文字のない地図/正木香子

文字数 2,120文字

文芸誌「群像」では、毎月数名の方にエッセイをご寄稿いただいています。

そのなかから今回は、2022年5月号に掲載された正木香子さんのエッセイをお届けします!

文字のない地図


 近江町市場の近くにある喫茶店で、ガイドブックを眺めていたとき、直径二ミリほどの小さなマルを見つけた。


 コーヒーカップをもちあげた手をとめて、凝視した。


 それは巻末に収録された地図の片隅にあり、指し示しているのは市街の中心からずいぶんはなれた場所のようだった。観光スポットで有名なひがし茶屋街を北へ進み、まわりに店がなくなって、ほとんど余白のような住宅地のはずれだ。書きこみらしいものは他に見当たらず、名前も、住所も書かれていない。


 でも、そのマルには、大きさ以上の存在感があった。


 筆圧の跡が紙にくっきりとうつっていたからだ。おそらく、それほど細字ではない油性のボールペンで、十分に位置をたしかめ、一か所に狙いをさだめて描いたのだろう。誰かの真剣な視線がページのうえにのこっているようで、自然と吸い寄せられ目が離せなかった。そのうち、何があるのかどうしても確かめたくなって─というより、地図の一点で誰かが待っているような気さえして─、私はそこへ行ってみることにした。


 駅前からつづく大通りに出て、茶屋街の方角へ歩きだしながら、ふと考えた。


 本のなかにしるしを発見したとき、なぜ自分は一瞬ぎょっとしたのだろう?


 そうか、新品と思いこんでいたからだ─。


 我ながらいいかげんだが、それが中古の本だということに私はまったく気づいていなかったのである。


 その日の朝、旅の身支度をして、マンションを出るついでに郵便受けをのぞいた。するとAmazonの黄色い小包が届いていた。


 小包といっても投函口に入るほどの大きさで、ぴったりと密着した厚手の封筒は少し重たい。中身の見当はついた。一週間ほど前、ネットサーフィンで目についたガイドブックを買ったのだ。今までも金沢に行ったことは何度かあるし、ぜったい必要だったわけではないけれど、ひさしぶりに旅の気分がほしかったのである。


 なんというタイミング。出発に間に合ったのは嬉しいが、いま届くか。どうせ持っていくとわかっているものを開封するために、わざわざ部屋へ戻るのも面倒で、そのまま鞄のなかに放りこんだ。そして新幹線に乗ったころには、すっかり頭から消えていた。


 本のことを思いだしたのは、金沢に着き、これからどこへ行こうかと思いをめぐらせたときだった。旅先の街で、自分宛の小包をあけるのは変な感じがしたのを覚えている。


 その時点でもまだ古本だと気づいていなかった。見た目が新しく、とても丁寧に梱包されていたこともあるけれど、私の思いこみと、インターネットで本を購入したことは関係しているのだろうか。


 じつは、私には特殊能力がある。時々、古本屋で、以前の持ち主がのこしたと思われる書きこみに出会うけれど、そういうときはいつも静かな予感があって、棚に手をのばした瞬間からもう予感している。だから本当に何かが書いてあると、おどろくというよりは、やっぱり、と納得させられる気分なのだ。


 それがさっきは不意をつかれた。完全に油断していた。



 昔から、本の書きこみを見るのが好きだった。感想や疑問がびっしりと書いてあるのも、どうしてこんなところにと思うような箇所で気まぐれな線が引かれているのも、ぜんぜん嫌じゃない。勿論、活字が好きだという前提があるのだが、印刷された文字と、生々しい筆跡との対比から生まれる濃淡や、位置関係まで含めて、渾然一体となるさまにひかれるのである。


 最初の記憶は、母の本だ。


 私が幼いころ、母は朗読のボランティアをやっていた。カセットテープに録音して、市内の病院や福祉センターにおくるのだ。


 隣の和室で本を読んでいる母の、冴えた声が廊下まで響く。私たち姉妹は息をひそめて聞いていた。


 ある日、母がいないあいだに、こっそり中をのぞいてみた。畳のうえに置かれていたのは『ことばへの旅』という函付きの本だった。ページを開くと、文章の途中で息つぎをするポイントや、発音注意の言葉に、うすい鉛筆で書かれた小さなしるしがあった。




 浅野川の鉄橋をわたり、観光ルートを外れて進む。対岸には低い家並みがつづき、うすぐもりの冬空がとてもひろく見える。


 不思議なものだ。見知らぬ誰かの、文字でさえないものに呼ばれて来てしまった。ガイドブックには、美術館や、美しい庭園や、地元の人がおすすめするお寿司屋さんや、ほかにもたくさんの魅力的な場所が、すてきな文章とともに紹介されていたのに。


 ひょっとしたら、マルを描いた人物の知り合いの家というだけかもしれない。それでもかまわないと思った。


 たどりついたのは、小さな古本屋だった。思いのほか居心地がよくて、夕方までの数時間を過ごしてしまった。数冊の本を買った。


 旅から戻ったあと、鞄を整理していると、底から端の破れた小包のラベルが出てきた。差出人の欄には金沢の住所が書かれていた。

正木香子(まさき・きょうこ)

「文字の食卓」主宰・ライター、1981年生まれ。近刊に『文字と楽園 精興社書体であじわう現代文学』。

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