキツい。欲望しか無い男のすがすがしいクズっぷりも怖い。それに対し異常に執着して逃れられないどころかどんどん彼に依存していく様も辛い。あまりに赤裸々すぎて賛否両論が寄せられた作品である。題材が題材なのでさもありなん)を聞いて、更に頭を抱えた。恋愛で人は狂う! その経験を上質な作品に仕立てるアニー・エルノーは凄い!


 一方で、堕胎手術が違法だった頃の堕胎経験を描いた「事件」でもあの冷静な筆致は健在で、守られることなく一人で彷徨う「私」の姿は、当時の女性が受けていた苦難をありありと描き出す。狂いそうな熱情も、消え入りそうな心細さも、同じように掬い上げて作品にする──それがアニー・エルノーなのだ


 ノーベル文学賞をきっかけに、アニー・エルノーがもっと広く読まれてほしいと思う。彼女の作品を読むのには痛みを伴うが、それは読者を救う痛みなのではないかと思う



二月○日

 人生初の人間ドックに行った。友人が血尿を出して病院に行ったからだ。


 元より忙しそうな人間だと思っていたのだが、あまりのことに戦いてしまった。だって……そんなの……大変なことじゃないか? 経過を呟く友人を見ながら、私は近くで受けられる人間ドックを調べ、即日予約に走った。身近な人間の不調ほど自分の生活を省みさせることもない。


 身体が弱く病院通いをしていたが故に何より病院に対して怯えている人間なので、何の病気でも無いのに病院に行くというのが怖くて憂鬱だった。まだドックを予約しただけであるのに、重大な病が見つかった人のような気分で日々を過ごした。おまけに前日の夜は採血の注射が怖くて眠れなかった


 そうして迎えた当日、待ち時間が長いだろうと予想して『三体0 球状閃電』を持って行った


 大好きな三体シリーズの前日譚ということで、楽しみに待っていた一冊である。この本の面白さで、恐怖を克服しようという試みだ。球電という謎の自然現象に両親を殺された青年・陳は、両親を殺したこの現象の正体を探るべく研究を重ねていく。その最中、彼は運命の人・林雲に出会う。彼女は兵器開発に取り憑かれた軍人で、この球電を兵器に転用しようと目論んでいたのだった……。


 とにもかくにも、冒頭で描写されている球電が怖すぎる。球電は壁だろうと何だろうと何もかもをすり抜けて、周囲にあるものを灰に変えてしまう代物である。人間が球電に近づくと、人間の形の灰が出来上がるというわけだ。陳は両親がぼろぼろと崩れていくとこをを目の前で見たわけである。怖い。SFはそのスケールの大きさから、想像の範囲外の恐怖を描いてくることが多いが、どんなところでも貫通してきてガードも出来ず、一瞬で人の形の灰になる自然現象……怖すぎる。これを兵器にしたら凄いことになるぞ! と目を輝かせる林雲も怖い。勿論彼女がこうなったのには理由があるのだが……恐ろしい現象を兵器に変えることに躊躇いが無い人間が怖い。とはいえ、この恐ろしい現象を扱いながら、しっかりエンターテインメントをやるのが劉慈欣作品だ。球電の謎を追いながら兵器開発に勤しむ人々を描くミリタリーSFの趣もあって面白い。


 この物語がどうやって三体に繋がるのだろう? と思っていたが、後半でしっかりとその謎も明かされる。三体読者はとある一文と中盤に出てくるあの人物を見ただけでほくそ笑むことになるだろう。ああ、これってここに繋がるのか……! と感動した。(訳者あとがきでは、更に驚きの事実が明かされるのだ)三体ロスを忘れさせてくれる、最高の一冊だった。


 これを読めば恐怖なんて忘れられる……と思ったのだが、ものの数ページを読んだところで診察室に通され、克服どころか心の準備も出来なかった。最近の人間ドックはスピーディーだ


 最初は問診から始まったのだが、何故かお医者さんが神妙な顔つきで問診票と私の顔を見比べていて不安を覚えた。ややあって、お医者さんが言った


「問診票を見たんですが……何か……身体で気になるところは無いですか?」

「? 特には無いです」

「無いんですか? え? 本当に?」

「見た感じ、何かまずそうですか……?」

「まずくはない人が、どうしてこんなに検査を受けるんですか……?」


 実は、恐怖に駆られた私は人間ドックにありとあらゆるオプションを付け、身体を寸刻みにする勢いで調べることにしたのだ。友人に「そこまで調べたら何かしら出るだろ……」と呆れられたくらいだ。そこまで調べるからには何かしら病気の兆候があるんじゃないか? 自覚症状はあるのか? というのがお医者さんの言い分だった。単に怖いからだというと、お医者さんはようやく笑顔になってくれた


 各種様々な検査を受け、最後に一番怖がっていた採血を終えると検査が終わった。ちなみに、採血を怖がりすぎるとベッドに寝かされた上でタオルで目隠しをされての採血が行われる。子供への対応だ


 結果は三週間後に出るらしい。何も無く、ぬくぬく安心出来ることを切に願う。


 そんなことを考えている時にアーノルド・ファン・デ・ラール『黒衣の外科医たち 恐ろしくも驚異的な手術の歴史』を読み、全く正解が分からないまま人間の身体を切り刻み、何となく治ったり治らなかったりして「まあ……こんなものか」で済ませていた時代を知って恐怖で泣いた。ちゃんと外科手術の理論が発達し、麻酔まっで施してもらえる現代なのだから、病院ぐらい嫌がらずに行け! という気持ちになった気も……しなくはない。


講談社ノベルスよ永遠なれ……。


次回の更新は、2月20日(月)17時を予定しています。

Written by 斜線堂有紀 

小説家。2016年、第23回電撃小説大賞にて“メディアワークス文庫賞”を受賞。受賞作『キネマ探偵カレイドミステリー』でデビュー。著作に『詐欺師は天使の顔をして』(講談社)、『恋に至る病』(メディアワークス文庫)、『ゴールデンタイムの消費期限』(祥伝社)などがある。2021年、『楽園とは探偵の不在なり』(早川書房)が本格ミステリ大賞にノミネートされ、注目を集める気鋭の書き手。

斜線堂有紀氏のTwiterアカウントはこちら

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色