顔パックの悲しみ/宇佐見りん

文字数 2,230文字

文芸誌「群像」では、毎月数名の方にエッセイをご寄稿いただいています。

そのなかから今回は、2020年10月号に掲載された宇佐見りんさんのエッセイをお届けします!

顔パックの悲しみ


 離れ目である。それで、目頭を切開した。いわゆる整形だが、もう令和であるし、隠すほどのことでもないように思う。もしもこれを読んだ知り合いがいたら「なんか顔、変わった気がしたけど、これか」と思ってもらえればいいし、今後知り合う人がいても、隠しごとは減らしておいたほうが何かと楽である。最近は、人と知り合ってそれほど経たないうちに告げてしまう。


 術前のカウンセリングをしたときに先生は「そんなに離れてるかな」とおっしゃった。しかし、顔に定規のようなものをあてて計測してもらうと「最もバランスの良いとされている幅」からも、日本人女性の平均値からも見事にかけ離れた数値が出たので、先生は「ごめん、これは切った方が」と申し訳なさそうな顔をされた。私は何だかおかしくなり「でしょうねえ」と答えた。


 離れ目を強く実感するのは、顔パックをするときである。風呂上がりに髪をあげ、鏡を見ながら顔に密着させていくと、口と鼻はぴたりと合うのに、両目がどうにも合わない。私の両目はふたつの穴よりもあきらかに外側にあり、鼻から押さえつけていくと目尻にシートが被ってしまう。顔パックの目、鼻、口、の穴の配置は、日本人の顔の「一般的な」配置である。はじめてこれに気づいたときは、目尻に顔パックの美容液が染みる痛みもあいまって、少し悲しい心持ちがしたものだった。


 目が離れていることも、目頭を覆う蒙古襞も、私にとっては高いリスクを負ってでも解消したかったコンプレックスであったというだけで、離れ目自体が良くないものであるとか、そういう話ではない。その特徴を持つ人や見る人によっていくらでも魅力になるだろう。もちろん顔パックが悪いわけでもない。そもそもだいたいの商品は「できるだけ多くの人にとって使い勝手がいい」ように製造される。高校の頃、同じ部活に左利きの先輩がいたが、彼女のボールペンの持ち方が少し変わっていたのを思い出す。ほとんどのペンは右利き用にできているからいわゆる「正しい持ち方」をするとインクが出づらいのだと彼女は言った。


 外の基準に出会い、照らし合わせることではじめて、自分のかたちを把握することがある。たとえば、私は条件に合う期間は意識して献血に行くようにしている。献血がその他のボランティア活動と異なる最大の点は伴う責任の大きさであると思う。もし自分の都合で継続が難しくなっても、善や偽善の問題があるにしても、抜いた血液には変わりがないから、気まぐれの善意で誰かを傷つけてしまう可能性が低い気がする。なにより、誰かを救う可能性があると思うことで、自分自身が救われにいく側面がある。


 はじめて献血をしたのは高校生の夏であった。制服のまま家を出たはよいものの、精神状態が今ほど良くない時期だったのもあり、学校には行かなかった。アスファルトから放射された熱がたちこめるなか、歩行者天国の十字路の中心で幟を立て、「献血、お願いします」と声を張り上げる若い男の人がいた。ちょうど十字路の交わるあたりが一番低く、私は下り坂を転がるように男の人のもとへ駆け寄ると、声をかけ、案内してもらった。疲弊していたので、もしあれが上り坂だったら行かなかったかもしれない。待機所に入ると、冷房が弱くついていて、丁寧に説明を受けた。お菓子も飲み物も自由に取っていいというし、想像したよりもずっと居心地のよい場所であった。注射もそれほど痛くなく、貧血防止用にもらった冷えた紙パックのお茶の表示を見て「抜く血の量とほとんど同じなんですね」「たしかに。そう考えると、結構抜きますよね」などと会話をしているうちに終わってしまった。


 ふたたび訪れたとき、初回に献血した際の血液検査の結果がでていた。「血がきれいなんですよ。びっくりしました。平均より血が濃い、つまり血液中のヘモグロビンが多くて、汚れもない。すごくきれい。しかもAB型だから、希少だし」受付の女性は、やや興奮ぎみに私の血を褒めてくださった。見ると、たしかに基準値をはるかに上回る数値が出ている。彼女は「誇りに思っていいですよ」とおっしゃった。


 褒められたのは私でなく、血である。ヘモグロビンの血中濃度である。それでも、自分にもまだ使い道がある、誰かの役に立つ、と言われている気がし、うっかり泣き出しそうになりながら駅までの坂道をのぼった記憶がある。


 だいたいの場合において「自分は自分」とのんびり生きてはいるものの、ときおり顔パックのような「外部の基準」が迫ってきて、はっとさせられることがある。ずれを感じるのは、悲しいこともあるし、うれしいこともある。自分のなかのそれらを「個性」と呼べるほど私はまだ吹っ切れてはいないのだが、それはそれでゆっくり向き合うつもりである。


 数日後に、著者近影の撮影が迫っている。これ以上整形をする気はないが、コンプレックスは完全に消えるものではないし、容姿が自分の作品の印象に何か悪い影響でも及ぼしたらと思うと、想像するだけで落ち込みそうになる。顔パックの穴からはみ出た目尻には、今も美容液が染みる。だが、その痛みがなかったのなら、私はおそらく小説を書いていないのである。


宇佐見りん(うさみ・りん)

作家、1999年生まれ。近刊に『推し、燃ゆ』。

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