『ナイルに死す』アガサ・クリスティ/愛と時間が流れる大河(千葉集)

文字数 1,628文字

今週の『読書標識』、木曜更新担当はライターの千葉集さんです。

映画が近日公開の『ナイルに死す』(早川書房)について語ってくれました。

千葉集

ライター。はてなブログ『名馬であれば馬のうち』で映画・小説・漫画・ゲームなどについて記事を書く。創元社noteで小説を不定期連載中。

現在話題沸騰中のクリストファー・ノーラン監督の新作『TENET』で、ロシア語訛りのあやしげな悪役を演じていたケネス・ブラナー。その彼が監督主演を兼任した新作が近日公開予定の『ナイル殺人事件』です。原作はもちろん、アガサ・クリスティーの名作『ナイルに死す』。

 

エジプトを訪れていた名探偵エルキュール・ポアロは、ナイル川ほとりのホテルでリネットという名の貴婦人から相談事をもちかけられます。彼女は親友のジャクリーヌから婚約者を奪って結婚したばかりでしたが、そのジャクリーヌが恨みに燃えて新婚旅行先のエジプトまでストーキングしてきたのです。このままだとジャクリーヌが何をやらかすかわからない、大事になる前に追い返して欲しい、とポアロは依頼されます。


リネットにではなくジャクリーヌに同情したポアロはジャクリーヌへの説得にあたります。が、「過去を忘れるのです! 未来を向くのです!」と力説するものの、失敗。ジャクリーヌは執念深くつきまといを継続し、そして、ポアロも乗り合わせた汽船カルナック号でついに悲劇が起こります。 

 

「大事なのは過去ではなく未来」とは、本書で繰り返しでてくるセリフです。


考えてみれば奇妙なテーマでもあります。ミステリとは、現在から見た過去を掘り出すジャンルの文学なのですから。


あるいは、秘された過去を暴く専門家だからこそポアロは、すでに明らかになった過去に対しては見切りをつけるべきだと考えるのでしょう。「起きたことは仕方がない」。彼はジャクリーヌにもそう告げます。


しかし、われわれが知っているつもりの過去は、果たして本当にそのまま思っている通りの過去であるのでしょうか。探偵が過去を掘り出す役割を担う側ならば、犯人は過去を操作し隠蔽する側です。わたしたちは犯人によって、見ているはず過去を誤認させられる。そして、その裏側にこそ犯人の守り抜きたい未来が埋まっています。


過去や秘密を抱えているのはなにも犯人だけではありません。”事件”の発生後、ポアロは個性豊かな船客たちに対してお得意の聞き込みを行いますが、どうもみんな正直に証言してくれない。どこかで隠し事をしている。被害者を害する動機がある。その秘密の皮を剥くごとに、状況は複雑さを増していきます。この曲者たちの織りなす迷宮感はクリスティー作品のひとつの妙味ですね。


船はやがて岸へとたどり着くものです。わたしたちの名探偵ポアロも、最終的には真相を看破するでしょう。しかし犯人を暴き出すことは彼にとって勝利となりうるでしょうか? 殺意の下に埋まっていた想い、それはこの作品全体を運んでいた大きな流れでもあります。ポアロも結局のところ、その流れに逆らうことはできません。なぜなら”それ”は人において最も古くて強い感情のひとつだからです。


名犯人ぞろいのポアロシリーズでもとりわけ印象的な結末に会いに行きましょう。一癖も二癖もあるキャラクターたちと知り合いましょう。きっと、忘れられない船旅になるはずです。


新訳を担当したのは黒原敏行。冒険・スパイ小説やアメリカ文学の訳業で培われたシャープなスタイルの影響か、加島祥造の旧訳より文章量が二割近くも減っています。本作におけるサスペンス的な側面が、より研ぎ澄まれて立ちあらわれることでしょう。

『ナイルに死す』〔新訳版〕アガサ・クリスティー/黒原敏行 訳(早川書房)
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