十二月!日

文字数 7,232文字

1日1冊、3年で1,000冊の本を読み、月産25万字を執筆し続ける小説家・斜線堂有紀。


謎めいた日常はどのようなものなのか――

その一端が今ここに明かされる。


毎月第一・第三月曜日、夕方17時に更新!

夕暮れどきを彩る漆黒の光・”オールナイト”読書日記が、本日も始まる。

前回の日記はこちら

十二月/日

 まずはニクラス ナット・オ・ダーグ「1793」の話から


 舞台はフランス革命に強く影響を受ける一七九三年のストックホルム。ここで起きた殺人事件を隻腕の引っ立て屋(当時の治安維持隊のようなもの、主に傷病軍人がなる)カルデルと、肺病によって死に瀕している探偵役のセーシル・ヴィンゲが、両手両足を切断され両目と歯と舌を奪われた死体の謎を追うところから三部作の幕が上がる。しかもその男は手足を一本ずつ、切断の傷が都度癒えてから切られていたのだ。(あまりに凄惨な犯行だが、だから故に隻腕のカルデルが傷の治り具合で犯行時期を特定することが出来るという、ミステリ的な噛み合いが面白い)


 戦争の経験とストックホルムの混沌によりすっかり荒んでしまったカルデルが、瀕死の探偵セーシルに協力して凄惨な事件を紐解いていく内に少しずつ立ち直っていく様が、バディストーリーとしても良い。そして、この物語はミステリとしての面白さ、バディものとしての面白さにもまして、歴史ものとしての面白さが強い。

 時に、一七九三年のストックホルムの情景が頭に浮かぶだろうか? ご近所であるフランスではマリー・アントワネットが処刑されている頃だが……これがまあ、想像を絶するくらい治安が悪いのだ。登場人物が大体明日生きているか分からないという話をしているが、本当にそうだ。冤罪微罪で引っ立てられて死ぬ、なんか襲われて死ぬ、病気でも死ぬ。死ばっかりだ、この世界……。だが、それが取材によって裏打ちされた当時のストックホルムの姿なのだから恐ろしい。あの時代に住む人々は、理不尽を人生に織り込まないと正気を保っていられないだろう。(そして、正気を保てなかった人々が「怪物」と化す)


「怪物」が何故生まれ、どうしてこのような事件が起こったのかが時代背景と共に濃厚に語られていくのが、歴史を描くミステリとして面白かった。一個一個の台詞のセンスも素晴らしい。(特に最後の酒場でのセーシル・ヴィンゲの台詞は凄まじい迫力がある)


 そういうわけで確かな満足感を与えてくれる「1793」だが、続く「1794」「1795」と合わさることで、この物語は真価を発揮する。(ちなみに「1794」「1795」は内容的に前後編になっているので一緒に読むのがおすすめだ)


「1793」は苦み走った結末ながら、それでも読み味には爽快感があった。それは、二人の人間が自らの人生を懸けて、自分の思う正義を貫いたからだと思う。それに、セーシルと共に事件を解決することで、カルデルもまた自分の人生を取り戻すことが出来た──苦しみの時代での落としどころを見つけられた──と、思わせてくれたからだろう。


 だが、続く「1794」では「1793」で抱いた希望が見事に木っ端みじんにされる。どうしてこんなことに? 一年で何が? と思わされるほど、救いの無いスタートラインに立たされるのだ。そもそも、セーシルはこの物語の開幕では既に死んでいる。他に類を見ないほど瀕死の探偵だったわけだが、遂に彼が治ることはなかったわけだ。「1793」の時点でセーシルはこの結末と続くストックホルムの苦境を予期し「そのあと何が起こるにせよ、迎え撃つのはあなたひとりの仕事になる」と宣言しているのだ。


 信頼できる相棒を失い、失意に引き戻されながらも新たな殺人事件に向かうカルデルの前に現れるのが、セーシルの弟・エーミルである。


 そう、なんとこの物語、二巻目にして探偵が交代するのだ。


 私は助手を失う探偵が好きだ。逆でも好きだ。その人の形に空いた喪失が好きだ……。その点で、この三部作は私の心に深い傷を残したのである


 セーシルを失ったカルデルは当然ながらエーミルにセーシルの影を追うのだが、エーミルはエーミルで優秀な兄と比較され、長年コンプレックスを抱いてアルコール中毒になった上に、兄の幻覚を見るほどセーシルの影を追っているのだ。このカルデルとエーミルの関係に……物凄く味がある。「セーシルの血を引いているのだから」という理由で推理力を期待し、兄のようになれなかったという意識が強いエーミルのところに行くカルデル……とんでもない人間関係の化学反応である。正直、最初はこの二人の関係性と傷にばかり目が向いたのは否めない。


 この全く相容れない傷を持った二人を変えていくのも、また不可解な殺人事件なのだ。その殺人事件の裏にもストックホルムという国の闇が関わっていて──事件は理不尽に対する小さな反撃へと繋がっていく。


 読んでいる最中は苦しいし、読み終えた後にも胸にしこりが残り続ける。歴史の荒波に対し、人間が出来ることは少なすぎるからだ。「1794」のラストには耐えられず「1795」を求めて書店を巡った。こんなに切迫させられる読書は久々だった。けれど、懸命に抗う人々の姿は、私達に苦しみ以外のものも与えてくれる


 三部作を読み終えた後は、ずっとこの物語のことを考えていた。ひょんなことからオールタイムベストに上がってくる物語に出会えるから読書って面白い。


 全篇に渡って痛みと苦しみに満ちていてグロテスクな描写も多いが、もっと多くの人に読まれてほしい傑作三部作である。しかし……「1795」のラストのエーミルよ……



十二月○日

 すっかり年末の雰囲気になってきたので、恒例の『GENESiS この光が落ちないように』を読む。毎回楽しみにしているこのシリーズも、紙魚の手帖の刊行に伴い一旦さよなららしい。今後のGENESiSは紙魚の手帖SF特集号という扱いになるのだそうだ。少し寂しいけれど、それだけ紙魚の手帖が懐の広い雑誌だということでもあるのだ


 今回も力作揃いで、空木春宵「さよならも言えない」には、いつもながら唸らされた。その人と場に合わせた格好を誂えてくれるシステムの物語であり、文化を大切にするという名目でゆるやかに組み上げられたディストピアが舞台である。それぞれの民族の文化を偏重する社会が戦争からの反省によって成り立っていることに生々しさを覚えた。過度に偏重されなければいとも容易く踏みにじられるものだから、この世界ではこうなっているのだ。自然に相手の文化を尊び守ろうとしている姿勢は、この制約の所為で永遠に失われているのだと思う。


 あと、私が個人的に好きなのは水見稜「星から来た宴」だ。レネとサリナは宇宙に駐在し「平均律クラヴィーア曲集」を聴いた生命からの電波信号──あるいはお返しの演奏を待っている。だが、サリナは遠い宇宙で故郷の音楽を忘れるのを恐れ、ホームシックにより体調を崩すようになってしまう。物語を通して私達の愛する音楽を音楽たらしめているのは何なのか? というのが語られていくのだが、AIによる作曲や演奏が段々と日常に溶け込み始めている今、作品の中で「人間の芸術」を定義することには勇気がいる。同時期に読んだ『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』では、人間の踊りとAIによる踊りの間にある隔たりと融和の可能性について、アルツハイマーによって自分を保てなくなったダンサーと足を失いAIを組み込んだ義肢によって踊るダンサーの物語を通して考察し、人間が踊ることについて、作者なりの結論を出している。それを読んで、私は凄まじい覚悟だ、と震える思いだった。物語の一区切り一区切りでそういった難問に一つの答えを出せるのが、小説の面白いところだと思う。


 というわけで、収録されている短篇も面白いのだが、併録されている第十三回創元SF短篇賞選考経過および選評も読んでいて面白かった


 山田正紀先生は選評の中でSFのミニマリスム化、つまりは巨大なアイディアの創発ではなく、枠組みとしてのアイディアがあって、その中で登場人物が何を感じるか、どう変化するかを描く物語が多くなっている傾向について語っていた。確かに今多く書かれていて、なおかつ広く読者に読まれているSFはそういった傾向が強いように思う。実際に受賞作の笹原千波「風になるにはまだ」も、情報生命体となった人間に身体を貸すアルバイトを通して二人の異なる人生と価値観を持つ女性が関わり合う物語で、彼女達の中に確かに起こる感情の揺れに合わせて心を揺さぶられた。(この物語において色というものが個人に強く結びつけられているのも、それを効果的に演出していたように思う)私が書くSFもこのタイプだ。


 こういったSFが広く読まれているというのは、読者から求められているからだと思う。求められているが故にどんどん面白いミニマルSFが生まれ、群雄割拠になっている状態は面白いなと思うただ、こうして評されると前人未踏で前衛的なビックスケールかつ読者を置いていくようなSFを書いてみたくなる自分もいるのだ……



十二月☆日

 池袋ジュンク堂にて柴田勝家殿とのトークイベント「池袋の乱」が催された


 色々なアンソロジーでご一緒することが多く、アイドルマスター好きという共通点がありながら、まともに話したのは今回が初めてという奇妙なイベントだった。だがミステリとSFの間を反復横跳びしている同士、いわば作家としての立ち位置が近い同士として、面白いトークイベントになったのではないかと思う。


 その中で、アンソロジーで一緒になりがちな作家同士としてかなり踏み込んだ話題があった。即ち「あまりにアンソロジーで一緒になる相手は、どうしても作品を意識してしまう」という話題である


 アンソロジーというのは戦いなのだ。勝家殿の短篇より面白いものが書けているか? 勝家殿はどんな題材で勝負してくるのか? 発想はどうだ? 文章はどうだ? と、どうしても意識させられる。作家である以上、面白いものが書きたい。自分の出した短篇はどのくらい面白い? と、ひりついた気持ちにさせられる。この話題は実はこの前の空木春宵先生とのトークイベントでも出た。次に一緒になるアンソロジー……異形コレクション『超常気象』で、お互いどんな作品を出すのかが気になって仕方がない……と。


 こういう場があるからこそ、作家同士は磨かれていくのかもしれない。摩耗もするが、気合いも入る


 というわけで、空木先生も勝家殿も斜線堂有紀も参加している異形コレクション『超常気象』を読む


 私は「『金魚姫の物語』」という短篇で参加した


 「馬鹿が戦車でやって来る」という映画を観直していたので、その映画のラストシーンをやりたい……という気持ちで書いた。よければ是非読んでみてほしい。


 一方の勝家殿は「業雨の降る街」という、自分が殺した生き物が天から降ってくる業雨現象が起きる街を描いた物語だ。今まで殺したものが全て降ってくるが故に虫すらも殺さない住人達の中で、とある目的から生き物を殺し回っている少女と、業雨を味わう為だけにこの街にやってきて、自分が殺した母親が降ってくる日を待ち望んでいる少女の奇妙な交流が描かれている。グロテスクな情景の中の叙情を書くのが上手く、ラストシーンの美しさを噛みしめた


 空木先生の「堕天児すくい」は幻想怪奇が強い上で、徐々に明かされていくテーマ性や、映像的な演出も含めて面白かった。最後の一行で決める、という気概が伝わってくる。空木先生の作風が遺憾なく発揮された一作だった。


 恐ろしかったのは平山夢明「いつか やさしい首が……」だ。これは生首が空から降ってきて、建物を破壊し、歩く人を潰していくという理不尽極まりない現象が起こっている世界である。明らかにコロナ禍を意識した社会を描いているところも面白い。首自体の薄気味悪さと、それを子供の目線から書くというのが、更に恐怖を掻き立ててくる。首が降ってくる世界、嫌だな……


 あとは、大島清昭「星の降る村」もお気に入りだ。失踪したアイドルの切断された遺体が降ってくる村の物語なのだが、種明かしも含めて現代の怪奇譚として面白かった


 ところで、これは完全に余談寄りなのだが、テーマがテーマだからかこの本に収録されている作品では人間の落下描写が多く書かれていた。私は人間が墜落する描写が好きだ。小さい頃から高いところから落下することへの恐怖が強いので、墜落した人間が潰れる描写へ同じだけ惹かれる。それぞれの書き手が痛みと重力にどんな風に向き合うのかを、このアンソロジーではたっぷりと堪能出来た。


 それぞれの作家が鎬を削る魂のアンソロジー、よろしければ是非お手にとってほしい。そしてまた、新たな戦いが始まるのだ……。



十二月!日

 熊の手を食べに行った。


 熊の手。それは、よく高級食材として名前が挙がるにも拘わらず、なかなか食べたことのある人間に出会わない魅惑の代物である


 私は普段の食事はベースブレッド(これを食べれば一食に必要な栄養が殆ど取れてしまうという夢のあるパン)で済ませてしまいがちなほど栄養偏重主義だが、それはそれとして美味しいものを食べるのも好きな人間だ。ちょっと矛盾しているようにも思えるが、誰かと物凄く美味しいものを食べるか、そうでなければ一人で栄養機能食品を食べたいタイプなのだ。私の周りには結構似たようなタイプが多いので、同じタイプの友人とよく変わった美味しいものを食べに行く会を催す。今までにも分子ガストロノミーによる創作料理や、土から出来た料理なんかを食べに行った


 食い道楽を名乗るからには熊の手は食べておかなければならない。熊は冬が美味しいというので、一念発起して熊の手会を開くことにした。熊の手のコースは五人からしか頼めないというので、興味がありそうな友人を片っ端から集めたくらい、熊の手への情熱が強かった。


 さて熊の手だが、事前の仕込みに何日も掛かる上に、そもそも熊を狩って輸送してもらわなければならないので、二週間前の予約が必要である。しかも熊の手の調達ルートが確保出来るかどうかで予約自体が出来るか決まるのだ。幸い今の時期は熊が確保しやすいようで、深い山奥で狩られた熊の手がクール便で運ばれて無事に仕込みを迎えることとなった。熊の手には固い毛が生えているので、この毛を一本一本抜いて五日間蒸し上げていくのである。……途方も無い作業だ。こうして食べられるようにした熊の手を、柔らかくなるまでとろとろに煮込んでいく。


 ここまでの手間を掛けてようやく皿の上に載せられた熊の手の煮込みの味はどうだったかというと……何日も掛けて処理をする価値があるほど美味しかった。味は、限りなく豚足に近い。豚足よりもぷるぷると弾力があり、脂が甘くて食べやすい。骨などが処理されているので楽に食べられるのも贅沢。確かに、肉の中では食べやすくて美味しい。コラーゲンも豊富だし、調理工程を考えなければ週一で食卓に上がっても嬉しいレベル。皆さんも是非食べてみてはいかがだろうか。


 ここからどう本の話に繋げていこう……と思ったのだが、この熊の手会が催された時は、丁度年末恒例ミステリランキングの発表の時期だった。私も毎年海外ミステリ部門には投票している。


 私が今年の一位に推したのは読書日記でも紹介した『ポピーのためにできること』だ。しかし、今年目立った結果を出したクリス・ウィタカーの『われら闇より天を見る』も、三位以内に推していた。これはなかなか嬉しい結果だった。自分が面白いと思っている小説が評価されるというのは嬉しい。


 この小説は「無法者」を自称するダッチェスという少女が、何者かに母親を殺され、幼い弟と取り残されながら懸命に生きていく様を描きつつ、人が罪からいかにして立ち直っていくのかを語った再生譚である。ダッチェスに待ち受ける運命はあまりに過酷で、彼女がどうしてこんな目に遭わなくてはならないのかと、何度も考えてしまう。それでも「人は終わりから始めるんだ」というメッセージは、登場人物達だけでなく読み手である私達にも希望を与えてくれる。推薦コメントにも書いたのだが、私はこういう物語を読みたくて小説を読んでいる節がある。


 面白いことに、私の周りの『われら闇より天を見る』推しの人々も「ランキング上位に入る派手さはないけれど、個人的に好きだから自分は投票しておこう」という意識で推した人が多いらしく、投票したくせに書くランキングで上位を取っていることに驚いている人が多かったのだ。多分、人のとっておきの箱に入るような──そういう小説だったのだろう。とはいえ、これを機に沢山の人に読まれてほしい一作だ


 今年も沢山本を読んだ。来年も沢山本を読み、出来れば沢山の小説を書き上げたいものである。2023年も頑張ります! その合間に、面白くて美味しいものを沢山食べられたらいいな……。(今狙っているのは、シェフが直々に狩猟したジビエを出すお店である)


送られてきた原稿ファイルには「お年玉」と書かれていました。

本年もよろしくお願いいたします。


次回の更新は、1月16日(月)17時を予定しています。

Written by 斜線堂有紀 

小説家。2016年、第23回電撃小説大賞にて“メディアワークス文庫賞”を受賞。受賞作『キネマ探偵カレイドミステリー』でデビュー。著作に『詐欺師は天使の顔をして』(講談社)、『恋に至る病』(メディアワークス文庫)、『ゴールデンタイムの消費期限』(祥伝社)などがある。2021年、『楽園とは探偵の不在なり』(早川書房)が本格ミステリ大賞にノミネートされ、注目を集める気鋭の書き手。

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