ただ存在するだけ運動/永井玲衣

文字数 2,353文字

文芸誌「群像」では、毎月数名の方にエッセイをご寄稿いただいています。

そのなかから今回は、2021年8月号に掲載された永井玲衣さんのエッセイをお届けします!

ただ存在するだけ運動


 存在することは、いたたまれない。存在は、白々しい。誰もがみな存在はしている。だが、ただ存在するというのは努力がいる。何かに「なる」、何かを「する」ことは容易であるが、「ある」ことは難しい。それで、ただ存在するという運動を、ひとりではじめることにした。


 夜、布団の中でまどろむとき、ため息のような問いが頭をもたげる。「わたしは今日何を成したのか?」「誰のどんな役に立ったのだろうか?」どこかとおくで、線路をガタゴトと電車が通る音が響いている。悲痛な叫びのような音を立てて、電車が停車する。ゆっくりと電車がわたしを轢いていくような気がしながら、わたしは問いを頭の中で反響させている。


 会議に出ると、なにか「いいこと」を言わなければと背中にびっしょりと汗をかく。授業をするときは、先生という役割を持つことができて、少し安心する。「先生」と呼ばれることは好きではないが、役割があることがわたしを落ち着かせる。役割をもつことや、成果を出すことだけが生の価値ではないことはもちろん分かっている。にもかかわらず、そのものさしで自分を測って絶望するのをやめられない。ごまかすように何かを「する」か、何も生み出せなかったと後悔しながら眠りの底に沈んでいく。


 世界があまりにめちゃくちゃなので、哲学をするほかないだろうと考え、ついに研究者になってしまった。だが「哲学はあらゆることを問いなおせる」などと偉そうに話すくせして、寝る前によみがえる自分の問いは問いなおすことができない。他人には養生を勧めるが、自らの養生には注意しない医者のように、人には考えることを勧めつつ、自らの問いにはぐずぐずと思考停止する哲学研究者もいるのだ。


 そういうわけで、ただ存在するだけ運動をしようと思った。これは、生産性だけでものごとが測られてしまうことに抵抗するささやかな社会運動のつもりでもあるし、ただ存在することを自分にゆるすためのトレーニングでもある。


 運動は家の中でもできる。しかし、せっかくのトレーニングなのだから、他者からのまなざしに耐える基礎練習も加えたほうがいいだろう。わざわざ街にでかけて、ベンチや植え込みなどに座り、ただ存在している人になる。この場合、服装選びから運動は始まっている。トレーニングウェアなどを身に着けてしまうと、ただ存在している人どころか「ジョギング中に休んでいる人」をすることになってしまう。だからといって、スーツなどを着込めば「営業の外回り中の人」「会社でミスをしてしまい、気持ちを切り替えている人」になってしまう。意味や役割がにじみ出ない、絶妙なよそおいである必要がある。当然、犬などのペットを連れてはいけない。よく公園でぼうっと座っている人がいるが、手にリードを持っていることが多い。これは単に「お散歩中の人」である。しっかりと社会的にも役割があり、道理が通っている存在様態である。


 それに対して、わたしはただ存在している人をやりたい。しかし、やってみるとわかるように、待ち合わせをする人や、パソコンを広げて仕事をする人、電話をかける人などが行き交う街中で、ただ存在するというのは不安と隣り合わせだ。スマホを見たいという強い欲望に駆られる。ニュースを確認したり、仕事のメールを打たなければ、と思う。そして「スマホを見る人」になれば、わたしはこの街で座っていることがゆるされるような気がしてしまう。それでも、自分の存在にしがみついて、とにかく「存在」をやってみる。ベンチの背もたれなどに寄りかかってしまうと「疲れて休んでいる人」になってしまうので、できるだけ背筋をぴんと伸ばして、存在することに耐えるのである。


 不安を感じるのはわたしだけではない。街を行き交う人々もまた、不安な面持ちでわたしを見つめる。住宅街の中に忘れられたようにある公園などでただ座っていると、太陽がじわじわ自分の肌を灼いていくのと同じくらい、たまに通りかかる人々の目線が自分の存在をちりちりと灼いていくのを感じる。「何かをしている」よりも「何もしていない」ことの方が不自然であるというのは、奇妙な逆説だ。


 大学院に入りたてのころ、ある学会で受付にただ座っているだけでいいバイトをしたことがあった。隣に座る友人に「存在するだけで時給が生じるね」と話しかける。友人は前を向いたまま、ひとりごとのように「それなら安すぎるよ」と言った。たしかに、とわたしはつぶやいて、教室の横においてある傘立てに差してあるビニール傘を眺めた。その時のわたしの存在は、一時間あたり980円の価値であった。


 しばらく経ち、何かをしたくなって、誰かになりたくなって、ベンチから立ち上がる。それでも、目まぐるしく急ぐように進む大きな社会の中の、小指の爪ほどの歯車が、少しだけ奇妙な動きをしたことを想像する。


 帰り道に渓谷に寄った。水はあまり流れておらず、ただの淀んだ池のような気がして、なぜだか少しがっかりする。後ろから、男性の声がした。「ゆっくり、ゆっくり、流れているね」。振り向くと、中年の夫婦が水を見つめて静かに話している。「ゆっくり、ゆっくりね」。歌うように二人はそう言って、歩いていく。そうか、ゆっくりでも流れているのか、とふと思う。


 ただ生きているだけでも、水は流れるようだ。虫に刺された足首を搔きながら、わたしは来た道を戻っていった。


永井玲衣(ながい・れい)

哲学、1991年生まれ。近刊に『水中の哲学者たち』。

2022年5月号「群像」より、「世界の適切な保存」を連載中です。

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