七月★日

文字数 6,847文字

1日1冊、3年で1,000冊の本を読み、月産25万字を執筆し続ける小説家・斜線堂有紀。


謎めいた日常はどのようなものなのか――

その一端が今ここに明かされる。


毎月第一・第三月曜日、夕方17時に更新!

夕暮れどきを彩る漆黒の光・”オールナイト”読書日記が、本日も始まる。

前回の日記はこちら

七月★日

 森博嗣『馬鹿と嘘の弓 Fool Lie Bow』の文庫化に際し、解説を担当させて頂いた。実をいうと、引き受けるか迷った仕事だった。というのも、私は昔からの読者というわけではなく、代表シリーズであるS&Mシリーズですら読破したことがなかったからだ。


 しかし、S&MシリーズがAudibleで配信されるようになってからというもの、配信ペースに合わせて少しずつ楽しんではいた。依頼が来たタイミングでは配信されたばかりの『今はもうない SWITCH BACK』(S&Mシリーズの八巻目)を聞いて「え……西之園萌絵……?」と胸を掻き乱されていた。この巻、発売当時とんでもない反響だったんじゃないだろうか? あまりに読者の感情を掻き乱しすぎている……!


 そういうわけで、解説を引き受けていいものか……と悩んだのだが「ここから森博嗣先生の作品に触れる方が出てきてほしい」という意図を聞き、Audibleで配信されていない最終巻までS&Mシリーズを一気に読み切った上で「初めての森博嗣」をテーマに解説を書かせて頂くことになった。このタイミングでしか書けない解説になったと思うので、依頼してくださったことに感謝しきりである。


 というわけで、森博嗣『馬鹿と嘘の弓 Fool Lie Bow』に関して、解説とは別角度で紹介しようと思う。


 この物語は物腰穏やかで理知的なホームレスの青年・柚原の正体を、彼と交流のあったホームレスの老人・飯山の死を通して探っていこうとするというシンプルなミステリである。探偵の調査は地に足の着いたもので、行動すればするだけ事実が明らかになっていく過程は、読者の手を止めさせない。この読みやすさも、森博嗣作品の第一冊目にこれを推す理由の一つである。この本を読めば森博嗣作品の「良さ」が感覚的に理解出来るだろう、というのも解説に書いた。


 それに加えて、これを読めば森博嗣という書き手に対する信頼が生まれるはずだ、ということも書き添えておきたい。これを読めば森博嗣がどんな風に社会を見て、どんな風に人間を捉え、何を伝えたいのかが分かる。信念を持った書き手がこの小説を世に送り出したということで、森博嗣作品に信頼を置くことが出来るのだ。これから沢山ある森博嗣の傑作を読んでいくにあたって、この信頼があることは大きいんじゃないかと思う。


 初めて読んだ時、この小説のラストには度肝を抜かれた。何度か読み返し、自分の中でその展開を咀嚼して受け止めなければいけなかった。しかし、その展開が突飛だとは全く思えなかった。然るべきところに辿り着いた、という感覚だけが残った。ここに向き合う探偵達の惑いこそ、現代の探偵譚を描くにあたって忘れてはいけないものだろう。


 続く『歌の終わりは海 Song End Sea』も好きで(こちらもまた重いテーマを扱っているのだが、こちらは一転して清々しさすら感じさせる。とある物事について押しつけがましくなくフラットに描くところに、驚き考えさせられた)心に残る一作であったのだが、私はやはり『馬鹿と嘘の弓 Fool Lie Bow』が好きだ。出来る限り多くの人がこの物語を入口にしてくれたらいいと願っている。


 ところで、折角読破したのだから、どこかの回でS&Mシリーズの全作レビューもしたい。したいと言うのだけは自由だ!



七月☆日

 トリ・テルファー『世界を騙した女詐欺師たち』を読む。これはタイトル通り、女詐欺師の事件について扱ったノンフィクションだ。「ほしいものは必ず手に入れる大胆不敵な悪女たち」のキャッチコピーに恥じず、とにかく彼女達は欲望の圧が強い。本の中で一番有名なのは、マリー・アントワネットの首飾り事件を起こしたジャンヌ・ド=サン=レミだろう。ジャンヌが起こした首飾り事件は勿論、彼女がどういった道筋を辿って事件を起こすに至ったかが詳細に綴られていて、読み応えがある。


 あまり知られていない詐欺師で、恐らくこの本の中で最も非道なのがサンテ・カイムズだろう。サンテは大富豪を籠絡し、財産を奪い、その上で好きなものを好きなように盗み、常に訴訟に追われ続けていた。奇妙なことに、サンテはあらゆる手練手管を使って裁判自体を引き延ばし、巧妙に罪を逃れ続けたのである。おまけにサンテは残虐で、周りの人間を恐怖で支配していた。大量に雇ったメイドを軟禁し、嘘で雁字搦めにして過酷な労働に従事させる様は、モラルの無い口八丁がどれほどの威力かを知らしめてくれる。おまけに、サンテは自分の邪魔をする人間を排除することに躊躇いが無く、いともたやすく殺人を犯す


 サンテの最大の被害者は実の息子ケニーである。母親に支配されたケニーは、その後アメリカを横断する逃亡旅行に付き合わされることになる。


 サンテ・カイムズは人間とは思えないほど邪悪で、彼女の人生は目まぐるしく忙しない。だが、サンテに人間の持つ底知れないパワーを感じるのも確かだ。欲望の為に、人間はこれほどまでに走り続けることが出来るのか。たかだが30ページほどしかないサンテの項を読んだだけでドッと疲れ、魅了された。あまりにもサンテの事件が濃かったので、彼女のことが詳しく書いてある本が無いかと探したのだが、今のところ出版されていないようだ。


 他にも、霊能詐欺師として富を成しフーディーニを激高させた女や、あまりに逃亡が上手かったが故にインタビューを受けるまでの人気者になった女、ハリウッドで成功しようと野心を抱いた結果詐欺師となってしまった女など、様々な事例が紹介されている。


 これと同時期にキャロリン・ウッズ『サイコパスに恋をして』を読んだので、人の心の脆弱性のようなものを考えさせられた。これはキャロリン自身が遭ったロマンス詐欺を赤裸々に綴ったノンフィクションである。キャロリンの前に現れた詐欺師は、身なりが良く容姿端麗で喋るのが上手い。キャロリンはすぐさま恋に落ち、彼との結婚を望むが、彼はなんと結婚を餌に金を引き出す詐欺師だった! というのがあらましなのだが、この詐欺の手口がすごい。


 嘘で金を引き出す方法はいくつかあるだろうが、ここで出てくる詐欺師の使う理由が「実は自分は国に雇われているスパイなんだ。だからなかなか結婚出来ないし、恋人がいると知れたら君が狙われてしまう。君には理解してサポートしてほしい」なのだ。え、そんなの騙されるのか……? と思ってしまうけれど、一回懐に入れてしまうとなんだって信じ込んでしまうのが人間でもある。この男はスパイ設定を利用して都合が悪くなると「敵に撃たれた、手術する」「極秘任務で中東に行く」で会うのを拒否してくるのだが、もうそれを言われたら……確かに……貸した金の話や結婚の話が出来るはずもない……。こうして考えると、ふざけてるのか? と思ってしまうようなスパイ設定が案外上手い手のように思えてくる。本当にそうだろうか?



七月◎日

 今年の夏、海外ミステリが熱い

 日本推理作家協会賞の翻訳部門で今年も選考に携わる予定なのだが、選ぶのに悩んでしまいそうだ。


 既に各所で話題になっており、私も推薦文を寄せたのがマーティン・エドワーズ『処刑台広場の女』だ。1930年のロンドンで、不可解な自殺や衆人環視下での焼死事件が起こる。被害者はどれも黒い噂の立つ悪人ばかり。一連の事件の裏に趣味で探偵をやっているレイチェル・サヴァナクという女がいると聞きつけた記者のジェイコブは、レイチェルを調査することに決めるが──というのが、物語のあらすじである。「この女は名探偵か、悪魔か。」というキャッチコピーはここから来ているわけだ。


 だが、物語が始まってすぐに、レイチェルが物凄い冷徹さで彼らに私刑を加えていることが明らかになるので、正直裏にレイチェルがいるのか……? というあらすじは正しくないんじゃないかとすら思う。だって、やってるから……。あまりの容赦の無さ、レイチェルのドライさに、読者はかなりたじろがされる。じゃあ単純な話なのかというとそうでもない。果たしてレイチェルは何者で、どんな理由でこんな行為をしているかはそうそう明らかにならないからだ。合間に挟まれるレイチェルは情の無い悪魔のようで、何か理由があるにせよこの女はただ者じゃないだろ……と読者を引きつけてやまない


 探偵が自らの力と実現したい正義の狭間で苦悩する展開はよくあるものだが、レイチェルには彼女の「正義」を実現させる為に必要なものを全て持っている。その彼女が何故動き、何を達成するかを是非見届けて頂きたい一冊である。


 癖の強さとその読み味に惚れ込んだのがピーター・スワンソン『8つの完璧な殺人』である。またしてもピーター・スワンソン! 曲物ばかりを生み出してきた作家が送り出してきた新作だが、まず「読む人を選ぶな……」と思ったのは、冒頭に「この小説には実在の推理小説のネタバレがあります」という注意書きと、ネタバレをされる作品のリストが載っているところだ。ここで躊躇う人、多いんじゃないか……!? と正直思った。実際、私も読んでいないミステリがあったのだが、未邦訳であることから諦めた。国内にこの小説を安心して読めるようなミステリマニアは何人いるのだろうか。


 一体どうしてそんな注意書きを? と疑問に思う方も多いだろうが、残念ながらこの作品において既存作品のネタバレは絶対に必要なものなのである。何故ならこの小説のあらすじは「ミステリマニアの書店員が『小説内で行われた8つの完全犯罪のリスト』を公開した結果、その8つの本のトリックを使った完全犯罪が起きてしまう」というものだからだ。どうだろう。……ネタバレをされても読みたくなってきたんじゃないだろうか?


 ミステリマニアなら誰もが思ったことがあるだろう「このトリックを現実で使ったら完全犯罪が成立するんじゃないか?」という気持ちを作品に昇華される気持ちよさ。一体誰が何の為に完全犯罪を行っているのか? や、時折挿入される書店員の過去というサスペンス要素も相まって、ぐんぐんページを捲らせてくれる一冊である。正直、このアイデアを使う胆力がまず凄い。たとえ思いついたとしてもなかなか一冊の小説にするのは難しいのではないかと思う。かなりおすすめの一作である。


 絶対に言及しておかなければならないのが、ホリー・ジャクソン『卒業生には向かない真実』だ。『卒業生には向かない真実』は『自由研究には向かない殺人』から続く三部作の完結編だ。簡単におさらいしておくと、聡明で行動力のある女子高生のピップが、自身の配信している<グッドガールの殺人ガイド>というポッドキャストを通じて未解決事件を独自調査・解決する物語である。ひたむきで明るくユーモアがあり、何よりも正義と真実を重んじるピップの探偵譚が読者の心を掴み、一作目から大人気となったシリーズなのだが……。二作目『優等生は探偵に向かない』から、ピップの人生はゆっくりとかき乱されていく。


 というのも、このシリーズは探偵の業というものをかなりシビアに突きつけてくる物語だからだ。ピップがどれだけ真摯に事件を追い真実を明らかにしても、司法が正しく機能し犯人が裁かれるかは分からないからだ。それに、ピップの番組を愛聴してくれているはずのリスナーですら完全な味方ではない。彼らにとってピップは一風変わったエンターテインメントでしかなく、事態が思うように進まない時こそ彼らはピップに牙を剥くのだ。恋人のラヴィや周りの友人達に支えられながらなんとかポッドキャストを続けるものの、ピップは次第に疲弊していってしまう。


 そして迎えた三作目で、ピップは大きな岐路に立たされる。正義が機能しなくなり、自分を付け狙う何者かの存在を訴えても警察に信じてもらえないピップは、極めて孤独な戦いを強いられるのだ。事件のトラウマからまともに眠ることも出来なくなってしまったピップを見るのは辛い。発端が彼女の探偵活動であることを思うと、どうしてこうなってしまったんだ? と思ってしまう。ピップが冤罪を晴らしたり、犯人を捕まえたりしたことは「良いこと」であるはずだ。だが、彼女の善は報われず、踏みにじられる。そこでようやく読者の側も「ピップの探偵行為は正しかったのか?」と思わされてしまう。


 けれど、この三作目を読んでなお、私はピップの側に立ちたいと思った。彼女の行為の全てを肯定したい。<グッドガールの殺人ガイド>は素晴らしい番組だ、と言える。


 物語の盛り上がりに翻弄されつつ、一作目からの長い長い伏線回収にも唸った。そこをそう使うのか! ということに感動し、一体いつからこの青写真を描いていたのだろうと感動する。三作目が刊行されたこのタイミングで一気に読んだら、更に感動が増すのではないかと思う。



七月◇日

 やっていた仕事や抱えていた小説がようやく手を離れた。まだまだやることはあるのだが、一段落してありがたい……と思っていたら、怒濤のゲラ作業が始まった。今月から来月にかけて色々掲載される予定なのだが、つまりはその数だけゲラ作業があるわけで……。あたふたしていたら、今度は九月刊行予定の異形コレクション短篇集のゲラまで来てしまった。


 忙しいことはいいことだし、元気も出てくるのだが、それはそれとして体力気力がゴリゴリと削られていく。こういう時は本を読むと、少し元気になる


 (ちなみに、獅子『メンタル強め美女白川さん』を読むことでも少し元気になる。タイトル通りメンタルが強めの美女白川さんが日々をハッピーに生きる漫画なのだが、ポジティブでハッピーなメッセージを存分に伝えてくれるので嬉しい。あと、白川さんと上司のストイック美女・羽柴さんの関係や人気インスタグラマー・花ちゃんとの関係など、なんというか白川さんへの周りの感情が強くて嬉しい)


 ここ最近で一番嬉しい読書ニュースが桜庭一樹先生の読書日記シリーズ(『少年になり、本を買うのだ』『書店はタイムマシーン』)が電子書籍化されたことだった。中学生の頃、私は桜庭一樹先生のこのシリーズを読み、紹介されているものを片っ端から読むことで読書の幅を広げてきた。この人が紹介している本は絶対に面白い、と確信が持てる状況で読書生活を送れることはこの上なく幸福である。大人になっても読書が大好きな私のような人間は、実は桜庭一樹読書日記で育てられたんじゃないかと思う。


 実は、このオールナイト読書日記は桜庭一樹読書日記に憧れてやらせて頂くことになったものなのだ。人が楽しく読書をしている姿を読むのは楽しい、と教えてくれた桜庭一樹読書日記にとても感謝している。紙の本で所有しているけれど、嬉しすぎて電子書籍でも買ってしまった。また桜庭一樹先生の読書日記が読みたい……と密かに願っている次第である。


 『菜食主義者』がとても好みだったので、ハン・ガン『すべての、白いものたちの』を読んだ。ワルシャワを訪れたハン・ガンが、白から連想される言葉を綴るエッセイのような、掌編の、詩のような、断章群だ。ハン・ガンがその独特な感性で塩を、灰を、ろうそくを、わかれを綴る。ワルシャワの街を巡りながら、ハン・ガンは生後すぐに亡くなった姉を追想する。


【今、あなたに、私が 白いものをあげるから。

 汚されても、汚れてもなお、白いものを。

 ただ白くあるだけのものを、あなたに託す。

 

 私はもう、自分に尋ねない。

 この生をあなたに差し出して悔いはないかと。(「ろうそく」)】


 言葉に対して真摯な書き手の言葉を読むと、泣きそうなほどの焦燥に襲われる。自分はちゃんと物を書けているのか不安になるからだ。ハン・ガンの言葉は書くしかない人間に刺さる。


 強度があり、芯の通った言葉を読むことは体力を回復させてくれる。どれだけ大変でも書くしかないのだ


少年になり、本を買うのだ。


次回の更新は、8月21日(月)17時を予定しています。


Written by 斜線堂有紀 

小説家。2016年、第23回電撃小説大賞にて“メディアワークス文庫賞”を受賞。受賞作『キネマ探偵カレイドミステリー』でデビュー。著作に『詐欺師は天使の顔をして』(講談社)、『恋に至る病』(メディアワークス文庫)、『ゴールデンタイムの消費期限』(祥伝社)などがある。2021年、『楽園とは探偵の不在なり』(早川書房)が本格ミステリ大賞にノミネートされ、注目を集める気鋭の書き手。

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