『ミシン』嶽本野ばら/ねぇ、君。(岩倉文也)

文字数 1,947文字

書評『読書標識』、月曜日更新担当は詩人の岩倉文也さんです。

『ミシン』(嶽本野ばら)について語ってくれました。

書き手:岩倉文也

詩人。1998年福島生まれ。2017年、毎日歌壇賞の最優秀作品に選出。2018年「ユリイカの新人」受賞。また、同年『詩と思想』読者投稿欄最優秀作品にも選出される。代表作に『傾いた夜空の下で』(青土社)、『あの夏ぼくは天使を見た』(KADOKAWA)等。

Twitter:@fumiya_iwakura

服装だとかお洒落だとかについて考えていると、ぼくは一人の女の子のことを思い出す。


ぼくの通っていた小学校には週に一度だけ私服登校の日があって、だからみんな、その日になるとめかし込んで学校へやって来た。


君は、いつも、全身を黒い服で覆っていた。ほかの子たちが赤とかピンクとか黄色とか、そんな明るい色ばかりを着ているなかで、君の服は目立っていた。たぶんぼくはそこに、かっこよさを感じたんだと思う。なんとなくぼくも、服装に気を配るようになった。小学五、六年生の頃で、異性の眼が気になり出した時期だったこともある。でも、たぶんぼくは、君の気をちょっとでも惹けさえすれば、それで良かったんだ。


だけど震災があって、君は遠くの街へ引っ越してしまった。あの日、校庭に避難したぼくらの上に降りつづけたぼた雪が、君の黒い服を音もなく白に染めて、とても美しかったことをいまでもよく覚えている。


君がいなくなってからお洒落に張り合いをなくしたぼくは、服装に凝ることをやめてしまった。詩を書きはじめてからはそれがひどくなった。言葉で自分を飾れるのなら、見てくれなんてどうだっていい、そうぼくは本気で考えた。


あの日から十年近く経ち、たいした苦痛もなしに服屋に入れるようになったのはごく最近のことだ。それに従って、ファッションデザイナーにも興味が湧いてきた。マルタン・マルジェラ、川久保玲、ヴィヴィアン・ウエストウッド、山本耀司……。そんなことを調べているうちに偶然見つけたのが、嶽本野ばらの小説家デビュー作『ミシン』であった。


本書は表題作である「ミシン」と「世界の終わりという名の雑貨店」の二作品が収められた小説集である。

ねぇ、君。雪が降っていますよ。世界の終わりから出発した僕達は、一体、何処に向かおうとしていたのでしょうね。

という一文からはじまる「世界の終わりという名の雑貨店」は、その語りかける文体の透明度と相まって、全体が、永久に届かない恋文のような儚さと静謐さに満ちている。


しかし一体に、「君」とはなんであろう。もちろん作中において、「君」とは特定の一個人、つまりはヒロインである少女のことを――Vivienne Westwoodの洋服をこよなく愛する、顔に痣のある一人の少女のことを――指しているのではあるが、「君」という言葉が紙の上に記されたとき、そこにはおのずと別の意味が生じてくる。


詩人もよく詩の中で「君」に呼びかける。君は、君が、君に、君を――。「君」とは恐らく、自分の心のうちに存在する最も美しいなにかに呼びかけるための言葉なのだ。だから、「君」とは他者を、自分ではない誰かを指し示す言葉でありながら、同時に自分自身をも引き出してしまう。あるいは、こう言ってもいいのかもしれない。「君」の半分は「僕」で出来ていると。


実際、本作にも「君」と「僕」との関係を語ったこんな言葉がある。

僕達は似通っているのではなく、同じものなのです。勿論、外見も違えば趣味だって少し異なり、好みの食べ物にも差があるでしょう。しかし、僕達は同じ色をした、同じ質量の魂を有しているのです。

詩人は、作家は、きっといつも「君」に向けて言葉を綴っている。それは誰かであって、誰かではない。ただ自分と同じ魂をもった、この世界のどこかに囚われている、ただ一人の「君」に向かって、激しく語りかけているのだ。


「世界の終わりという名の雑貨店」には、その語りかけるという行為の痛みが、孤独が、陶酔が、もっとも純粋なかたちで結晶している。


Vivienne Westwoodを身に纏うことで、辛うじてこの世界の重みに耐えていた「君」への「僕」からの語りかけは、作中の「君」を通り越して、われわれ一人一人の胸を深く貫く。その鋭さ、その冷たい悲しみは、本書発売から二十年を経た今なお、少しも色褪せてはいない。

『ミシン』嶽本野ばら(小学館文庫)
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