『猟人日記』ツルゲーネフ/不滅の肖像(岩倉文也)

文字数 2,739文字

次に読む本を教えてくれる書評連載『読書標識』。

月曜更新担当は作家の岩倉文也さんです。

今回はツルゲーネフの『猟人日記』をご紹介していただきました!

書き手:岩倉文也

詩人。1998年福島生まれ。2017年、毎日歌壇賞の最優秀作品に選出。2018年「ユリイカの新人」受賞。また、同年『詩と思想』読者投稿欄最優秀作品にも選出される。代表作に『傾いた夜空の下で』(青土社)、『あの夏ぼくは天使を見た』(KADOKAWA)等。

Twitter:@fumiya_iwakura

ぼくの不登校時代の一時期を支えてくれたのは、間違いなくロシア文学だった。ぼくは薄暗い部屋に引きこもりながら、一五〇年前のロシアのはるかな田園や、どこまでも続く曠野、また田舎屋敷に住む貴族の倦怠や虚飾あふれる社交界に思いを馳せた。ぼくは何度夢想したことだろう、心地よい田舎の小貴族となり、自然とたわむれながら無為に生きる自分の姿を! 


ぼくが殊に愛したのは、ドストエフスキーやトルストイではなく、レールモントフやツルゲーネフ、チェーホフといった作家たちだった。さらに言えば、彼らが描いた「余計者」と呼ばれる人間たちが好きだった。余計者とは、優れた教養や感性を持ちながら社会の役には立てず、ひたすらに無為と倦怠の日々を送る帝政ロシアの貴族たちのことだ。


『智慧の悲しみ』『オネーギン』『現代の英雄』『ルーヂン』『貴族の巣』『イワーノフ』『オブローモフ』……。ぼくは彼らが登場する小説を読み漁った。時間だけはたくさんあった。ぼくは何もせず引きこもり続ける自分と、ただ破滅と絶望をくり返す余計者たちの姿を重ね合わせ、毎日の無為に耐えていた。自分が貴族ではなく、また大した教養も持ち合わせていないということは、ひとまず棚に上げて。


ツルゲーネフの『猟人日記』は、そんなロシア文学の様々な魅力を併せ持つ連作短編集だ。本書は、アレクサンドル二世に農奴解放を決意させた作品として喧伝されることが多く、農奴たちの悲惨な生活ばかりを描いていると思われがちだが、実態はいささか異なる。むしろ本書は狩猟好きの語り手による自由な見聞録とでも言ったもので、無数の土地を遍歴しながら、貴族から農民まで多彩な人々との悲喜こもごもの交流の模様を、詩情溢れる自然描写を背景に描き出した作品集なのである。


本書を読んでいて、ぼくはあるひとつの確信を抱いた。本書は百年前に読んでも百年後に読んでも、またどの国に生まれて読んだとしても、読者が人である限りその価値を毫も失うことはないであろうと。しかし本書は、恐らく大多数の人にとってかなり退屈であり、まさに「退屈な文学作品」そのものであろうともぼくは思った。過剰なまでに緻密な自然描写、英雄の不在、長々しい人物紹介……。大恋愛が繰り広げられるわけでもなく、深甚な哲学が語られるわけでもない。言ってしまえば、ありふれた人間たちの姿が、延々と描かれ続けるだけである。


だが、とぼくは言わねばならない。本書ほど「人間」に接近し得た作品は、世界中どこを探してもざらに見つかるものではないのだと。本書は計二十五篇の連作を通して、あらゆる人間性の側面を網羅的に描き出している。


「郡医者」では死に瀕した少女が最期に人を愛そうとし、「わたしの隣人ラジーロフ」ではとある貴族が駆け落ちをする。「ベージンの草原」では子供たちが幽霊や妖精について夜通し語り合い、「クラシーワヤ・メーチのカシヤン」では奇妙な老人が神について語る。「狼」では孤高な森番の潔癖な姿が描かれ、「タチヤナ・ボリーソヴナとその甥」では田舎のえせ芸術家が風刺的に描かれる。また「死」では作者が見た色々なロシア人のふしぎな死に方が、「ピョートル・ペトローヴィチ・カラターエフ」では農奴と貴族の悲恋が、「あいびき」では純朴な娘と気障な下男の最後の逢瀬が、「生きたご遺体」では寝たきりになった踊り子の澄み切った意識が語られる。これらは本書のほんの一部でしかないが、どの作品も高密度な文体でひとつの悠揚たる世界が構築されている。


そんな作品の中で、ぼくが最も注目したのは「シチグロフ郡のハムレット」だ。と言うのも、ぼくはそもそも『猟人日記』をこの作品目当てに読み始めたからである。本作はツルゲーネフによる余計者を主人公とした小説の先駆けをなす作品として知られている。


冒頭、語り手はある富裕な貴族の晩餐会に招待される。やがて会もお開きとなり、貴族の屋敷に一泊していくことになるのだが、そこで「シチグロフ郡のハムレット」を名乗る男と相部屋になる。男は眠れない語り手に対し、自らの来歴を滔々と語り出す……。


この男こそまさに余計者の典型とも呼べる人物で、モスクワの大学を出てドイツ留学までしたインテリでありながら、現在は仕事に就かずただ貴族の家を渡り歩くだけの暮らしをしている。そして男は独創性を持たない人間を批判しながら、同時に自らの平凡さに苦悩しているのである。

「わたしは変わり者といわれています……だが実際は、あなたのこの従順な僕(しもべ)ほど平凡な人間は、この世にいないのですよ。わたしは、きっと、生れたのも人まねにちがいありません……ほんとですよ! 生きるのも、まるでわたしが研究したさまざまな作家のまねをしているようです、冷汗をかきながら生きてるんですよ。勉強もしましたし、恋もしましたし、結婚もしましたが、結局のところ、何もかも自分の意志ではないみたいで、義務ともいえないし、教訓ともちがうような、──そんなこと誰がわかります、──何かを実行しているみたいな気がして!」

この男の台詞に余計者のエッセンスは凝縮されている。余計者はまずなによりも、書物によって人生を体験する。そして行動力を持たない彼らは、いまだ因習的なロシアの片田舎で、とうに読み終えた物語の粗筋をなぞるかのように生活しながら、ただただ研ぎ澄まされた自意識を持て余し、鬱屈している。本書ではそんな余計者の姿が牧歌的な連作の間に差し挟まれているため、より一層異様な輝きを帯びて読者の前に迫る。


本書の中で男は、一人だけ冷め切った目で世界を見つめている。男にとってはたぶん、本書が描いてみせた様々な人々の営みも、単調な繰り返しに過ぎないのだろう。しかし語り手は馬車に乗って、その単調な世界の曠野をどこまでも駆け去ってゆく。


言葉の轍で書かれた、「人間」の不滅の肖像を残して。

『猟人日記』ツルゲーネフ/工藤精一郎訳(新潮文庫)

★こちらの記事もおすすめ

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色