『ゴルディアスの結び目』小松左京/宇宙と人間をつなぐ航路図(岩倉文也)

文字数 2,579文字

次に読む本を教えてくれる書評連載『読書標識』。

月曜更新担当は作家の岩倉文也さんです。

今回は小松左京『ゴルディアスの結び目』(ハルキ文庫)をご紹介していただきました!

書き手:岩倉文也

詩人。1998年福島生まれ。2017年、毎日歌壇賞の最優秀作品に選出。2018年「ユリイカの新人」受賞。また、同年『詩と思想』読者投稿欄最優秀作品にも選出される。代表作に『傾いた夜空の下で』(青土社)、『あの夏ぼくは天使を見た』(KADOKAWA)等。

Twitter:@fumiya_iwakura

ぼくは中学生のころ物理学者になりたかった。少なくとも、中学二年の春ごろまでは、「将来なりたい職業」を書かされるたびに、そこに「物理学者」と書いていた。


しかし、今から考えてみると、ぼくは物理学者になりたかったというより、ただ単に、この世界の秘密を知りたかっただけなのだ。世界の秘密を探求する者、その象徴が当時のぼくにとっては物理学者だっただけのことである。


それでぼくは、物理の概説書──特に相対性理論や量子力学について書かれたもの──を濫読していたわけだが、なぜそこからSF小説に辿りつかなかったのか謎である。その時間でSF小説を読んでいれば、どれだけ世界の秘密について啓示を得られたか知れないのに、と今さらながら歯がゆい思いがする。


で、今回。ぼくが紹介するのは、この世界の、いや、宇宙の真理に迫るような珠玉の短編四つを集めた小松左京の代表的SF短編集『ゴルディアスの結び目』である。そして今一番、中学生の時分に読みたかった本でもある。今のぼくにとっても難解な部分の多い作品であるから、当然かつてのぼくに理解できようはずはないのだが、しかしこの本を読めば、なにか感じるところが必ずあったはずだ。


表題作の「ゴルディアスの結び目」は、おぞましくも美しい「永遠」を描いた作品である。本作の舞台は、荒涼たる山の頂上に建てられた精神病院。そこに、サイコ・ダイバーである主人公がとある依頼を受けて訪れる。その依頼とは、病棟の最上階で厳重に隔離されている少女マリア・Kの精神にダイブし、彼女の精神世界を調査することだった。


ぼくはよく永遠について考える。この世界にもし永遠があるとすれば、それは一体どんな形を取るのだろう? 一体なにが永遠なんだろう? 愛は消える。憎しみは消える。あらゆる感情は時と共に摩耗し、べつの何かへと変わってしまう。


ぼくは、シビアに考えるのであれば、人間にとっての永遠とは「トラウマ」ではないかと考える。つねに生々しく、いつまで経っても鮮烈に、人の心を征服するもの。移ろいやすい記憶や感情に比べれば、よほど永遠に近しいものだと思える。


マリア・Kは、かつて愛する男に手ひどく裏切られ、凌辱された挙句に捨てられた過去を持つ。そのトラウマからか彼女は、なにもない空間に大岩を出現させることができるほどの、超常的な力を身につけてしまっていた。いまは病棟の奥深くで昏睡しているが、発作的に目覚めては、辺りを滅茶苦茶に破壊する。主人公に期待されていたのは、その力の謎を解明する手がかりを見つけることだったのである。


本作では、個人の心にできた心的外傷という永遠に解けぬ結ぼれが、ブラックホールといった極大のものと直接してしまう神秘が描かれている。しかしそれは、なにも突拍子もない絵空事、という訳ではない。われわれが普段、どこかで感じているトラウマの永続性に対する洞察が、あるいは人間の精神に、すっぽりと宇宙が収まってしまうといった想像が、高度な形で形象化されているに過ぎない、とも言い得るのである。


そして最後に収められた短編「あなろぐ・らゔ」についてもぜひ触れておきたい。


本作には、およそ筋という筋は存在しない。どこか分からない空間に、若い男女が暮らしている。そこはどうやら海に浮かぶ島のような場所らしいのだが、詳しくは分からない。男女にしても、自分がだれなのか、なぜここにいるのか、まるで分ってはいないのだ。けれど彼らはお互いに愛し合っており、充実した暮らしを送っている。


主人公である若い男は、あるとき「気配」と出会う。「気配」は姿も形も見えない透明な存在だが、確かにこちらに語りかけてくる。男はその、自分よりもはるかに優れた知性を持つ存在との議論を重ねることで、宇宙について、また人間にとって「美」とは何かについての認識を深めていく。


本作で語られるのは、宇宙で最後のアダムとイブの物語だ。


男はこの、楽園のような島で、ただただ恋人と遊び戯れる。そして海を、雲を、空を、夕焼けを、月を、恋人を見詰めながら、「なぜ?」とつぶやく。なぜわれわれは、こうしたものを〝美しい〟と感じるのか?


「気配」にその訳を尋ねてみるが、「気配」は沈黙して答えない。男のプリミティブな問いは、もはや高度な知性を持つ「気配」にさえ答えることのできないものとなっていた。


本作の魅力は、何よりもまず「美とは何か」という問いの純粋さ、ひたむきさにあり、またそうした問いを支える、美しい情景描写にある。本作では詩的な抒情性と、哲学にまで範疇のおよぶ科学的言説とが一体となっているのである。「ゴルディアスの結び目」同様、ここでも極小の感情と極大の宇宙との交錯を見ることができる。


宇宙における人間の卑小さを認識することは、同時に自らの凝縮された人生に触れることだ。ぼくはかつての自分を思い出す。ぼくはあるいは、ただ怖かっただけなのかもしれない。宇宙などという得体の知れぬ虚無の中に生まれて、何も分からずに死んでいかねばならない自分の運命が。


けれど本書を読んでいれば、この宇宙の中で自分が占めている位置を、ほんのわずかにでも理解できたはずだ。人は古来より想像力によって、未知を既知へと変えてきた。神話を紡ぎ、物語を紡ぎ。そうすることによって、恐怖を乗り越えてきた。


ぼくは地球に生きる全ての人たちに本書を手渡したい。ここには宇宙と人間をつなぐ、驚異に満ちた航路図が描かれていますよ、と。

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