ウインター・ハズ・カム/高山羽根子

文字数 3,578文字

文芸誌「群像」では、毎月数名の方にエッセイをご寄稿いただいています。

そのなかから今回は、2018年12月号に掲載された高山羽根子さんのエッセイをお届けします!

ウインター・ハズ・カム


 今年の夏は、実に妙な季節だった。梅雨は短く、そのあとずっと様子がおかしいぐらいに暑く、いろんな何かに似た形の雲や虹と雷が同時に光るのを写真に撮った人々はこぞってSNSに上げて拡散した。台風も大規模だった。停電や断水もあちこちで起こったし、都内もところどころ冠水した。それも人は撮影してSNSに上げた。


 昔から日本という国は、ふたつの季節に分けられている。ものすごく大ざっぱに言えばプロ野球の試合をやっている時期と、やっていない時期。やっている時期のことはその名の通り「シーズン」と呼ぶ。そうしてシーズンは、自分の応援する球団の今年の調子によって伸び縮みする。いや試合数はどの球団も同じだけれど、弱ければ早々に自力優勝が消滅し消化試合になって、強ければその先のCSや日本シリーズに参加する可能性があるために、ずっとずっと緊張感を持って応援し続けることになる。甲子園でいうところの「○○学園の長い夏は終わった」みたいな感じで、早く負けるとそれだけシーズンは短い。


 シーズン中は、いったい自分がシーズンオフになにをして過ごしていたのだろうと考えてみるのだけれども、どうにも思い出せない。なんとか無理にでも思い返してみると、なんのことはない、海外のリーグや、日米野球、社会人、大学野球を見ている。また、シーズン中もずっと球場あるいはテレビの前で野球を見ているわけではないので、ふたつの季節を過ごす自分の生活自体に大きな違いはない。それでもふたつの季節の境目は深く、冬が来るのは恐ろしい。シーズン中は、生活の隙間が隅々まで野球で満たされている気がする。


 ただ、多くの人にとってこの野球というスポーツはどれだけの部分を占めている情報なんだろう。毎日ニュースの中の数分を使って結果を報道する、コンビニやキオスクに並ぶスポーツ新聞にはあり得ないほどの巨大なポイント数の太ゴシックで、ホームランを打った、あるいは完封した、引退した選手の苗字が印刷されている。野球に興味がない人も、生活するうえで目に付くところに野球がある。


 シーズン中、月曜日は野球の試合がない。私はその日は抜け殻みたいになっていて、早く明日にならないかとばかり考えながら仕事をしている。逆に言うとシーズン中は週に六日野球をやっているわけで、たぶん、野球を趣味にしていない人には信じられないことかもしれない。毎日なんて見てられないでしょう、しかも毎日、数時間だよ? と思う人も多い。いや、ずっと見ているかといえば見ていないのだけれど、家で作業しているとき、職場から帰るとき、テレビやラジオの中継では点数に限らず、投球の種類、投球数、打球、塁にだれがいて、どういうポジションで守備シフトを敷いているのかもわかる。スマホの画面を仕事帰りに見て、あるいは車の中でAMラジオを聴いて、小さくガッツポーズをしている人や、仕事でへまをしてとても落ち込んだりすごく嫌なことがあってくさくさしていても、自分が応援している球団の四番が逆転満塁ホームランなんか打とうものなら、魂がすうっと浄化されてすべてが許されてしまいそうな気がする人はどのくらいいるんだろう。


 野球のすごいところはそうやってほぼ毎日やっているところだ。シーズン中、週六日、雨が降ってもドーム球場でやっている(台風や大雪などの場合は交通事情で中止になることもある)。数万人がスタジアムで野球を見ている。週に六日、数万人╳球場分だ。テレビやラジオ、インターネットも含めればどれだけの人が試合に注目しているんだろう。こんなスポーツはまずほかにない。たぶん世界にもあんまり多くはない。


 シーズン中、年に数回は各球団のホーム球場ではない全国各地の球場で主催試合を行う場合がある。私が生まれた富山県でも、毎年ではないけれども試合を行っている。本当に、びっくりするぐらい、その土地の人たちはプロ野球の試合を楽しみにしている。私がたぶんいま富山に住んでいても地元開催をびっくりするくらい楽しみにしていると思う。そうしてその日が大雨で試合が中止になったら、胸が破れるくらいがっかりするだろう。というかきっと普段も独立リーグとか見に行っているだろうし。


 日本のどこかで記録的な豪雨が降っている日も、日本のほとんどの場所が記録的にものすごく暑い日も、日本のあちこちの球場では数万人を入れて野球が行われている。二〇一一・三・一一はオープン戦の時期で、四試合のうち二試合が途中で中止になった。横浜スタジアムでの対ヤクルト戦は六回で中断、グラウンドの中に観客がおろされて交通機関が動くまで待機になった。シーズンに入ってから東日本の球団は、計画停電や自粛もあって、西日本の主催試合と振り替えたり地方球場で代替試合を行って試合数をどうにか調整していた。


 その年の巨人の開幕戦は、二週間の延期ののち山口県の宇部に振り替えられた。先述した通り地方開催は年に数回行われるが、シーズン開幕戦というかなり特別な試合が地方球場で行われることはほとんどない。実際巨人の開幕戦が地方球場で行われたのはこの年が初めてだった。そうして繰り返すが地方球場での開催は地元の人がとても楽しみにしているものである。突然、住んでいるところの近くの球場でプロ野球の試合、しかもシーズンの開幕戦が開催される。少なくとも私なら夢を疑い、球団の収益を心配する。まったく他人事ではあるけれども。


 その後もいくつかの、大きな自然災害によって、野球の試合は変更を余儀なくされていた。なるべく早く野球を再開しなくては、再開してほしい、と野球をやっている人も、見ている多くの人も思っていた。その時、野球にそれほど興味のない人々はどう思っていたんだろう、と考えることがある。よく考えれば、いやよく考えなくともプロ野球の試合は生活必需品なわけではないし、おなかが膨れるわけでもない。ただ毎日、たくさんの人間のうちのどれだけかの割合の人たちが野球の試合を見て一喜一憂しているというだけのことではある。


 個々の人生に当てはめれば、結婚式当日も、出産している最中も、手術が終わって全身麻酔から目が覚めても最初に「今日、先発の立ち上がりはどうだ」と言葉にする人っていうのもたぶんいる。わからないけど。ていうか私ならローテ次第だけどたぶん言う。


 高校野球ともなると、春と夏の時期は絶対やっている。そうしておそらくプロ野球以上に全国的な公共放送網によってみんなの目に届く。野球をする人もその周りの人も、どんなに暑くても、そこそこ雨が降っても、なんとかその期間内に終わらせるようにやっている。今年なんかは特に暑さがひどかったので、定期的に水を飲むようにさせて、観客にも熱中症への注意を促し、百四十球投げている投手を見て心を痛めながら、それでもやっている。すべての都道府県で何試合もやって、勝って甲子園に集まってまた野球をしている。この場合、やりたい選手たちがいるからやらせてあげたいというのもあるので複雑だけれど、とにかく子供も野球をしている。人は野球をさせているし、しているし、見せているし、見ている。


 先日、近所の人たちの草野球チームの試合でスコアをつけた。私自身は野球をしないけれども見ることはそこそこしているので、簡単な球種や打球の種類を見てスコアブックに数字と記号を書き込むことくらいはできる。野球をしているのはみんなお店をやったり、個人事業あるいは勤め人として働いている。誰にも野球を強制されたりしないで、やりたいからやっている人たちしかいない。正直とってもうまいというわけではない。


 うちの近所の公園には野球場があって、私はそこに自転車で行く。区の持ち物なので、近所の人たちが集まった草野球チームが申し込みをして、当たれば使用できる。ただ外れることも多い。ということは、区のレベルでもほかに結構な数の草野球チームがいて、球場の申し込みをしているということだ。たぶん、ほとんどが、趣味で楽しむためのチームだ。


 とにかく日本人というものは実によく野球をしている。そうして野球がそれほど好きでない人は、日本に野球が毎日あり続けることをなんというか、黙認してくれている。そうして私は野球というものをわりと面白く見ている。もうすぐ冬が来る。願わくは次のシーズンまで粛々と、つつがなく過ごしていきたい。

【著者プロフィール】

高山羽根子(たかやま・はねこ)

作家。1975年生まれ。近刊に『暗闇にレンズ』

2022年9月号「群像」に、中篇「パレードのシステム」が掲載されています。

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