規則正しい生活/砂川文次

文字数 3,352文字

砂川文次さん『ブラックボックス』が、第166回芥川龍之介賞を受賞しました。

今回は、「群像」2022年3月号に掲載された受賞記念特別エッセイをお届けします!

規則正しい生活


 私が過ごす毎日はかなり単調だ。起床や出勤の時間、昼休みに行く店、帰宅後の家族との時間、それに休日の過ごし方。


 家族がいるので、当然といえば当然だ。妻子がいるのに毎晩飲み歩いたり、なんの前触れもなくふらりと遠方へ旅立ったり、無意味に感情を爆発させたりするのは難しい。とはいえ、そういうことをできる人間がいることもまた私は知っている。だけど少なくとも私はその部類には属さないようだ。


 そうなると自然私が何かを書いたり読んだり、またはごく私的な営為もしくは無為に費やす時間は、家庭としての動きが停止する期間に限定される。保育園や学校、夫婦それぞれの職場での時間、家族で過ごす時間等々を差し引けば、「深夜」か「早朝」のどちらかになる。例外もあるだろうが、我が家はそうだった。晩に子供の寝かしつけをしているとそのまま寝入ってしまうことの多くなった私は、「早朝」型になった。だから私にとって、朝に何かをするというのは、積極的に選び取ったというよりも、どちらかといえば消去法だったりする。


 では仮に一人だったら、と考えてみることがあるが、それでもなおなんとなく自分は今と似たような安定した日々を選び取る気がしている。


 軍隊的なものがどうも奇異の目で見られるこの国ではあるけれども、そういう決まりきった日常、安定した日々はどこか軍隊的な色を帯びている、と私は感じている。


 私は元自衛官で、対戦車ヘリの操縦士だった。航空機の運航には決まり事が非常に多く、それでなくとも自衛隊生活というのは時刻で律せられる。


 陸上自衛隊において航空機を装備する職種は航空科で、航空機を用いて地上の作戦を支援する。対地攻撃や人員、物資の空輸に連絡・偵察。モットーは「定時定点必達」だ。「行けたら行くわ」というのは通用しないし、「どこだっけ?」というのもあり得ない。地上部隊が欲する時期と場所に、必ずやってくるのが航空科だ(モットーなので、実際は違うこともあるが)。


 私は自転車で職場へ向かうけれど、必ず同じ時間にすれ違う、名前も知らないあの人のことを知っている。決まった時間にやってくるバスのことも、いつものスーパーの営業時間や、そうした物を取り囲む世界のことを知っている。銃も戦車もないけれど、でもこの世界の日常はとても安定していて、だからこそ「軍隊的」な色を帯びているように見える。


 そしてそういう「安定」したものは、制度という背骨によって貫かれている、とも思う。だからいかに自由な働き方やICTの活用や持続可能性が声高に叫ばれようとも、その背骨に突き刺さっているものをみると、それもまたやはり「安定」に落ち着いてしまうのではないか、と感じることがある。


 私には、多分その是非を論ずる資格がない。仮に資格があったとしても、きっとそれは「安定」したものを擁護するための資格だろうと考えている。生の私が発する「安定」したものから離れようとする人や物や事柄への擁護は、虚偽になってしまう。その理由は、生の私が「安定」の方に寄り過ぎているからだ。でもだからといって、「安定」から離れたいとする力が何一つ存在しないのか、と問われるとそれもまた違う。


 朝起きるのがほとほと嫌になることがある。何も決めずに歩き回ることがある。仮病を使うことや大声を出すことや暴力への誘惑もある。「安定」に近いところにいることは確かである一方で、「安定」と完全に一致することができないのもまた確かなのだ。


 私は、朝にいつまでも寝ていることで「安定」から放り出されてしまう人がいることを知っている。寝ていたいのに起きてしまう人がいることも、起きたいのに寝てしまう人がいることも。という風に考えたところで、私はどうも寝ていたいのに起きてしまう部類であるらしい、と自分のコントロールの仕方をある程度はわきまえている私は落胆とも安堵ともつかぬ心境に思い至る。自分の中にある「安定」からはみ出した部分と、「安定」そのものを天秤にかけた時、「安定」が重たくなってしまう人間が、私だ。


 それなのに私は、どこか「安定」からはみ出すということ、つまり「不安定」でいることが物を書く上での条件のように見ていた節があった。もっと言えば、憧れがあった。酒に溺れる。賭けに興じる。女に狂う。感情を爆発させる。骨肉の争いを繰り広げる。そういうものに憧れがあった。


 さっきの落胆は、二度寝も満足にすることができない自分が、酒に溺れたり賭けや女にひた走ることは絶対にないだろう、という確信からだ。よしんば「不安定」の方へと接近しようとも、意識的にやるのとナチュラルにやるのとでは位置が違う。


 そのことは『白鯨』のイシュメールも証明してくれている。「されば、ナンタケットの船主たちよ」から始まる警句がそうだ。要するに厭世の反動として極限を求めてやってきた若きプラトン学者を檣頭に上らせたところで、ついに獲るべき鯨を一頭も捕らえることはできない、というものだ。多分このことは、極限を求めてやってきた若きプラトン学者は、その実極限の真似事をしているおかげで、ついに鯨を獲ることもできず、本当に欲している極限に至ることができない、という二重の意味があるのではないかと私は見ている。私が「不安定」に飛び込んだつもりになったところで、得られるものは多分何もない。


 そういうことで、自分の小心を誰よりも心得ている私は、不安定を求めることの反動として、「安定」の極致である自衛隊に入った。


 しかしこの組織は、「安定」や「不安定」などという観念を持つことすら許さない、圧倒的現実として私の目の前に立ちはだかった。例えば五十キロ、百キロを歩くこと、山の中で獣のように眠りにつくこと、自分の一挙手一投足が自分以外の何かや誰かに全て決められてしまうということ等だ。私は、極致に身を置くことで、ようやく自分の中にも「不安定」があることを知ったような気がする。残念ながら、私が持つのはとても小さな「不安定」だったけれど。でもこの「不安定」は、きっと真似事をしていたのでは手に取れなかったものだと思う。酒に溺れたり返すあてもない借財を背負ったりしても、それらが真似事である限り、むしろ私はその分だけ「安定」に心を寄せていただろう。


 そうしてみて、初めて極致でなくとも「安定」が備えている不愉快さみたいなものにも気が付けるようになった。


 白線の内側は電車が来るので危ないですよ、ドアに指を挟まないでね、人を押しのけないでね、ぶたないでね、大きな声で話さないでね。


 私は、走っている電車に人がぶつかればどうなるか知っているし、ドアに挟まれた指が痛いのも知っているし、押しのけられてうれしい人間がほとんどいないことも知っている。


 「安定」が私を取り囲む。明日も、きっとあのバスはいつもの停留所に、いつもの時間にやってくる。バスの横を自転車ですり抜けないでね、危ないんだよ、という注意書きをぶらさげながら、自転車を漕ぐ私の前を通り過ぎていく。


 それでも小心者の私は、この後もきっとそういう「安定」した日常のなかを通り抜けていくのだろう。かつて、書くための条件として憧れた日々の対岸を歩いて行くのだろう。


 私にとっての書くための条件は、むしろ「安定」した日々に身を置くことだったのかもしれない。

砂川文次(すなかわ・ぶんじ)

作家、1990年生まれ。近刊に『ブラックボックス』。

『ブラックボックス』(著:砂川文次)

第166回芥川龍之介賞受賞作!

ずっと遠くに行きたかった。今も行きたいと思っている。


自分の中の怒りの暴発を、なぜ止められないのだろう。自衛隊を辞め、いまは自転車メッセンジャーの仕事に就いているサクマは、都内を今日もひた走る。

 

昼間走る街並みやそこかしこにあるであろう倉庫やオフィス、夜の生活の営み、どれもこれもが明け透けに見えているようで見えない。張りぼての向こう側に広がっているかもしれない実相に触れることはできない。(本書より)


気鋭の実力派作家、新境地の傑作。

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