あの人気芸人が小説を執筆! 『そそぐ』(吉住)

文字数 8,872文字

お笑い芸人たちがエンタメの地図を大きく塗り変え、小説の世界にも進出しつつある昨今――気鋭の若手芸人・吉住さんが短編小説を執筆!

才能あふれるこの注目作の試し読みを大公開いたします!



初出:「小説現代」2022年12月号

『そそぐ』


ひとりのアイドルに勝手に振り回される、ふたりの人間の物語。

読後、鈍い衝撃が走る――。

「待ってたよ。やっと、ここまで来たね」


 男は涙ぐんでいた。視線の先では、もちろんアミも泣いている。綺麗な涙だった。


 ステージのバックモニターには、『武道館ライブ開催決定!』の文字が躍っている。あれから八年か……。感慨深かった。武道館は、アミたちのデビュー当時からの悲願であり目標であった。男の周りからもすすり泣きや嗚咽が聞こえる。けれど、と男は思う。お前たちは違うだろ、と周りの男たちと一緒にされることをとにかく嫌った。


 八年前、アミが初ステージを踏んだ時から男はアミを見ていた。見ていたといっても、最初はわざわざ見に行ったわけではなかった。会社帰りに通りかかった地域のお祭りにアミたちが出ていたのだ。その当時、男は仕事に忙殺され、生きる糧など何ひとつなく、心は荒みきっていた。だから最初は冷やかしのつもりで見ていた。こんな時代に売れるはずもないアイドルなんて職業にうつつを抜かす、愚かな娘たちを一目拝んでやろうじゃないか。そんな卑しい心からだった。自分より下の人間を見てみたかったのかもしれない。しかし、気づくと男は一人の少女を夢中で追っていた。まだ中学に上がったばかりであろうその少女は、北欧の血が混ざっていないと辻褄が合わないほどに目鼻立ちが整っており、一際ステージで輝いて見えた。その少女こそ、アミであった。屋外のお世辞にも恵まれた環境とは言えないステージの上で、アミだけは光源かのごとく光を放っていた。何より男の心を鷲摑みにしたのがその歌声だった。少し掠れ気味の鼻にかかったその歌声は、乾ききった男の心にどぶどぶと沁み渡り潤いを与えた。久しぶりに男は心がときめくのを感じた。主人公だ、と思った。そして、急に口惜しくなった。自分はこの少女の物語に迷い込んだ名もなき通行人にすぎないことが。次の日、男は会社をやめた。この日から、男の生活はアミを軸に回りはじめた。


 アミたちが出ると聞けば、どんな小さなライブにも欠かさず通った。ブログのチェックは寝る前の日課となり、グッズも箱買いし、とことんまでアミに尽くした。その分、アミに会えない日は寝る間を惜しんで働く。アミの物語の養分になるのなら、そんなもの苦でも何でもなかった。自分の人生など取るに足りない。そんな生活を続けて、気づけば六年が経っていた。その頃になると、男はただの通行人ではなく、ファンの間でも多分に知られる存在となっていた。


 一方、肝心のアミたちはというと、客が一桁だった頃から徐々にファンを増やし、その界隈では割と有名になりつつあったが、それでも武道館は夢のまた夢であった。そんなアミたちに転機が訪れたのは二年前。この男がネットにアップした一枚の写真からだった。そこには溢れんばかりの笑顔でパフォーマンスするアミの姿が写っていた。それはあまりにも美しすぎた。デビュー当時の幼さの残っていたアミを、六年という歳月は、非の打ちどころのない美女に変身させていた。唯一変わっていないところといえば、その歌声だけとなっていた。アミの写真が話題になってからというもの、目に見えてファンは激増し、チケットは入手困難、メディアにもアミたちの存在が度々取り上げられるようになった。アミたちを取り巻く環境はたった一枚の写真で、一気に様変わりしたのであった。


 だが、この男だけはそれを快く思ってはいなかった。なんなら物語のページを大幅に捲った張本人にも拘らず、苦虫を嚙み潰したような見苦しい顔をしていた。アミたちにとって喜ばしいことだと理解はしている。だが、それでも、新参の男どもがアミの容姿に群がる蠅にしか見えず虫唾が走った。アミの魅力はそこではないのに。あいつらは何も分かっていない。



「アミちゃーん、待ってたよー!!」


 周りの男たちの野太い声で男はハッとした。アミの口癖を真似た定番のコールを浴び、アミは嬉しそうに笑った。まさに今、武道館に向けたアミの挨拶が始まるところだった。いけない、大切なアミの声を聞き逃すところだった。一言一句聞き逃してたまるか。男の体が前のめりになった時、アミと一瞬目が合った気がした。そんなことあるはずないのに。アミが口を開く。男の心はときめいた。あぁ、満たされている。僕を幸せにするのはいつだって、この声だった。男は全神経を集中してアミの声を浴び続けた。


 ライブが終わり帰り支度をしていると、見知った顔が近づいてきた。活動初期から一緒に応援してきた仲間だった。数秒目が合った後、どちらともなく走り寄って抱き合った。それぞれ赤と黄色の法被が鼻水でビチャビチャになるのも厭わない、互いの八年を労うような熱い抱擁だった。そして、しばらくして急に恥ずかしくなり、その恥ずかしさを打ち消すかのように、例のごとく、新参のファンをこき下ろし、推しのちょっとした変化に推論を立て合い、恒例の生写真交換会をして帰路についた。


 そして、ライブから数週間経ったある日。男は隣の部屋の物音で目が覚めた。このアパートの壁は薄い。段ボールでできているのかと思うほどに、隣の部屋の音が生き生きと耳に届く。自分は耐震の概念のない家に住んでいる事実に改めて浸りながら、ふと気づく。隣の部屋はしばらく誰も住んでいなかったはずだが。誰かが越してきたのか。男は肩を落とす。暇さえあればスピーカーでアミの歌声を摂取し、時には鼻歌を歌い、時には体を小刻みに揺らす、あの愛おしい時間に邪魔が入るかもしれない、と。煩わしく思った。こんな古アパートに越してくるなど、どんな物好きだ。どうせ碌でもない奴に決まっている、と。けれど、男にとって節約というのは、目下の最優先事項であり、ここを出ていく選択肢など端からなかった。ブツブツ不平を垂れ流しながら、バイトの準備を始める。今日の予定は、まず建築現場で一日働き、夜から踏切点検のバイト。そして下水掃除の現場へ移動し、最後はコールセンターで締める。四十時間労働の幕開けだった。そう、この男に労働基準などという言葉は存在しないのだ。男は作業着を袋に詰め、仕事に出かけた。


 働き方改革全無視の四十時間労働を終え、帰宅した男は、着ている服もそのままに布団に体を放り投げる。以前までは、四十時間労働など赤子の手をひねるようなものだったのに、さすがに年には抗えなくなってきた。男は最後の力を振り絞り、スマホに手を伸ばす。アミのブログを見るためだ。これがないと一日を終えられない。今まで何千回とやり慣れたこの動作。考える前に指が動く。が、ふいに男の指が止まる。自分でも訳がわからぬまま戸惑っていると、壁の向こうから漏れ出る音で気が逸れたのだと遅れて気づく。あ、この曲、知ってる……。


 壁の向こうから聞こえてきたのは、ファンの中でも知っている人間が限られるアミたちの活動初期の曲であった。この曲は特にアミの歌声がいい味を出している。壁越しであってもアミの伸びやかな歌声に聴き入ってしまう。なるほど、隣に越して来た奴も同族か。この曲を選ぶあたり少しは骨のある奴と認めてやってもいいが、などと独り言ちて、アミのブログに意識を戻そうとした時、男は自らのある重大な勘違いに思い至った。いや、違う。これ、流してるんじゃない。歌ってるんだ……。


 男ははっきりと興奮していた。毛穴という毛穴から汗が噴き出す。先程までの眠気や疲労は吹き飛び、体中の細胞が忙しなく沸く。知っている……。男は確かにこの歌声を知っていた。急いで壁に耳をつける。やっぱりそうだ。溢れ出る感情が隣に伝わらないよう、男は叫び出したい衝動を必死に押し込めた。


 まさか、隣に越してきたのは、アミなのか……? 到底信じられない事実に男は動揺した。しかし、この馬鹿げた仮説を否定しきれないのも、この男自身であった。アミの歌声を誰よりも聴き込んできた自負がある。男は耳をそばだてながらも、努めて冷静になろうと頭を働かせた。でも、なぜ? なぜこんな古アパートにアミが住むことがある? 好きなアイドルが隣の部屋に越してくるなど、そんな都合のいい話、今時ドラマにもならない。そこでふと、ライブでアミと目が合ったことを思い出す。アミ一筋で追い続けた八年。アミはもちろん自分のことを認識しているだろうし、握手会やサイン会では世間話もたくさんしてきた。もしかして、アミは僕がこの古アパートに住んでいることを知っていたんじゃないだろうか……? 知っていて、わざと隣に……? いやいや、まさか。さすがにそれは飛躍しすぎだ。けれど、どうしても口角が上がってしまう。一エキストラとして、アミの物語に参加していたつもりが、これじゃキーパーソンじゃないか。これはもしや、アミの運命の相手とは……。妄想が捗って仕方がない。


 男は今までアイドルを恋愛対象に見る輩に冷ややかな視線を向けてきた側の人間であった。アイドルをそんな汚らわしい目で見るなど言語道断だ。なのに、いざ自分にチャンスが回ってくると、こんなにも鮮やかに飛び付いてしまうものなのかと、自分の雄としての素直さに笑った。それから時が経つのを忘れ、この後に待ち受けているであろう展開と結末を想像しては酒を呷った。アミを追いかけ始めて八年、初めてブログを読まずに眠りについた。


 翌日、ドアが閉まる音で目が覚めた。廊下をコツコツ歩いていく音がする。夢じゃなかったと、くたくたの布団の上でガッツポーズを決め、カレンダーに目をやる。今日の日付に赤丸がついている。そうか、今日は歌番組の収録だったか、と心の中でアミを見送る。もちろん歌番組の収録など公式には発表されてはいない。けれど、新曲のリリース日から逆算して歌番組の収録の当たりをつけるなど、この男にとってみれば造作もないことだった。そして、事前に申し込んだ観覧は当たり前に当選していた。


 部屋の隅に積み上がった服の山から襟付きのシャツを引っ張り出し、匂いを嗅ぐ。まぁ許容範囲かと思いつつも、徐に消臭スプレーを吹きかけ気持ち程度にシワを伸ばしてから腕を通す。普段着るものに気を使わない男もアミの視界に映るとなったら話は別だ。しかも隣人になってから初めての対面となれば尚更。思わず男から笑みがこぼれる。隣人、いい響きだ。隣人という言葉を嚙み締めながら、アミとの間を隔てる壁を見つめる。そういえば、今アミはいないんだよな……。よからぬ考えが浮かびそうになり、男は自分自身に恐怖を覚えた。それを振り払うように財布を摑み取り、家を出た。


 すっかり夜も更けた頃、男はほろ酔いで帰宅した。今日のテレビ収録は大成功だった。アミたちにとって大事な時期の新曲とあって、ファンの間でも注目が集まっていたが、そんな期待や不安をよそに、それはもう素晴らしい出来だった。今までダンスを苦手としていたアミも凄まじい努力をしたのだろう。手足の長さを活かしたダンスで観客を魅了していた。その後の大物司会者とのトークも盛り上がり、これは祝杯だと仲間と居酒屋からカラオケへ梯子していたので、こんな時間になってしまった。


 時計を見ると、二十三時を回っていた。そういえば、アミの部屋に電気はついていただろうか。帰って来た時のことを思い出す。いや、暗かった。息を殺して壁の向こうの様子を窺うが、何の音も聞こえない。男は急に心配になった。寝ているだけならいいのだが、万一のこともある。一目でいいから姿を見て安心したい。酔っているせいもあって思考が短絡的になる。男は裸足のままベランダに出て、思いきり身を乗り出す。完全に越えてはいけない一線を越えた瞬間だった。


 アミの部屋は中が丸見えだった。引っ越したばかりで、まだカーテンがないのだろう。でも、アイドルなんだから気を付けないと。こんな風に中を覗く奴だっているかもしれない。今回は僕だったから良かったものの。アミってこういうところ抜けてるよな、と呆れながらも、目はギョロギョロと動きを止めない。アミの姿は見えない。やはり、まだ帰っていないようだ。


 すると、月明かりで微かに見えたあるものに目が留まる。それは見覚えのあるぬいぐるみだった。男は酒で鈍った頭を働かせて記憶を辿り、思い至る。それは、確かアミが以前ブログで紹介していたものだった。昔から大切にしていて、今でもこれがないと眠れない、と書いてあった。どれだけ見た目が大人っぽくなろうと、中身だけはあの頃のままだと笑った記憶がある。そうか、あれがあのぬいぐるみか、と思いがけずテンションが上がる。他にも目を凝らすと、ブログに写り込んでいた本棚や帽子など、男にとって垂涎ものの品がいくつも確認できた。間違いない。やはり、隣に越して来たのはアミだ。男は文字どおり小躍りした。時間が経つのも忘れるほどに。


 そして、しばらくして酔いが覚めてきた頃、急に自己嫌悪の波が男に襲いかかって来た。自分はなんて愚かなことをしてしまったんだ。女の子の部屋を覗くなんて、人間として恥ずべき行為だ、と後悔の念に苛まれる。もう二度とこんなことはしない。今日で絶対終わりにする、と固く心に誓い、アミの部屋の様子を目に焼き付けるため、今まで以上に大きく身を乗り出したのだった。


 数時間後、大きなくしゃみの音で、男は目が覚めた。一瞬自分がしたのかと錯覚したが、そうではないようだ。昨日は結局、深夜一時過ぎまでアミは帰って来なかった。さすがに探しに行こうかと玄関を出ようとした時、階段をカンカンと上がってくる音がして、男は慌てて息を潜めた。そもそも、アミが隣に越して来たのが偶然なのか故意なのか判断がつかない状態で、自分の姿を見られるわけにはいかない。とりあえずはアミの出方を窺うしかないと男は結論づけた。というのは半分建前で、部屋を覗いたことへの後ろめたさで、アミと合わせる顔がないというのが、残り半分の本音でもあった。それにしても、昨日はあんな時間まで何をしていたのだろう。アミのブログに目を通す。だが、そういった記述は見当たらない。まぁ、そりゃそうかと思い直し、求人情報サイトを開く。在宅でできる仕事を探すためだ。アミが壁の向こうにいるのに、バイトで家を空けるなど男には考えられなかった。だから、今の仕事は全部やめる。四十時間労働なんて頭のおかしな奴のすることだ、と久しぶりに正常な判断を下した男は、検索欄に適当な条件を打ち込み、気になる仕事に片っ端からアクセスした。


 それからしばらくは男にとって夢のような日々だった。壁を隔ててはいるが、手を伸ばせば届く距離にアミがいる。元々同じ間取りな上、先日の覗きでアミの部屋の様子は完璧に頭に入っていた。だから、足音を聞くだけで、今アミが大体部屋のどの辺りにいて何をしているのか、手に取るように分かった。目を閉じると、アミの姿がそこにある。これを同棲と言わずして何と言う。


 洗面所からアミの歌声が聞こえてくる。出かける準備をしながら新曲の練習をしている。まだ歌い慣れてないこの感じも逆にいい、なんて思っていると、歌声に混じって床が軋む音がする。ダンスのステップの練習も同時にしてるのか。器用なやつめ。憎まれ口を叩きながらも感心する。だけど、アミ。練習熱心なのはいいがそんな狭いところで踊ってると何かにぶつかるぞ、と少し抜けているアミに心で注意する。直後、パリンと何かの割れる音。ほら、言わんこっちゃない。


 別の日には、レジ袋の音とともにドアが開く音がする。アミ、おかえり。何か買って来たのかい? アミの部屋の方を振り向く。最近は体調面も気にして自炊をするようになったとブログで見た。すると、甘塩っぱい匂いがしてくる。なるほど、今日は手羽先の甘辛煮だな。手羽先の甘辛煮はアミの大好物だからな~、と男の顔がほころぶ。いつか食べさせてもらうのが楽しみだよ。そう言いかけた口に、男はロールパンを放り込む。


 また別のある日。男は焦っていた。今日は名古屋で仕事のはずなのに、アミがまだ起きてこない。夜からずっと壁に耳を当てていたから間違いない。だからあれほど夜更かしは良くないって言ったのに……。


 この頃になると、男はアミのブログのコメント欄にメッセージを送るようになっていた。服装や私生活、テレビ番組の発言に至るまで、気になることは全て書き連ねた。男はやれやれと目覚ましを鳴らす。すると、壁の向こうでアミがベッドから起き上がる気配がする。ったく、本当に世話が焼けるんだから。アミは僕がいないと何もできないんだなぁ。




「待ってたよ……」


 アミが泣き笑いの顔で僕を見つめる。僕の手にはハンマー。壁には大きな穴が開いていた。そうか、最初からこうすればよかったのか。手を伸ばせば、こんなに簡単にアミを抱きしめられたのに……。と、アミに手を伸ばしかけたところで目が覚める。男は舌打ちをした。


 アミと壁越しの同棲が始まって、八ヵ月。ライブでもアミと目が合う回数は増えていたし、確実に距離は縮まっていて、お互い惹かれあっているのは明白。それなのに、君は一体何をしてるんだい? アイドルという職業柄、二の足を踏むのは分かる。だけど、そろそろ僕達の関係を進展させないと。僕達には物語を進ませる義務があるんだ。アミの決心がつくまではと思い、待つ構えでいた男だが、アミの煮えきらない態度にさすがに苛立ちを覚えていた。何度もチャンスは与えた。僕は歩み寄ったじゃないか。コメントで接触も図ったし、君のブログも穴が開くほど読んだし、いろんなパターンの縦読みを試みたりもした。意味の分からない文章がこの世にいくつも産み落とされたよ。頭がどうにかなるんじゃないかと思った。君の勇気が出ないのなら仕方がない。だけどね、アミ。決着をつけないと。僕から君に最後のチャンスをあげるよ。


 一ヵ月後、男は隣の部屋に小包を出した。アミの公表していない本名『仁科亜沙美』宛に。小包の中には一本の鍵。


 午後一時すぎ、廊下をキュッキュッと歩いてくる音がする。指定した時間どおりだ。その足音はアミの部屋の前で止まる。やや間があってから、インターホンが鳴る。男は息を吞んでアミの反応を待つ。もしこれでダメなら、昔のようにアイドルとファンの関係に戻るまでだ。祈るように待ちながら、この時間が永遠にも感じられた。アミ、頼む! すると、サラサラとサインを書く音が聞こえた。受け取った……! 男は狂喜乱舞した。アミが自分の想いを受け取ってくれたこともそうだが、二人の仲がこれで着実に動き出すことがなにより嬉しかった。この一ヵ月、男はアミと暮らすための部屋を探していた。小包に入れた鍵は、その新居の鍵だったのだ。幸せにするからね。小さく言った男の声に反応するかのように、アミの嗚咽する声が聞こえてくる。今すぐにでも行って抱きしめたかった。けれど、男はそうしない。恋人として対面するのは新しい部屋でと決めていたから。だって、その方がより物語がドラマチックになるだろう?


 男は新居でシミュレーションをしていた。これを繰り返すことによって、アミが来るまでに揃えられるものは揃えておく算段だ。しかもこれがまた楽しい。奮発して大きなテレビも買った。アミ、喜ぶといいな。ソファは好みが分かれるだろうから、アミと一緒に買いに行くとして。この物件の一番のポイントはキッチンだ。広くて綺麗なキッチン。やっとアミの作った手羽先の甘辛煮が食べられる。想像するだけで涎が溢れてくる。自炊するアミのために、鶏も捌けるという謳い文句の出刃包丁も買っていた。うんうん、いい感じだ。アイディアが湧き出て止まらない。嬉しい悲鳴だった。


 そして、シミュレーションも一段落した後、男はテレビをつけた。さっき配線を終えたので、ちゃんと映るかチェックするためだ。すると、急にアミの写真が画面いっぱいに映る。なんだよこれ、と笑っていた男の顔から、急に笑みが消えた。


『妻子持ちの五十代男性と深夜の六本木デート』。アナウンサーが見出しを読み上げた。その番組はワイドショーだった。そこに映るタレントたちがニヤニヤしながら下世話なトークを繰り広げている。


 なんだよ、これ。六本木デート……? うそだろ? ふざけるなよ、アミ。君はそんな凡庸なアイドルだったのか? 違うだろ! この物語にそんな安っぽい展開を持ち込まないでくれ。僕はこんな物語が読みたかったんじゃない。僕が人生をかけて読みたいと思った物語を、こんなつまらない結末なんかにして。アミ、君には虫唾が走るよ。


 あっ! そうだ、いいことを思いついた。僕がアミの物語を終わらせてあげよう。うん、それがいい。そうしよう。あっ! そうか。そうだったのか。僕はてっきり自分がアミの物語の登場人物なんだと勝手に思い込んでいた。だけど、違ったんだね。僕は作者だったんだ。なんだ、それならそうと早く言ってくれればいいのに。じゃあ、とびっきり素敵な物語に僕がしてあげる。


 アミの部屋の前に立ち、男はインターホンを押す。穏やかな笑みを浮かべ、手にはアミのために買った出刃包丁。扉の向こうでアミが返事をする。さぁ、これで終わりだ。アミの玄関の扉がゆっくり開いた。




「待ってたよ~!」


 そこにはアミの声をした、アミとは似ても似つかない汚い笑顔の女が立っていた。


 お前は、誰だ。




気になる続きは、「小説現代」2022年12月号でお楽しみください!

吉住(よしずみ)

1989年11月12日生まれ。福岡県出身。女ピン芸人として活躍、「女芸人NO.1決定戦 THE W 2020」で優勝を果たした。

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