紙飛行機逃亡記(京都編)/菅原敏

文字数 2,338文字

文芸誌「群像」では、毎月数名の方にエッセイをご寄稿いただいています。

そのなかから今回は、2022年4月号に掲載された菅原敏さんのエッセイをお届けします!

紙飛行機逃亡記(京都編)


 散歩の途中、あるギャラリーにふらっと立ち寄った時のこと。芳名帳に私が名前を記していると、初老の店主が私の字をまじまじと見つめこう言った。「あらゆる責任から逃げ出している、そんな人の書く字だね。自由とも言えるが、こんなに責任を持たずに生きている人の字は初めてだ」。私はしばし固まって、なんとか相槌のようなものを打っていた。ギャラリーに一緒に訪れていた連れ合いも、その店主の言葉を聞いていた。果たして彼女はどう受け止めていたのだろう。今となっては知る由もないけれど。結局その店主の言葉以外、展示のことなどさっぱり覚えていない。


 そんな昔のことを今も時々思い出すのは、あのとき彼が言ったように、私はあらゆる責任から逃げるように現在暮らしており、こうして方々の街へと逃亡を重ねているからだった。何かを盗んだ覚えはないのだが、職務質問などされる際に不意にポケットからこぼれ落ちるのは、かつて誰かが大切にしていた物のかけらだった。盗んだ方も、盗まれた方もさっぱり気づいておらず、「これはなんだ!」と問い詰められれば「盗みました」と言わざるを得ない。誰かの時間、若さのかけら、純粋、透明、靴の中の小石、返さなかった本。警察がそんな盗品を調べている間に、私はまた駆け足で逃げ出す。このかけらの持ち主たちはみな、さまざまに姿を変えてしまったので、もう二度と見つけることはできないだろう。


 十二月某日。京都に住む友人がしばし私をかくまってくれると連絡をくれた。いつものように時間ギリギリで新幹線に滑り込み、落ち着くためのまじないのように車内販売のコーヒーを飲む。駅前のタクシー乗り場で待ち合わせ、私たちは昼食をとるべく車に乗り込んだ。京都駅から三十分ほど、辿り着いた場所は嵯峨野の山々に囲まれた一軒の料亭。目の前には広沢池という大きな池が広がっている。それは確かに池なのだが、なぜか水がない。干潟のように湿った泥地が広がっており、所々の水溜りには真っ白な鷺が佇んで、時折クチバシを突き刺している。女将さんになぜ水がないのか聞くと、今は年に一度の「鯉揚げ」の時期で、養殖した鯉を捕獲するために池の水を全て抜くのだという。水のない池の向こうに広がる山々と、かすかに残る紅葉を眺めつつ女将さんの焼いてくれるすき焼きを食べる。池の向こうから時折花火の音が聞こえてくる。水溜りに残るモロコや海老たちを鷺が食べ尽くさぬように、漁師さんが鳥除けの花火を鳴らしているのだという。


 日本酒など傾けながら、私と友人は「愛の水中花」という歌の歌詞について話していた。作詞は五木寛之さんによるもの。年長の友人曰く「「これも愛、あれも愛、たぶん愛、きっと愛」この四つの小さな言葉は、地上のあらゆる愛を包括しており、すべての愛を当てはめることができるのだ」とのこと。私たちは身の回りの愛について、この四つのどれに当てはまるかなどを暢気に話していた。友人は不意に、春菊を取り分けてくれている女将さんに「女将さんの愛は、どれに当てはまりそうですか?」と聞いた。ひと呼吸置いたあと、彼女はこんなふうに話してくれた。「ここに嫁いできた当初、この場所、この池もあまり好きではありませんでした。でも、何十年という歳月が過ぎゆき、今ではこの場所がとても好きですし、幸せだと感じています。私の場合はそんな愛でしょうか」


 ほろ酔いの真昼間、私たちは何も知らずに小鉢に卵を落としていた。しかし後から知ったところ、この広沢池は平安時代より月見の名所として知られており、あまたの和歌が残されていた。平安貴族たちが月を見上げて歌を読んでいたこの場所で、彼女も同じように月を見上げていくつもの夜を過ごしたのだろうか。


  広沢の池に宿れる月影や 昔をうつす鏡なるらん

(後鳥羽院/一一八〇─一二三九)


 女将さんにお礼を言って、私たちは車に乗り込んだ。街から街へと逃げ回っている私と、ひとところにとどまって土地に根を張っている人。根を張るから花は咲き、果実は実る。そんな思いをぼんやり車窓に重ねながら宿へと向かった。京都の土地は過去を掘り下げれば芋づる式に歴史が顔を出すもので、我らが滞在する今日の宿はかつてのボーリング場跡地であり、さらに遡ると江戸初期には本阿弥光悦によって形成された芸術村があったらしい。光悦は当時を代表する書家であり、自らの書と絵師との合作や、陶芸、茶の湯、出版など様々な分野に携わり、今で言うキュレーションなどもこなした総合芸術家として知られている。平安期にはこの敷地内を流れている紙屋川に和紙を漉くための紙座が設けられていたそうで、そこからROKU(漉)というホテルの名がつけられた。


 部屋の大きな窓からは山々の姿と、一面に水を張った庭園が見える。日が暮れると水温と外気との温度差のせいか水面に白く靄がかかってきた。この乳白色の水に巨大な船を差し入れれば、百メートル四方の大きな和紙が漉けるだろう。さて、これほど大きな和紙を何に使おうか。まともに名前すら書けない私は、大きな紙飛行機を折って乗り込むことしかできない。いつの日か躊躇いなく芳名帳に名前を記せるようになるのだろうか。逃亡の終わりを夢見ながらベッドに倒れ込み、雨が降れば溶けてしまう紙飛行機は私を乗せて次の街へと山を越える。

菅原敏(すがわら・びん)

詩人。近刊に『季節を脱いで ふたりは潜る』。

2022年12月号「群像」の特集「小さな恋」に、エッセイ「静かに眠っている本を」が掲載されています。

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