第13話

文字数 3,362文字

 東京都の緊急事態宣言が解除され、ようやく踊り子業を再開できたのは、6月も近いシアター上野でのことだった。2月にあわらでデビューして、翌月に一度、お世話になって以来である。今回も、私の名前は「表」楽屋の壁に貼られていた。


 あわらや大和と違い、上野の楽屋は2つに分かれている。受付の横に壁を1枚隔てた「表」と、ステージ後方に位置する「裏」。5〜6人の出演者で使うことが多いが、鰻の寝床型の「裏」には2人が限界だ。


 しかしカプセルホテルサイズの「表」も、3人座れば、異様な密度に笑いがこみ上げてくる。おまけに、それぞれが舞台用の化粧道具を広げ、なんとか空けたスペースで写真にサインをしたりするものだから、身動きを取るにも細心の注意が必要だ。通路を挟んだ客席とは布で仕切られているだけで、舞台に流れる音楽が、相当大きなボリュームで聴こえてくる。


 逆に音が鳴り止めば、楽屋のおしゃべりが客席にまで届くこともあるだろう。そして位置関係上、「表」楽屋は、受付にやってきたお客と従業員のやり取りまで、ドア越しに聞こえた。入場料を払うと、誰を観に来たかを尋ねられ、目当てがいる場合は、その踊り子の名前をお客が口にする。


 すると、出演者の名前が並んだ表に、正の字を作る線が引かれる。アイドルの総選挙のように得票数が発表されるわけではないが、SNSのフォロワー数が誰にでも見えてしまうように、見ようと思えば見える位置に、正の字表は置かれているのだ。


 現状を把握するために見るべきか、心の平穏を保つために、目を逸らすべきか。しかしどちらにせよ「表」にいるのだから、名前が呼ばれなかったことくらい、わかっているのだ。私はいちばん、人気がなかった。


 前回の上野はデビューしたてで、作家や編集者を始め、書店員仲間や書店の常連客まで足を運んでくれた。それは、掛け値なしにうれしいことだった。だが彼らのほとんどは、一度観れば満足する。そういうものだということは、過去にバンドをやっていた経験上、よくわかっていた。


 当時はチケットの厳しいノルマがあったから、無理を言って二度三度LIVEに来てもらっていた。だが、次第にお互いの心が削れ、楽しいはずの音楽が濁っていく。もうああいうのは嫌だった。今はノルマもないから、「また来てね」なんて苦しめることを言うつもりもない。


 そのくせ、正の字が埋まらないことがもどかしい。劇場に貢献できず、申し訳ない。ストリップ業界を盛り上げられたら、なんて雑誌のインタビューで答えたことが、今になって恥ずかしい。現状の自分は、他の踊り子やお客に、正の字表を見られたくない、恥をかきたくない、という思いに囚われている。まるで自分のことしか考えていない。


 だが、そんな心の揺れに飲まれるほど、私は純粋でかわいげのある人間でもない。この人は、ここでいったい、何をしようとしているのだろう。何を期待して、何に気をもんでいるのか。人気のない踊り子だという事実を、なぜ恥だと思うのか。


 興醒めなことに、そうやって自分に目を凝らす私が、私の本体なのだった。だから私は本当の意味で反省しないし、本当の意味で傷付かない。そんな人間が書くものは、ドラマティックになりようがない。


 営業再開後のシアター上野は、感染拡大を防ぐため、あらゆる対策が講じられていた。ソーシャルディスタンスを保つため、本舞台に近い席はテープで封鎖する。お盆正面の最前列は、フェイスシールドの着用をお願いする。


 梅雨の前に夏が来たような陽気で、ただでさえ暑苦しいマスクに、汗で曇るカバーが顔全体を覆うなんて、不快指数はMAXだ。それでも通常通りのお金を払って入場してくれるのだから、たとえ自分を観に来たわけではなくても、深く感謝すべきである。


 だが、女である自分が裸になって、媚を売るように体をくねらせても、ここにいるほとんどの観客にとっては、退屈な前座でしかないという事実が、私の心を冷やしていく。席に荷物を置いて、目当ての踊り子の出番まで出掛ける。座ってくれていても、舟を漕いでいる。


 いちばんの見せ場で、手洗いに行ってしまう。そんなこと、どんな踊り子でも、経験はあるのだろう。女性が裸になれば、男性は息をのんで見惚れるものという思い込みが恥ずかしい。それは、自分の身体を魅力的だと思うか思わないかとは関係がない。


 どんなに自分の身体が嫌いでも、見られれば悲鳴を上げる権利はあると思っている。そういうものだと、いつの間にか刷り込まれていた。女子の裸を見た男子は喜び、見られた女子は損をする。だから女子が脱ぐという商売が成り立っているのだと。


 しかし、ストリップはどうも違うのだ。お客が払う入場料には、裸を観て興奮したいだけではなく、踊り子自身を応援するという意味合いが感じられる。男性客のために脱いでいるのに、その男性客が、脱ぐことを応援って、じゃあ一体誰のために脱いでいるのだろう。


 もちろん、お客ひとりひとりに様々な目的があり、それに優劣を付けるつもりはない。だが、コロナが完全に収まったとは言えない中、せっせと劇場に通ってくれる常連客は、踊り子を裸の女ではなく、たまたま裸でラッキーな、ひとりの「踊り子」として見ているような気がした。


 そりゃ裸になればじっくり見るし、脱いだばかりのパンツが飛んでくれば、飛び上がってでもキャッチする。きれいに化粧した顔や、煌びやかな服装だけを見て、勝手な想像を膨らませているだけなのかもしれない。でも、それだけではない気がしてならない。



 あるテレビ番組から取材依頼があった。書店で働く姿と、舞台で踊る姿を撮りたいという。正の字が欲しい私は、それもまた一過性のものとは分かっていても、テレビの効果を期待してしまう。まだステージを観たことがないというので、一度上野に足を運んでもらって、終演後には、喫茶店で打ち合わせをした。そのときに感じた小さな違和感を、普段の私だったら見過ごさなかっただろう。


 数日後、一日かけて3回分のステージを撮影する予定だったが、1回目で撮れたと言って、撮影班はさっさと帰っていった。次は最終日、劇場から出たところを密着して自宅まで、という予定だ。どうも先方が撮りたいものは、実際の私にないもののような気がする。


 両親に大切に育てられ、十分な小遣いをもらい、望み通りの進学をさせてもらった。散々迷惑をかけたのに、愛想を尽かすことなく、私の意志を尊重し続けてくれた。そんな娘が、何故脱いでしまったのか。別に何もないのである。


 強いて言えば、そういう世界が好きだったからだ。ドラマになるのは、そんな娘を持った両親のほうだろう。「取材を続けるうちに、撮られたくない面も引き出してしまうかもしれない。それが期待されている番組だから」打ち合わせで言われた言葉が、ふと頭に思い浮かぶ。実家に帰ってみたらどうだろう。数年前に突然家を出てから、一度も連絡をしていない。憎しみがあるわけでも、心配されたいわけでもない。ただ、私を無理に探そうとしないところに、彼ららしい優しさを感じて、いたたまれないだけだ。


 愛情を与えられても、その相手に全く愛情を持てないことなんて、いくらでもあることだ。だが、それが親子の場合、ややこしくなる。底が破れた鍋みたいな相手に愛情を注ぎ続けるって、どんな気持ちなのだろうか。


 自分の中に会いたいという気持ちが一切ないのに、エンターテイメントのために両親を利用しようと、一瞬でも思いついたのである。それは、絶対にやってはいけないことだ。確認すると、番組のギャラは出ないという。それなら、私はストリップ劇場の正の字のために、両親を利用しようとしたことになる。そりゃあんまりだ。そう思えたことで、正の字の呪縛も解けていった。もう取材を受ける理由はない。


 これから私は、何を目的に踊るのか。踊っている間なんて何も考えちゃいないのだから、正確に言えば、踊り子を続ける目的だ。それは続けないと、見えてこない。だからとにかく、踊れ。本体の私としては、その時々で見せてくれる景色が、実に楽しみなのである。次の上野の楽屋が「表」なのか「裏」なのか。割り振られるルールは謎だが、それすら、今からわくわくしているのである。

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