7月/日

文字数 5,635文字

1日1冊、3年で1,000冊の本を読み、月産25万字を執筆し続ける小説家・斜線堂有紀。


謎めいた日常はどのようなものなのか――

その一端が今ここに明かされる。


毎月第一・第三月曜日、夕方17時に更新!

夕暮れどきを彩る漆黒の光・”オールナイト”読書日記が、本日も始まる。

前回の日記はこちら

七月/日

 コロナからの回復から全く日が経っていないというのに、今度は家が壊れた。エアコンの水漏れを直したら複数の火災報知器から水が垂れるようになるというどうしてこうなったんだという状況に陥り、自分の住んでいる家が割と深刻に欠陥住宅であることが判明し、それをXでポストしたところかなりバズった。こんなにバズることがあるのか、と驚いたのだが、このレベルのめちゃくちゃ物件はなかなか無かったようなので確かにこれは面白いかもな、と思い直した。


 さて、詳細は省くとするが、この事態を解決すべく沢山の業者の方が家に出入りしていたので、逆に読書は捗った。何故なら、工事の最中は同じ部屋にいて見守っていなければならないからである。私は床にクッションを置き、業者の方々が不穏なことを言っているのをただひたすら本を横目に見守っていた。この状況になると、本を読む以外にやることがない


 そうして読んだのがクリスティン・ペリンの『白薔薇殺人事件』である。16歳の時に死の予言を受けた大叔母は、その予言に関連しているものを全て排除して暮らしていた。だが、彼女の警戒も虚しく、大叔母は予言通りに殺されてしまう。ミステリ作家志望のアニーは彼女の死の真相を解き明かそうとするのだが──という、シンプルかつオーソドックスな犯人当てミステリだ。これは私のツボに大いにハマった。予言が微妙に抽象的であるが故に、一体どんな解釈をされるのかや、その予言に対しどんな反応をするのかというのが一定しておらず、大叔母の不可解な死に方も相まって「これには一体どんな意味があるか」を登場人物達が解釈し合うのが面白い。するっと読めてしっかり面白いので、私はかなりおすすめしたい一作だ。


 次に読んだのが吉村昭の『高熱隧道』だ。これはコロナにかかり熱が全く下がらなかった時に本棚から出してきたものだ。「黒部第三ダム」がいかに作られたのか、という経緯を追うドキュメンタリー小説で、一部の登場人物に創作要素があるものの殆どが実際にあったことであるというのが恐ろしい。岩盤温度166度という灼熱の地獄の中で、懸命にトンネルを掘り進んでいた作業員達。彼らは大いなる自然に立ち向かっていくが、それはあまりにも辛い計画だった。最終的に、この工事における犠牲者は300余名だというから凄まじい。俄かに信じられない犠牲の出し方だが、その裏には様々な人間の思惑とトンネル貫通への執念があった。


 とにかく読んでいるだけで息苦しさがすごく、人が死ぬ温度下でのトンネル作業の対策がまさかの長いホースで水を掛けることという事実に慄いた。一瞬作業員の身体は冷やされるものの、すぐに水は熱湯へと変わっていってしまう。身体中に火傷を負い、熱に脂肪を炙られ骨と皮ばかりになった作業員が描写される度に、一体これは何なのか、何を読んでいるのかという感覚になった。


 彼らを苦しめるのは過酷な熱だけではなく、黒部山という環境そのものだ。途中、大量の作業員が一夜にして死亡する展開があるのだが、この原因解明パートはさながらミステリのようでもある。だが、工事を指揮していた者達や実際に作業に当たっていた作業員からすれば、その謎はあまりにも日々に影を落とすものであっただろう。


 元々吉村昭先生の作品は好きだったのだが、これを機に全部読んでおきたいなと思った次第だった。ちなみに、この作品にはフィクションを混ぜてあるが故のとある描写があるのだが、これがあることによってこの尋常ならざる工事の恐ろしさを更に深く理解することが出来る。本当に、恐ろしい。


 そんな本を読みながら楽しく作業の経過を見守っていたのだが、何故か作業は全く進まなかった。私の家にはまだ穴が空いている。穴が空いたところからは配管が見えるし、火災報知器は三個も壊れて天井からぶら下がっている。火災報知器ってぶら下がるんだ……。


 ちなみにこの日記を書いている今も別に家は直っていない。いつ直るんだろう、これ



七月☆日

 第一弾から二年が経っていることに慄きつつ、実業之日本社による百合アンソロジー第二弾『貴女。 百合小説アンソロジー』が刊行された私は「最高まで行く」という作品で参加させていただいている。前回とは書く時の心持ちやテーマが大きく違うので、自分でも面白かった。よかったら是非お手に取って頂きたい。このアンソロジーは扉絵での豪華なコラボレーションも特徴的で、私は『のあ先輩はともだち。』のあきやまえんま先生と組ませて頂いている。のあ先輩は解像度の高い面倒臭い女性を描き切る、共感性のとても高いラブコメディなので、一話を読んで刺さった方はおすすめである。


 このアンソロジーは執筆者が好き放題やっているのが特徴なのだが、青崎有吾「首師」は前回の「恋澤姉妹」と同じくやりたいことを素直に表現している一作で面白かった一番ツボに入る関係性は、武田綾乃「恋をした私は」だ。恋は理屈じゃないからこういった関係性をも成立し得るのだ。更にパワーアップして帰ってきた百合アンソロジー、是非堪能していただければ幸いである。


 ちなみに『5分で読める! 誰かに話したくなる怖いはなし』という宝島社発行のアンソロジーにも「前の住人の話」「火の手」という小説で参加しているのだが、このアンソロジーがかなり怖かったのでおすすめだ。イメージとして、ホラー小説は長編よりも短編の方が恐ろしい気がする。


 特に小田雅久仁「寝そべり男」がかなり恐ろしかった。不気味な仮面をかぶって道端で寝そべっている奇妙な男を見つけたことから始まる怪異譚なのだから、自分がホラーで恐怖に思う要素が詰まっている凄まじい物語だった。意味のわからない理不尽に襲われる系のホラーは珍しくないけれど、細かいディティールでここまで恐怖の読み味が変わるのが驚きである。あと、物語のツイストのさせ方と「こういうことがあったら嫌だな」が詰まっている林由美子「ペットボトルカルマ」も物凄く嫌だった。こんなこと、味わいたくないな……。



七月◎日

 前に予告した通り、今回の読書日記ではレイモンド・カーヴァー「必要になったら電話をかけて」の既読者向けネタバレあり読書日記を掲載しておこうと思う。普段の読書日記では物語の全てをネタバレすることはないのだが、今回はやりたい放題内容に触れて、こういう話だったのかもしれないな、という自分の解釈とこの物語のここが好き! を語っているので、よければ是非「必要になったら電話をかけて」を読んでから目を通していただきたい




 「必要になったら電話をかけて」は、お互いに浮気をしているという夫婦関係が破綻し切った二人・ナンシーとダンの物語だ。なるべくなら離婚したくない二人は、関係を修復すべく子供を預けて夫婦水入らずで過ごすことにする。「第二のハネムーンだ」なんて言ってみるものの、実際に二人の関係は修復することはない。それどころか、二人のバカンスは限界に達し、遂には爆発してしまう。結果的に二人は離婚することが示唆されて終わるという、結構シビアで悲しい話だ。一体この話とは何だったんだろう? と考えた時に、これは日常に起こるささやかな奇跡の物語なのだと思い至った


 自分達の息子に説明している通り、ダンとナンシーは積極的に別れたいとは思っていない。お互いに浮気のことも──お互いの浮気相手も知っているというのに、なんとかここで踏みとどまれないかと模索しているのである。そんな都合の良いことが起きるはずがないと、多分彼ら自身も思っている。本当に関係を修復したいのだったら、彼らがやるべきことはまずお互いの浮気相手を清算することだろうからだ。


 でも、そうしない。それは嫌だから。浮気はやめたくない。この膠着状態をどうにかする為に、彼らは奇跡に縋っている。


 この物語における奇跡は動物の形をしている。まず、バカンスの冒頭に出てくるハミングバードだ。ダンは嬉しそうにハミングバードを見て「幸運を運んでくる鳥だ」「幸先が良い」と言う。ハミングバードが見られたから、このバカンスは上手くいって関係は見事に修復される、なんて期待している。ナンシーもダンに同調するが、実際の話、二人は一匹目のハミングバードを二人で見ることには失敗してしまう。二人を幸運のしるしということにして一応盛り上がってみせるけれど、それは彼らのバカンスを救わない。


 次に二人が求める奇跡は犬だ。バカンス中、二人は犬を買わないかという話で盛り上がる。当然ながら犬を飼うとなると責任が発生する。犬を飼うことは二人の生活を続けていくということへの了解なのだ。旅に幸運をもたらすハミングバードに対し、これはかなり能動的な奇跡との関わり合いである。もし犬さえ飼えればなんとかなる、と二人は思っている。そうして彼らは「とにかく犬を見つけましょうよ。ぴたっとくる犬」と言い、庭の犬を見てはああいうのが欲しいねと言い合う


 ここで重要なのはこの「ぴたっとくる犬」だ。二人の好みがぴたっと一致し、この子を飼おうとなる犬なんて、恐らく世界のどこにも見つからない。全部の問題を吹き飛ばして一緒に飼っていこうと思うような理想の犬を求めるから、二人の関係は修復されない。もしここで本当に野犬収容所に行って、パッと目についた犬を飼えるなら、奇跡は二人のものになっただろう。でもそうはならない。


 そうしてどうにもならないバカンスを続けている最中、ふと二人の前に訪れた奇跡が白い馬の群れだ。白馬の群れが訪れるのは、まさに二人が大喧嘩をしている最中だ。全てが限界に達したナンシーは、バカンスを明日終わらせると宣言する。二人の会話はヒートアップし、お互いに自分の浮気相手に電話しろと煽り合う。最悪の展開だ。


 このまま最悪の別れ方をするはずだった彼らは、庭にいる白馬の群れを見てころっと態度を変える。二人は白馬を見てはしゃぎ、大喧嘩を忘れる。白馬がきっかけで会話が始まり、二人は仲睦まじく夜を過ごす。


 けれど、結局彼らは関係を修復することは出来ないのだ。バカンスはそのまま翌日には終了してしまうし、恐らく彼らはそのまま離婚する。でも、バカンスが始まるより晴れやかではある


 よく考えれば、庭に来た白馬の群れというのはとんでもない奇跡だ。牧場から逃げ出してきたという背景があるとはいえ、そんなことが起こることはそうそうない。ここでナンシーとダンの関係が修復され、再び夫婦としてやっていく選択肢だってあったはずだ。そもそも、この物語の目標というのはそれであるからである。


 でも、あくまで白馬の群れは二人の喧嘩を終わらせて、穏やかなさよならを迎えさせるだけだ。その程度の奇跡しか白馬はもたらさないのである。でもそれは悲しむべきことではなく「本当に最悪な状況は避けられないけど、その最悪をフッとやわらげる程度の奇跡は存在する」ということを示してくれているんじゃないかと思う。考えてみれば、カーヴァーの物語で劇的に状況が改善されることは少ない。けれど、ちょっとマシにはなる。この「ちょっとマシ」に、白馬の群れぐらいの奇跡を当てることこそが、この物語の肝なのではないかと思う。


 タイトルにもある「電話」は、実はあまりポジティブな文脈で出てこない。大喧嘩をした時、浮気相手に電話をしろと煽りまくる時に出てくるものと、白馬の群れが庭に来ていることを保安官に伝え、この奇跡を終わらせる時に出てくるもの、そしてラスト、ダンが浮気相手のスーザンにかけようとするもの。


 前者の二つを考えると、この物語の「電話」はコミュニケーションツールではなく一種の「終わらせるもの」なのかもしれない。浮気相手との電話はバカンスの終わり、保安官への電話は白馬の群れとの交流の終わり。一方で象徴的なのは、さっぱりとした別れを選んだダンとナンシーの連絡手段は電話ではなく手紙なのだ。これはかなり意図的に選ばれている方法で、つまりは二人の関係は形を変えて辛うじて続いていくということなのだろう。だとすると、最後ダンがコートも脱がずにスーザンにかけようとしている電話は別れの電話なのかもしれない。この気づきが、今回の再読で一番思ったことだった


 レイモンド・カーヴァーの作品に感じる光とは、つまりはこの部分なのかもしれない。最悪な状況をちょっと最悪じゃなくしてくれる奇跡は、私達にも訪れる。そう言ってくれる相手は、なんだかすごく心強い。



 さて、こんな風に「既読者向け読書日記」をやってきたわけだが、この作品のこういうところが好き、特に結末が好き! というのを大っぴらに書けるのがこんなに楽しいことだとは! もしこれがカーヴァーの作品に触れるきっかけになったとすれば嬉しい。またこういった機会があったらいいなと思いつつ、いつか編むかもしれない私セレクトの偏愛短編集に想いを馳せるのだった。


家、壊れないでくれ。


次回の更新は、8月19日(月)17時を予定しています。

Written by 斜線堂有紀 

小説家。2016年、第23回電撃小説大賞にて“メディアワークス文庫賞”を受賞。受賞作『キネマ探偵カレイドミステリー』でデビュー。著作に『詐欺師は天使の顔をして』(講談社)、『恋に至る病』(メディアワークス文庫)、『ゴールデンタイムの消費期限』(祥伝社)などがある。2021年、『楽園とは探偵の不在なり』(早川書房)が本格ミステリ大賞にノミネートされ、注目を集める気鋭の書き手。

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