第19話

文字数 3,591文字

《本屋の新井さんが本屋を辞めた》というツイートに、思わず《辞めてねぇよ》とリプライしかけ、ひと呼吸してから《辞めていません》と打ち直した。面識がない人だが、悪意がないことはわかる。私の書いた本を読んで、好意的と思える感想を《著者のエッセイは本屋につとめていようがいまいが変わらない》と結んでいるからだ。


踊り子としてデビューしたことを聞きかじって、早とちりした人は少なくなかった。直接言われればさすがに訂正するが、知らない人にSNSで何を言われたところで、めんどくせぇから放っておく。だが今の私には、見過ごすことができなかった。言わんでもいいことを言って炎上するのは、きっとこういうタイミングなのだろう。


待てど暮らせど仕事が入らないまま、師走に突入しようとしていた。11頭の栗橋を終えた時点で、1頭の予定しか確定していなかったが、まさか本当に来年まで踊ることができないのか。もし私が専業の踊り子なら、2ヵ月近く無収入である。新しい演目を作るには衣装代がかかるし、練習するためのスタジオ代も、ダンス教室のレッスン代も、全て自費だ。じりじりと待つ無為徒食の日々は、いらんことばかりが頭に浮かび、何もかもが間違いだったように思えてくる。


例年に比べ、暖かい日が続いていたが、急に冬らしい冷え込みがやってきて、休みがちだったホットヨガスタジオに足が向いた。汗だくで太陽礼拝を繰り返すうち、なんだかもう、全てがどうでもよくなってくる。インストラクターも「今は何も考えるな」と繰り返しているではないか。たかが仕事だ。そう思えてきた帰り道、樹音姐さんからメールが届いた。


《大和の穴埋め、頼めるかな?》


姐さんは私のマネージャーでも、劇場側の人間でもない。最初こそ声を掛けてくれたが、私を働かせたところで、マージンを貰えるわけでもない。その時はたまたま劇場に乗っていて、メールアドレスを知っている姐さんが代理で連絡をしてきたのである。私にこの話が回ってくるまで、何人もの踊り子が断ったことは想像に難くない。それでも、何も聞かずに《ありがとうございます》と引き受けた。うれしかった。


誰かが体調不良で降板したのだろう。10日間フルで穴埋めできる人が見つからず、1人分の枠を3人の踊り子でリレーして乗り切ることになっていた。私は補欠の補欠の補欠で、万策尽きた、リレーのアンカー。球拾いしかしたことがない1年生がバッターボックスに立ったようなもので、誰も期待などしていない。それでも、入場料は変わらないのだから、出演者が5人より、6人いたほうがマシだろうと思うことにした。



連絡から3日後の朝、書店の早番より早い時間に家を出て、ボストンバッグを載せたトランクを転がし大和ミュージックへ向かう。まだ誰もいないだろうと思っていたが、7日分の疲れを顔に浮かべた大ベテランの姐さんが、生活感を漂わせた楽屋でテレビを見ていた。まだ出番まで数時間もあるから、楽屋に泊まったのだろう。


「3日間ですが、よろしくお願いいたします」穴埋めリレーも3人目となれば、新鮮味もない。昨日もいたようなナチュラルさで、簡単な挨拶は終わる。前日までの穴埋めをしていた姐さんは、まるでバトンのように、ペットボトルの水を数本、置いていってくれていた。


《がんば!》というメモが、ありがたい。出演順もそのまま、6人中4番目を引き継ぐ。私が衣装を着込んで楽屋を出る頃、トリの姐さんはとっくに化粧を終えていた。しかし5番目の姐さんが、まだ来ていなかった。大丈夫なのだろうか。


ステージは約17分。恐怖の写真タイムは、いつも以上に売れないだろうから、一瞬で終わるだろう。オープンショーも規定の2分半で、私には持ち時間を引き延ばす術がない。せめてゆっくりと腰を折って袖に戻ると、5番目の姐さんが、ドレスを半分着たところだった。間に合っていないのに、焦っていないことに驚く。だが、私にできることは何もない。挨拶も後まわしだ。しかしそれ以上の驚きが、楽屋に待っていた。


脱いだ衣装を抱えて引き戸を開けると、茶色い毛だらけの小さな犬が、飛び付いてきたのだ。戸が開くのを待っていたらしい。ここから出たがっている。5番目の姐さんが連れてきたのだろう。外に出せば、ステージまで追いかけて行きそうだ。


大部屋の楽屋を、犬は悲しい鳴き声を上げながら動き回る。忙しそうな姐さんたちに近付いては鼻を押し付けたり、ゴミ箱を覗いたり、落ち着かない。小学生の頃、コリー犬に追いかけ回されてからというもの、犬は苦手なのだが、「ペチ」という名のトイプードルは、こちらの好悪などおかまいなしに、尻尾を振って見上げてくる。誰もこちらを見ていない。映画か何かで観たシーンを思い出して、遠慮がちに手を叩いてみると、たたたと走り寄って来た。


偶然だろうかと思い、屈んで腿を叩いてみれば、なんと躊躇いもなく乗ってくる。信じられない無防備さ。後で気付いたが、飼い主が出番で楽屋にいない時、ペチはそうして甘えたがる。ちゃんと帰ってくることは分かっているが、寂しくて死にそうなので、代わりの人間にまとわりつくのだ。潰さないように抱きしめると、鳴き止んだ。まあこの腕でもいいかと、顎を乗せて力を抜く。


穴埋めで踊りに来た私は、犬の心の穴を埋めている。どいつもこいつも人をいいように使いやがって、と思いつつ、まんざらでもない気持ちだった。私の手が、ペチの不安を吸い取っているのは確かで、ペチもまた、私の気持ちを宥めてくれていた。彼女に、そんなつもりはなかっただろうけれど。


翌日も姐さんは、別のトイプードルを2匹連れて、ギリギリ出勤だ。もしかしたら、昨日私があまりにも嬉しそうに抱いていたからだろうか。真っ黒いくるくるの毛に覆われた2匹は、色違いのオムツを穿かされていた。ペチが産んだ子で、まだ小さいからか、飼い主がいないとペチより大騒ぎをする。


大丈夫大丈夫と抱きしめるより、一緒に遊ぶほうが、気が紛れるようだった。スタメンの姐さんたちは、写真がいっぱい売れるから、サインをするのに忙しい。楽屋で私は、ほとんど犬とばかり喋っていた。


3日目は全員の楽日でもあり、あらかじめ姐さんから「犬は連れてこないよ」と言われていた。私が残念がるとわかっているのだ。人間とは心を通わせられないまま、短い穴埋め期間が終わる。やはり劇場の仕事は、10日間がいい。全員がぎこちない初日から徐々に慣れ、同じメンバーでの共同生活が日常になり、明日も明後日も……、と思いそうになるところで、卒業式みたいな楽日が来る。


転校生で不完全燃焼の私は、あっという間に放り出されて、呆然としていた。仕事が入ると思って、書店のシフトも入れていない。もうそこには、私が出勤しなくてはならない日など、1日もないように思えた。人数は足りている。当たり前だ。1ヵ月も留守にするようなスタッフは、頭数に入れられない。


コロナの影響は長引き、売上げだって低迷している。収入は必要だし、本を触りたい気持ちはあったが、自分の都合で会社に負担をかけてはいけない。……という大義名分で、堂々とさぼっていた。この際、行ってみたかった秘湯で長逗留でもしようか。財布をスッカラカンにして、家賃も払えないくらいになれば、何も思い悩むことなく、食うために働くというシンプルな状態に戻れるのでは。そんな甘いことを考え、スマホで宿を探していると、店長の花田さんからLINEが来た。


要約すると《お前いい加減にしろよ》という、尤もすぎる説教だ。出勤日数の問題ではない。みんなと一緒に働いている自覚を持て、という話だ。彼女は最初に相談した時から、私の踊り子デビューを面白がって、応援してくれていた。


言いにくいことを言わせるまで甘えた自分を、穴に埋めて踏み固めてやりたい。私は「行ってらっしゃい」と劇場に送り出してくれる職場の仲間を、ないがしろにしてはいなかったか。私が踊り子の仕事に振り回されるのは勝手だが、それに振り回される回りはたまったもんではない。


そんな時に、あのTwitterだ。早とちりした人が悪いのではない。痛いところを突かれたから、カッとなった。私は辞めていない。でも全然、やれていない。よくご存知で。


コロナで劇場も書店も営業ができない時、私には書く仕事があった。編集者と会わなくても、どこかへ取材に行かなくても、部屋で仕事ができて、収入は途絶えない。ごはんをあげるべき犬も猫もいないし、いざとなれば、この人生からトンズラをこけばいいとさえ思っている。そういうぬるさと自分本位な考え方が、9ヵ月踊り子をやって、仕事がもらえないこの状況を作ったのだ。


あのツイートをした見知らぬ人からは、すぐに謝罪のリプライがあった。そしてこの原稿を書き終える直前、シアター上野から着電。12月12日の穴埋め、決定。

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