2月∀日

文字数 4,329文字

1日1冊、3年で1,000冊の本を読み、月産25万字を執筆し続ける小説家・斜線堂有紀。


謎めいた日常はどのようなものなのか――

その一端が今ここに明かされる。


毎月第一・第三月曜日、夕方17時に更新!

夕暮れどきを彩る漆黒の光・”オールナイト”読書日記が、本日も始まる。

前回の日記はこちら

2月∀日

 劉慈欣『白亜紀往事』がAudibleで配信されたので、嬉々として聞く。これは共生して進化した恐竜と蟻が、現在の人間と同じように地球の支配者として文明社会を築き上げたパラレルワールドの物語だ。実はこの小説には短編小説版が存在し、以前取り上げた『老神介護』という短篇集に収録されているのだが──それとはまるで違った読み味の物語になっているので、そちらで読んだからなあという方も是非読んでみて頂きたい。


 恐竜は人間の如き想像力と好奇心を持ち合わせていたものの、器用な手を持たないが故に細かい道具を作ることが出来ず文明の袋小路にいた。一方の蟻は身体の小ささと単純な思考しか出来ない頭脳の為に、同じように袋小路に嵌まり込む。そんな二種族は、互いの弱点をカバーすることによって飛躍的な進化を遂げる。短篇版ではこの辺りの詳しい描写や経緯が簡略化されているのだが、こちらでは「確かにその方向で歴史が進んで行ったら、恐竜と蟻の文明が成立するだろうなあ……」と、荒唐無稽な嘘をしっかりと信じさせてしまう構成になっているのである


 劉慈欣は名作『三体』でも蟻を要所要所に登場させていて、かなり愛着を持っている。だからか、この物語に出てくる蟻はユニークで可愛い。人間に近い性質を持った高慢ちきな恐竜に対して、小さくて冷静な蟻の方の愛らしさと言ったら……。


 とはいえ、蟻がどうやって高度な文明を作り上げるかという部分で、個を限りなく薄めた集合意識的になっていくのは、ロマンがあるものの恐ろしさも覚える。蟻の言葉も蟻のコンピューターもかなり有機的なものであるし、彼らが動く時は群れが前提で、黒いボールとして一塊で射出されるところを想像すると……。恐竜はそれこそジョージ・オーウェルの『動物農場』のようにすんなり擬人化を受け容れられるのだが、蟻はどうしても人間に置き換えて考えることが難しい。それが蟻の面白いところなんだろう。


 小さい頃、科学雑誌の付録でアントファームが付いてきたことがあった。同梱されていた蟻専用掃除機みたいなもので蟻を吸い込み、アントファームの中に放流するという方式だった。私はこのキャトルミューティレーション装置の方にいたく惹かれて、蟻自体には全く興味がないのにもかかわらず蟻採集に行った。


 道端をてくてく歩いている蟻は簡単に吸い込まれ、蟻掃除機の中に溜まっていった。十匹くらい捕まえたところで、この黒いもやもや一つ一つが意志を持っていることを恐ろしく思って放流した。そして私はこの蟻掃除機で砂絵セットの砂を吸い込みまくり詰まらせて壊した。それ以来蟻とは積極的に関わっていない


 それから十数年後、一人暮らしの弟の家に数匹の蟻が発生したことがあった。窓を開けていたら入ってきてしまったらしい。弟は蟻に怯えながら暮らしていたので、私はその数匹に名前を付けることで恐怖心を克服するようにアドバイスをした。弟は本気で名前を付けて、なんとなく蟻への恐怖心を克服した。私は弟が詐欺に引っかからないか心配になった。

 蟻と個の話である。



2月/日

 インド映画が好きでよく観るのだが、インド映画はどれも例外無く面白い。この間、気になっていた『バジュランギおじさんと、小さな迷子』を観たのだが、これがオールタイムベストに入るほど面白くて素晴らしかった。腹を抱えて笑えるのに、きっちり泣かせてもくる。社会に対する問題を取り入れ、あれこれ考えさせるのに、何も考えなくても観られてしまう。エンターテインメントの全ての要素を兼ね備えているのがインド映画なのだ。だから、とにかく面白いものを観たい時はボリウッドの映画をチョイスするようにしている。


 もしかして映画だけじゃなく、インド小説もエンターテインメントの最前線なんじゃないかと思わせてくれたのがラーフル・ライナ『ガラム・マサラ!』だった


 貧困層に生まれチャイ売りを生業としていた少年・ラメッシュはその頭の良さを生かして不正入試コンサルタントとして働いていた。現代のインドは徹底した学歴社会であり、試験の成績や学歴がそのまま社会的な階級に直結する。カースト制度が根強く残るインドにおいて、勉強は一発逆転のチャンスなのだ。しかし、そのチャンスすら資本に吞まれ、今やお金持ちの子女は替え玉受験用のコンサルタントを雇って不正に大学入試をパスする時代に。ラメッシュは他の誰かに成り代わり、今日も試験に合格する。


 しかし、ラメッシュがルディという少年の替え玉受験を引き受けた際に事件が起こってしまう。なんと合格だけすればいいはずだった試験で、ラメッシュは首席になってしまうのだ。ラメッシュに試験を代行してもらったルディは、一夜にして天才少年として名を馳せる。だが、当然ながらルディはそんな頭の良さなど持ち合わせていない。ルディは天才としてメディアに出て金を稼ぐようになるが、それは破滅へのカウントダウンだった──という物語だ。


 日本でも学歴は重要なものとされているけれど、インドにおいてそれは殆ど死活問題だ。同じようにインドの学歴社会を描いた『ヒンディー・ミディアム』という映画があるのだが、その映画では子供を名門学校に入れる為に、高い塾に通わせるだけでなく、学校に賄賂を渡したり所得を偽装して貧困層向けの特別枠に入ろうとしたりと、常軌を逸した行動を取る夫婦が描かれる。驚くのは、それが決してありえないことではない点だ。


 ラメッシュは才能があるが、それを正当に生かす機会には恵まれない。本来、ちゃんと試験を受けられる状況にあれば──ラメッシュは本物の天才少年として有名になれる人間なのである。だが、社会がそれを許さなかった。このクライムサスペンスは、搾取され続ける人間の苦しみと怒りをエンターテインメントに昇華している。一見すると救いが無くて苦しい展開も、ラメッシュの軽快でシニカルな語りを通すとするすると読めてしまう。この読み味にも唯一無二の面白さがあった。


 帯を見てみると、なんと映像化の話もきているらしい。この作品の映像化なら、凄まじい傑作になるだろう。面白すぎるものを観ると焦るのだが、映像化が楽しみで仕方がない



2月◎日

 〆切が迫っているのにもかかわらずアイディアが全然出てこないので「島から脱出する脱獄もの」という見通しが全然立っていないプロットを提出した。この時点から嫌な予感はしていた。私がちゃんとプロットを提出する時は、大体が本篇を提出出来る見込みが立っていないが故に、時間を稼ぐために提出するパターンが多いからだ。すいすい書ける時はそれこそプロットもそこそこに書き始めている。それが出来なかった時点で、まだアイデアが煮詰まっていないのだ。


 なので、中身の無いプロットを提出した後、何かしら脱獄ものの資料を読まなければという気持ちでルネ・ベルブノワ『乾いたギロチン』を読む。このタイトルはご存じの方が多いのではないか。これは筆者ベルブノワがギアナの流刑地から脱走した時のことを綴った、世界で一番有名な脱獄回顧録である。彼がギアナに流されたのは1923年のことなので、初版はなんと1938年だ。それが現代の日本でもすんなり読めるなんて、なんだか果てしない気分になる。


 さて、ベルブノワの華麗な脱獄法を参考にしようと読み始めたものの、これが色々な意味で全然参考にならないものだった。まず、彼が流されたギアナの流刑地の状況がすごい。一応は労働のために連れて来られたという体になっているのだが、環境が劣悪な上に労働自体も適当なので、最早連れて来られた囚人を雑に殺すためにやらせているとしか思えないのである。処罰も処刑も監視している番人達の気分で決まる。かと思えば囚人達が独自のコミュニティを作り、賭博に興じていたりもする。厳しいのだか緩いのだか分からないこの流刑地で、脱走自体は簡単だ


 それでもベルブノワが脱走に失敗するのは、単純にギアナの環境が過酷すぎるからなのだ。海に囲まれた孤島である上に、収容所の周りはジャングルで覆われている。脱走すると獣に食われたり、迷って野垂れ死ぬから脱走が出来ない。シンプルだけどとても効果的な配置だ。アルカトラズもジャングルの中に置いておいた方が脱走を防げるのかもしれない。


 そんな中、ベルブノワがどんな計略で流刑地を抜け出したかというと──これが、カヌーを作って無理矢理海を渡り、ジャングルの中を頑張って突破して、インディオであるクナ族の村に辿り着いてしばらく暮らすという物凄い力技だった。ああ、番人達を知略で騙したり、あっと驚く方法で脱出したわけじゃないんだ! 人間、最後に必要なのは体力! でも、ベルブノワ自身の筆で綴られる必死の冒険は、本人の切実さも相まって面白い。勢いよくジャングルを突破して海に飛び出していけば、絶海の孤島からも脱出出来る。そういうことだ。


 そうしてベルブノワの不屈の精神と体力・運の良さに感銘を受けたものの、これを小説に生かすにはどうしたらいいだろう……とまたも袋小路に嵌まり込んだ。結果、提出したプロットを平謝りで破棄して別のものを提案させてもらうことになった。一体何をやっているんだろう?


 家に帰ると、注文しておいた島流しについての資料がどさどさと届いていた。もう島の話を書くつもりはないのに、藁にも縋る気持ちでいた数日前の自分が追いかけてきている。これは純粋な読書として楽しむから、これでまた何かに繋がるかもしれないから……そう思いながら、島流しの本を棚にしまった。


”私がちゃんとプロットを提出する時は、大体が本篇を提出出来る見込みが立っていない”

つまり、ここにあるプロットは……?


次回の更新は、3月4日(月)17時を予定しています。

Written by 斜線堂有紀 

小説家。2016年、第23回電撃小説大賞にて“メディアワークス文庫賞”を受賞。受賞作『キネマ探偵カレイドミステリー』でデビュー。著作に『詐欺師は天使の顔をして』(講談社)、『恋に至る病』(メディアワークス文庫)、『ゴールデンタイムの消費期限』(祥伝社)などがある。2021年、『楽園とは探偵の不在なり』(早川書房)が本格ミステリ大賞にノミネートされ、注目を集める気鋭の書き手。

斜線堂有紀氏のXアカウントはこちら

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色