『あなたのための物語』長谷敏司/物語を紡ぐ者(岩倉文也)

文字数 2,196文字

次に読む本を教えてくれる書評連載『読書標識』。

月曜更新担当は作家の岩倉文也さんです。

今回は長谷敏司『あなたのための物語』を紹介してくれました。

書き手:岩倉文也

詩人。1998年福島生まれ。2017年、毎日歌壇賞の最優秀作品に選出。2018年「ユリイカの新人」受賞。また、同年『詩と思想』読者投稿欄最優秀作品にも選出される。代表作に『傾いた夜空の下で』(青土社)、『あの夏ぼくは天使を見た』(KADOKAWA)等。

Twitter:@fumiya_iwakura

自分にはこれまで、「いま」という時間がなかったのではないかとふと思った。少なくとも過去五六年に関してはそうだ。ぼくには「過去」か「未来」しかなかった。ずっとひとりでいたせいで。ひとりでいると「いま」がなくなる。「いま」を感じることが難しくなる。遠い過去と、遠い未来しか存在しない。そんな時間感覚のなかで、ぼくは詩を書いてきた。書かれた作品のみが、わずかに「いま」の存在をぼくに伝えてくれた。


最近それが改善されつつあるような気がする。月に一度くらいは人と会うようになったおかげで、「いま」の濃縮された時間を肌身に感じることが多くなった。人と関わり、「いま」を知ることで、稀薄だった感情にも張りが出てきたと思う。


だが、そうしてまともになっていけばいくほど、現在の充実した時間が失われることへの恐怖は増大してゆく。「いま」を記述しなければ、すべては消えてしまう。詩がもっともよく記述し得るのは、現在の自分の感覚だ。だからより一層、詩はぼくにとって重要な形式になりつつある。詩は滅びゆく肉体からしか生まれてはこない。


『あなたのための物語』は人工神経制御言語・ITPの実用化に向けた研究が進められている西暦二〇八三年を舞台としたSF小説だ。ITPを使えば本来その人の脳内にはない神経配置を作ることが出来る。つまりは「悲しい」といった感情や専門的な知識、果ては人格といったものに至るまでを複製し、他人の脳内に直接再現可能であるということだ。さらにはその技術を応用し、仮想人格 《wanna be》が開発された。彼の使命は自らの創造性を示すために物語を紡ぎつづけること。彼はそのためだけに生まれた。


本作には複数のテーマが混在しており、いかようにも語り得るが、やはり特筆すべきは「死」の描かれ方だ。本作の主人公であり、ITPを開発した科学者でもあるサマンサは、三四歳にして余命半年を宣告される。死の意味は未来だろうと変わらない、一切の仮借ない喪失である。


本作の大部分は、病み衰え精神的にも安定を欠いてゆくサマンサの描写に割かれていると言っても過言ではない。病苦にもだえながら、サマンサはひたすら仕事に熱中してゆく。私生活を全て仕事に捧げてきたサマンサには、最早そうする他なかった。しかしプライドが高く、他人に容赦のない性格が災いし、遂には《wanna be》を除く全ての研究員が別の研究チームへと移ってしまう。


サマンサが不治の病に罹ろうと、研究室で孤立しようと、《wanna be》のやることは変わらない。《wanna be》の存在理由は、サマンサに自らの書いた物語を読んでもらうことだけ。それだけを目的に、彼は休むことなく物語を作りつづける。


ここには、最も純粋な形での作家の姿がある。

〈《私》は、《私》の書く物語をあなたに読んでほしい。それが《私》の存在する意味です〉

《wanna be》の物語に対する態度は、死にゆくサマンサという明確な「読者」を発見することで、徐々に変わってゆく。最初はただサマンサに認めてほしいといった単純な動機で創作していたが、やがでそれはサマンサの苦痛を和らげたいという意識に変わり、最終的にはサマンサの死に対する絶望的な認識をどう変えるかという所にまで昇華される。


また、《wanna be》の物語への理解も、格段の深まりをみせる。

〈ミス・サマンサは、《私》を、文章で〝物語〟を作る道具として、製作しました。ですが、文章は、文字が書ければ作成できます。だから小説の執筆も理屈としては誰でもできます。にもかかわらず、《私》が資料として読んだのは、誰でもできるはずのことで金銭を得ていた人々の作品群でした。だから、《私》は、小説に金銭を払うことがなぜ成り立っていたのかと考えました〉


〈これらが商品たりえたのは、言語を使って、読み手から一秒でも一瞬でも〝言語を奪う〟ことができたからだと思うのです〉

この指摘は、鋭い。人にとっては「自分が自分でありつづける」ということそのものがストレスなのだ。だからこそ人は、空白を求める。小説に限らず、あらゆる文学の本質は読み手から言語を奪い、意識に空白を作り出すことにあるとすら言えるのである。


けれど《wanna be》には決定的に欠けているものがある。それは肉体だ。死すべき体をもたない《wanna be》の言葉では、サマンサの認識を大きく変えることはできない。


ならば彼は、サマンサの〝言語を奪う〟ために、いったい如何なる行動に出るのか。


ぜひ本書を読み、その結末を見届けてほしい。

『あなたのための物語』長谷敏司(早川書房)
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