第8話

文字数 3,146文字

 鶯谷の実家から浅草方面へ向かう言問通りの、ラーメン屋と食堂の間に緑色のテントがあって、そこにビニ本専用の自動販売機が置かれていたことは、私の記憶にぼんやりとある。


 昭和の性文化をまとめた『愛人バンクとその時代』という本で、大ブームとなった自動販売機本の月刊誌が紹介されていた。その記事は、私が生まれる少し前のものである。


 当時の国民的アイドルが出したゴミを漁り、事件現場の遺留品のようにブツ撮りをし、「ショック! 〇〇ちゃんの使用済みナプキンが出た‼」というキャプションとともに、普通の女の子の生活を想像させる生々しい写真が公開されていた。


 それには芸能マスコミも食いついたというから、スマホがない時代、書店には並ばないその過激な本がどれほど熱狂的に売れたのかを想像すると気が遠くなる。だが今ではもう、少なくとも私の生活圏内では、ビニ本の自販機を見かけることはなくなった。


 現代人は、そんな下品で卑劣なものになど興味を示さず、アイドルだってプライバシーは守られるべきだと、不買運動を起こした、わけではない。自販機は撤去されても、有名人の恥ずかしい写真はSNSで瞬く間に拡散され、お金を出して本を買わない人間までもが無邪気に騒ぎ立てるのだから、より始末が悪い。


 だが人間には、見られたら恥ずかしいだろうな、と想像しうるものをつい覗き見したくなる性質がある、などと一般論にして逃げるのは止そう。私自身、ネットのトレンドに入った芸能ニュースが気になって、クリックしてしまうことはある。他人の恥には価値があるということだ。


 だから暴いて晒す人間が生まれるのである。故意に選んだとしか思えない、酷く情けない顔のスクープ写真が選ばれるのは、より価値を高めるためだろう。書いていて反吐が出そうだが。



 数ヵ月前、ある劇場の客席で、医師を自称する老人から名刺を求められた。私がその直前に、別の常連客と名刺交換をしていたからだろう。明らかに浮いたかつらの、初めて見る顔だった。


 身なりと話の辻褄の合わなさから、少なくとも現役の医師ではないと判断したが、劇場で出会って挨拶を交わすような人のほとんどは、職業はおろか、本名すら知らない。


 どの踊り子のファンであるかがわかれば、その場の会話は十分成り立つからだ。大して気にもせず、頑なに断るのも面倒なので、会社の名刺を渡した。私がどこの誰で、どういう本を書いていて、なぜストリップに通っているかなど、もはや劇場では秘密でもなんでもない状態だったからだ。


 しかし翌日から、SNS上での執拗な絡みが始まった。私の名刺を写真に撮って公開し「ストリップ劇場でお会いしましたよねぇ?」とコメントを付ける。反応をしないでいると「ストリップがお好きなんですか?」「エッチが好きなんですか?」などと、しつこい。なるほど、と思う。


 私を強請るつもりか、口説くつもりかは知らぬが、つまりストリップに通っていることを他人に知られるのは恥ずかしかろう、と想像して気持ちよくなっているのだ。


 確かに、劇場に足を運ぶ男性の中には、持ち歩くのが怖くてポラロイドを撮影できない人や、誰かがポラロイド撮影をしているときに、うっかり映り込まないようにと慎重に顔を隠す人がいる。


 大人が自分で稼いだお金でどこへ行こうと、どんな性癖を持っていようと、他人に迷惑をかけなければ何の問題もない。


 だが、ストリップに通っていることを周囲に知られたら恥ずかしい、という感情は、理解できなくもないのだ。他人に知られたくない恥は、その人にとっての弱みになり、それを握った人間は、気持ちのいい優越感に浸りたがる。


 残念ながら、私が感じる恥は他人と大きくズレている。美容師にシャンプー台で頭のツボを押されても、一体これは何の圧迫だろう、と困惑するような出来事が多々あった。


 そして私が死にたくなるほどの恥は、たいてい誰にも理解されない。


 とはいえ、他人の恥を想像することはできる。だから彼女のステージに惹かれたのだ。ファンからは「お時さん」と呼ばれ、師匠も大絶賛していた時咲さくらは、昨年、惜しまれつつ引退した踊り子だ。私がたまたま観た時は、細い首にぽわぽわとしたショートカットで、踊り子としては化粧も体もずいぶん薄かった。


 外で会っても、まさか踊り子だとは思わない風貌だ。きっちりと着付けた浴衣で、迷い込むように現れた彼女には、予想以上の拍手が鳴る。その素振りや視線から、どうやらそこが人気のない水辺で、我々はいない設定であることがわかった。


 汗をかいたのだろう、人目がないのをいいことに、浴衣の裾をたくし上げて水に入る。柄杓と手桶と手ぬぐいを使って、見えない水を見せてくれた。


 やがて解放的な気分になった彼女は、手桶から透明のディルドを取り出す。大丈夫かしら、と辺りを見回して、誰も来ないことを確認しつつも、来るかもしれないことをちゃっかり興奮の材料にして、心ゆくまでオナニーを楽しんだ(もちろん芸だ)。


 そして、使い終えたものを口にくわえ、唇から離すときに唾液が糸を引き、それがライトに照らされて、誰の目にも映るほどギラリと輝かせたのだった。踊り子は唾液の糸まで操るのか。寝転んだまま唐突に、目の前数十センチの観客と目を合わせる。その瞬間、形勢が逆転するのがわかった。恥ずかしいのはどっちだ。


 興奮が鎮まり、我に返ったお時さんは、乱れた浴衣を手早く直して舞台を去って行った。我々をまた、きちんと透明人間に戻してから。


 見られていることに気付かないで恥ずかしいことをしている人間を盗み見ることは、強い興奮を誘う。しかしストリップは、見られてもいいと思っている人がこれから見せますよと言って見せているのだから、興醒めもいいところである。


 仕事だから脱ぎまっせ、という現金さには、夢も希望もない。正直、これだけストリップに通っていると、人間の性器そのものには、それほどの力はないと感じる。


 少なくとも、自らの意思で足を開いて見せたそれに、恥じらいを感じることは難しい。それでも、見てはいけないものを見ている、と錯覚させる脱ぎ方が、プロの踊り子には必要なのである。



 私がストリップに夢中になり、SNSでもそれを公開し始めると、見てはいけないものだと思ったのか、著しく反応が薄い。それでも続けていると、やがてフォロワーも減っていった。エロを嫌う人に、いいねを強要するつもりは全くない。


 このエッセイも「人によっては不快な表現があるかもしれない」と断った上で、SNSにリンクを公開した。書店員なら書店員らしく、本だけを愛して、本の話だけしておれよ、と思っている人は少なくないのだろう。


 しかし、その本に価値を感じる私は、あなたが嫌いなことを、お金を出してまで観に行くような人間なのだ。


 そもそも私がストリップに行き始めたのは、世間の自分に対するイメージや評価と、実際との乖離に苛立ちを感じていたからである。それを知ってか知らずか、師匠は私を劇場に誘ってくれて、踊り子の堂に入った脱ぎっぷりと、舞台の後の底抜けの明るさに、お仕着せの制服を脱いだような気持ちになったのである。


 そのストリップにのめり込めばまた、人の求める私と実際が乖離していく。なんなんだ。


 こうして綴るエッセイも、私の理想とはほど遠いままである。書くということは、他人に知られてもいい、ということで、その自意識からはとうてい逃れられそうにない。恥は自ら開いた時点で、暴かれる恥とは質が変わってしまう。これがエッセイの限界なのか。


 私はいつだって、自分の都合のいいようにしか話をしない。私は私に都合の悪いことなど、本当はなにひとつ、書けていないのだ。

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