ウィズコロナ/永井みみ

文字数 1,857文字

文芸誌「群像」では、毎月数名の方にエッセイをご寄稿いただいています。

そのなかから今回は、2022年2月号に掲載された永井みみさんのエッセイをお届けします!

ウィズコロナ


 酸素濃度が、九十を、切った。

 いよいよ気管挿管の運びとなり、人の出入りが激しくなる。

 手渡されたボールペンで、差し出された書類に次から次へと記名してゆく。

「これは、エクモの同意書です」

 わたしは、書く手を止め、防護服の看護師にたずねた。

「……エクモ、……やるんですか?」

「やるかどうかは、わかりません。ですが、やる時には意識が無いので、今のうちに書いておいてもらわないと」

 重症者室にいたものの、そこまでとは、おもわなかった。

「はやく書いてください。酸素飽和度八十八!」

 よれよれとした字でなまえを書くと、ボールペンと引き換えに、ケータイを持たされた。

「ご家族に電話してください」

 電話しますか? ではなく。

 ワンコールで電話に出た夫は、「たった今、主治医から電話があった」とだけ言い、嗚咽した。

 理解する。わたしはもう、この人には、あえないのだ。

 くろいビニール袋に入れられて、火葬場へと運ばれる。

 専用の炉は、十日待ち。

 そんな情報を、なぜだか知っていたのだった。

 次に夫と対面するときは、わたしは、骨になっている。

 だとしたら。さいごの言葉は、慎重にえらばないと。

 ほんとうは、「ありがとう」と、言いたかった。

「さよなら」だけは、言いたくなかった。

「じゃあ」と言って、電話を、切る。

 切る瞬間、病室じゅうに聞こえる声で、なまえを呼ばれた。


 ありがとう。わたしの人生は、しあわせでした。


 結論づける。

 ふとよぎる心残りは、作家になりたかった、という心残りは、無かったことにするしか、無かった。

 気管挿管から生還したのは、六日後のことだった。

 来る看護師、来る看護師が、「よかったねー」とアカルイ声でわらいながら、手袋越しのハイタッチをしてくれた。

 最後にやって来た主治医はだが、重いくうきを纏っていた。

「四十八時間は油断できません。九十を切ったら再挿管です」

 表情は判らなかったが、声はひどく、険しかった。

 質問をしようとして、声がまったく出ないことに気づく。

 とうとうわたしは、味覚も、嗅覚も、声も、失くしてしまったのだった。

 それからの四十八時間。

 モニターの数値をにらみつつ、酸素吸入器のマスクが外れてしまわぬよう、管を握りしめ、呼吸だけに集中した。

 十分ごとに、喀痰する。持ち込んだティッシュペーパーが底をつき、筆談でティッシュペーパーを所望すると、「明後日の買い物の日まで我慢してください」と、言われた。

 使いかけのでよいから、売ってください。

「きまりですから」

 では、どうすれば、よいのですか?

 渡された洗面台のハンドペーパーはかたく、唇が切れた。

「まだ血痰がつづいていますね」

 捨ててあるペーパーをのぞき、回診の主治医は、言った。

「唇の血です」のひとことも、筆談する気力は、なかった。

 四十八時間は、はてしなく、ながい。

 血中酸素は、九十二から九十六で推移していた。

 喀痰のたび、上体を起こすと、数値が下がる。

 呼吸をととのえ、高くなったら意を決して起き上がった。

 九十を、切る。

 だれも見ていないことをたしかめ、あわてて、吸う。

 吸って、吐いて、吸って、吐いて、吸って、吐いて……

 三時間くらい経っただろう、と振り向くと、時計の針は、三十分も進んではいないのだった。

 やがて。天井が濃いむらさき色に染まり、ひび割れて、バラバラとわたしのうえに、落下した。

 幻覚か? 地獄か? 体温は三十九度台で推移していた。

 ようやく。

 終わりなき四十八時間を終え安堵したのもつかの間、鼻からの経管栄養、動脈からの点滴、オムツ内での排泄、尿路感染、電極による指先の低温やけど、廃用症候群による立位・歩行困難……、休む間もなく責め苦はつづいた。

『今生の借り』はいったい、いつになったら返すことができるのだろう?

 自問自答していると、防護服のわかい看護師がふいにあら

われ、 

「今、わたし、時間が空いたから、シャンプーしましょう!」

 と、弾んだ声で、告げたのだった。

 窓を、開ける。

 抱えられたあたまに、羊水のごときぬるま湯が、ゆっくりと流し込まれる。

 看護師のうたう、鼻歌を、聞く。

 目を、つむる。

 すると。

 それまで感ずることのなかった匂いが、

 花の匂いが、したのだった。

永井みみ(ながい・みみ)

作家。1965年生まれ。近刊に『ミシンと金魚』。

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