『戦後日記』三島由紀夫/残された鍵束(岩倉文也)

文字数 2,050文字

本を読むことは旅することに似ています。そして旅に迷子はつきものです。

迷えるあなたを、次の場所への移動をお手伝いする「標識」。

この「読書標識」はアナタの「本の地図」を広げるための書評です。


今回は詩人の岩倉文也さんが『戦後日記』(三島由紀夫)について語ってくれました。

ぼくのような人間は、いつも、創作を後押ししてくれる何かを探している。それは誰かの言葉でもいいし、作品でもいい。また、たとえば夕暮れの街の風景や、ふとしたアニメのワンシーンだって構わない。とにかくぼくは、外からの刺激なしには、何かを作り出すことができないのだ。


けれど依頼があれば締め切りまでに作品を仕上げねばならないし、本を書くとなれば継続的に作品を作り続ける必要がある。いや、そもそも、誰に頼まれずとも己のモチーフを磨き上げ、こつこつと作品を書き溜めておくべきなのではないか?


という訳で、ぼくはいつも眼をギョロつかせながら、自分の創作欲を刺激してくれる何かを探しているのである。


そんな時に、もっとも効果的なのは芸術家のエッセイなり伝記を読むことだ。殊に作品を作るプロセスや環境について詳述されているものがいい。芸術家の工房を覗き見ることで、創作へのモチベーションを高めることができる。そしてそういった工房が、作品そのものから透けて見えることはまずないのである。


一流の芸術家は、作品の上に努力の痕跡を決して残さない。


三島由紀夫という作家は、そうした面から考えると、自らの創作の秘密について、作品外で赤裸々に語り続けた人だったと思う。『戦後日記』を読んで、その認識を新たにした。


本書は表題の通り、三島由紀夫が戦後に執筆した日記形式のエッセイを、年代順に一冊にまとめたものだ。

 

本書をいったいどういった目的で読むかは、人それぞれだと思う。たとえばぼくのように創作の秘密を覗き見ようという不埒な目的からでもいいし、スター作家の日常を知りたいからでも、また警抜な芸術批評を味わいたいからでも問題はない。いずれであったとしても、本書はその目的を十全に果たしてくれることだろう。


そう、これは単なる日記ではないのである。先述した通り、本書に収められた作品は「日記形式のエッセイ」であって、備忘録でもなければ日常雑記でもない。明確に読者の視線が意識された上で、ときにサービス精神旺盛に、ときに読者を煙に巻くように書き継がれていった、ひとつの精妙かつ全身的な芸術論なのである。



芸術家における生活とは、奔馬のごときものである。要するに芸術家の必要悪(das notwendige Übel)である。どうしても御し了せなくてはならぬ。しかしあくまで芸術のために生活を御するので、人生のために生活を御するのではない。



こう著者が語るとき、これはそのまま本書の一貫した生活への態度をも物語っている。確かに日記に記された生活は絢爛たるものだ。当時の名だたる文化人たちとの交流。自身の原作映画への出演。観劇にパーティー。新婚旅行で日本の各地を巡れば、土地土地でマスコミとファンに追っかけられる等。およそ現代の作家ではありえないようなエピソードが満載している。


けれど著者においては、生活はそれ自体では価値を持たない。あくまで問題なのは芸術と人生との均衡であり、生活はそのためにのみ供せられる。



作品は結果的に云って、達せられた一つの均衡であるが、その制作の行為は、古い均衡の打破なのである。芸術家の生活は、かくて均衡の実現と共に一旦死ぬが、その死からまた蘇らぬものは、芸術家ではなくて、今度は生活人として生きつづけるほかはないであろう。人生のために生活を御する芸術家は、その地点で死ぬのである。



このような厳しい認識のもとで小説を書き、ついには完成させたときの生々しい手触りが、日記にはこう綴られている。



さて、筆を擱くと、思ったほどの喜びがない。一種の哀切の感だけがあって、躍動する喜びはない。花火なんて糞喰らえだ。ただ体にしみわたる疲労感だけが、それも明瞭ではなく、何かあいまいな不安がたえず感じられる。二日酔いのような感じ。濁った悪い空気にむりやり涵されているような感じ。



ああ、その通りなんだろうなと思う。この投げ出されたようなそっけない文章には、妙な迫力がある。たぶんこうした意図しない幻滅感にこそ、芸術の真の秘密はあるのだ。


本書を読み終えたあと、読者の手にはたくさんの鍵が残される。秘密の扉を開ける鍵。しかしその鍵のあまりの多さに、ぼくたちは呆然としてしまう。手の中で鍵束はずっしりと重く、一生かかっても全ての扉を開けることはできないと、ふいに悟ってしまうのだ。

岩倉文也

詩人。1998年福島生まれ。2017年、毎日歌壇賞の最優秀作品に選出。2018年「ユリイカの新人」受賞。また、同年『詩と思想』読者投稿欄最優秀作品にも選出される。代表作に『傾いた夜空の下で』(青土社)、『あの夏ぼくは天使を見た』(KADOKAWA)等。

Twitter:@fumiya_iwakura

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色