ネクタイと、世界のくぼみについて/稲垣諭

文字数 2,398文字

文芸誌「群像」では、毎月数名の方にエッセイをご寄稿いただいています。

そのなかから今回は、2022年8月号に掲載された稲垣諭さんのエッセイをお届けします!

ネクタイと、世界のくぼみについて


 以前、大学の講義ではネクタイを締めていた。最近は滅多にしない。からだが緊張して苦しいというのもあるが、別の大きなきっかけがある。数年前、美術系の大学で講義をしていた頃の話である。その大学では講義のサポートをしてくれる助手の方がいて、毎回プリントをコピーしたり、出欠をとってくれたりする。講義の前後には控え室で、その人と今年の学生の傾向についてや、作品制作の相談、哲学的な疑問までいろいろ話したりする。ちょっと息を抜く有意義な時間である。


 ある日の講義の終了後だったと思う。その助手の人とのこれまでの距離感が変化していたのに気づく。声の調子なのか身体距離なのか、よく分からない。雨雲がゆっくり垂れ込めるような小さな変化である。どことなくよそよそしく視線を合わせてもくれない。少し逡巡した後、思い切って尋ねてみる。


「なんか、今日はどうしたの?」

「え?」

「いや、少し、ぎこちないというか……」

「いえ、そんなことないです」

「でも、ほら、目も(合わせないし)」

「あ、いえ、目じゃないんです!」


 助手の人の声のトーンが急に高くなる。


「目じゃない?」


 そこで私はようやく違和感の理由を知る。


「先生のその、ネクタイが、その柄が細かすぎるというか、目に悪いというか、私だめなんです。情報量が多いものが苦手で混乱してしまうのです」と。


 どうやら私がその日つけていた燕脂色の地に白い千鳥格子柄のネクタイが、その人を混乱させていた。コントラストの強い図柄や色が、その人にとっての空間規格の容量を超えるとダメなようで、あまりに多い文字も苦手で、「意味」が主張してきて痛いほどうるさいのだという。


 街中に乱立する看板も、コンビニのおにぎりの包装ビニールも情報量の多さがその人を苦しめる。だから日用品のパッケージラベル等は全て剝いでしまうか、無地のボトルに詰め替えているという。思い起こせば、いつも全身モノトーンの暗めの服を身につけていた。しかし今回はそこに、私のネクタイが現れたのだ。


「こんなネクタイをしていて、申し訳ない」と謝ると、「いえ、いいんです。私の問題なので。気にしないでください」と両手を使って謝罪をすぐ打ち消してくれる。私がその場でネクタイを外すと、雲の間から青空が覗くように元通りの助手さんが現れた。


 ともかくこの一件は、私を軽く驚かせた。何気なくつけていたネクタイの柄が誰かを混乱させ、剰え攻撃している可能性もあるというのだから。それ以来、ネクタイはしないか、どうしても必要なときはモノトーンか柄が大きく単調なものを選ぶようになった。


 こんな理由でネクタイをつけなくなるのは馬鹿げている、少しでも誰かを傷つけ不快にする可能性があることをいちいち考えていたらキリがない、そう言いたい向きもあるだろう。それもわかる。が、私はあまりそう感じない。むしろそのとき世界の広さ、複雑さに素直に驚いている。


 この世界には、たとえフラットに見えても無数のくぼみがある。そこに一度嵌まり込むと出られなくなったり、たびたび足を掬われて難儀するくぼみだ。しかもそれは、感覚や知覚、認識の解像度やチャンネルが異なるだけで、他人には全く経験できないし、理解されない。だから今回のような時には、そんな世界のくぼみと生きている人がいたのかと自分の世界の狭さを省みながら、ちょっとだけ新しい世界を垣間見られた気がして心が躍る。そして、そのささやかな返礼(?)ではないが、ネクタイの選択という自分にとってさほど重要ではない行動を変えてみようと思うだけである。


 たったひとつの選択を変えたから何かが良くなるわけではない。世界は広いままであり、見えないことも多いままである。それでも自分の行為が変わり、まなざしが変わることは、無力さに打ちひしがれる手前で、次に進む活力となる。ささいな個人的行為が、ひとりの他者の生とその人のくぼみを媒介した共同行為になる。


 私たちの経験する世界は、こうした共同行為の集積によって幾層にも編み上げられていて、その無数のくぼみでさえ共同行為の集積によって作り出されるものだ。例えば、進化と歴史の偶然によって右利きの人がなぜかマジョリティだっただけのことで、ハサミが左利きの人にとって煩わしく、ケガの一因になったりする。でもそこで流された血は、誰かの共同行為の力となって新しいハサミを生み出すだろう。


 その助手の人はもう職場が変わってしまい、私がネクタイをしていないことも知らない。この密やかな共同行為は連帯などとはとてもいえないし、声を上げることでもない。しかし、ほんのいっときの他者との関わりが、その人のくぼみの共有が、誰かの行為や選択に確実に影響を与えることがある。そんなことがこの世界で無数に起きている、と夢想する。強制されたのでも、命令されたのでもない、ひとりの個人のささやかな選択だが、紛れもなくその人との交流がなければ生じなかった、生きやすさへ向かう無名の共働である。


 先日、『絶滅へようこそ』(晶文社)という、いささかギョッとするタイトルの著書を上梓した。そこでは個人としての私ではなく、ホモ・サピエンスとしての人間が、現在どのようなくぼみに嵌まり込んでいるのか、それは人類という種を絶滅させてしまうかもしれないそんなくぼみの可能性でもあるのか、そのくぼみを均していった先に見える人間の共同行為の未来を探り求めようとしている。

稲垣諭(いながき・さとし)

科学哲学。1974年生まれ。近刊に『絶滅へようこそ 「終わり」からはじめる哲学入門』。2022年10月号「群像」から、新連載「「くぐり抜け」の哲学」が始まります。

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