『電気サーカス』唐辺葉介/終わりに向かうパレード(岩倉文也)

文字数 2,549文字

次に読む本を教えてくれる書評連載『読書標識』。

月曜更新担当は作家の岩倉文也さんです。

今回は唐辺葉介の『電気サーカス』をご紹介していただきました!

書き手:岩倉文也

詩人。1998年福島生まれ。2017年、毎日歌壇賞の最優秀作品に選出。2018年「ユリイカの新人」受賞。また、同年『詩と思想』読者投稿欄最優秀作品にも選出される。代表作に『傾いた夜空の下で』(青土社)、『あの夏ぼくは天使を見た』(KADOKAWA)等。最新単行本は『終わりつづけるぼくらのための』(星海社FICTIONS)。

Twitter:@fumiya_iwakura

祭りとは、祭りの後の静けさを味わうためにあるのではないかと思うときがある。


ぼくは上京したての二〇一八年の夏から半年くらいの間、浅草橋にあるシェアハウスに入り浸っていた。ぼくは住んでいたわけではなく、単に遊びに行っていただけではあったが、大学の帰りなどに足繁く通っていたし、そのまま泊まっていくことや、徹夜して始発で帰るなんてこともざらだった。


今でもそのシェアハウスにはじめて足を踏み入れた時のことは鮮明に覚えている。玄関のたたきに散らばる大量のシューズ、階段をのぼりリビングに入ると、ツイッターでだけ繋がっていた人たちが、当たり前みたいにそこに居る。バランスボールが床をこする音、文鳥の動くかさかさいう物音、飼われていたチンチラの鳴き声、テレビから流れるレトロゲームのBGM。


ぼくはのぼせてしまい、当時刊行が間近に迫っていた自分の詩集などについて、夢中であることないこと喋りつづけた。そこにいるだけで気分が高揚し、ぼくはいま自分が東京にいるのだと、もう福島の片田舎に引きこもっているわけではないのだと、ひしひしと実感することができた。


あの場所は一体なんだったのだろう。寛容と非寛容が混じり合い、関心と無関心がせめぎ合う空間、ハレとケが交錯し、毎日が異常であり正常な、記憶にしか存在しない「夏休み」のように、懐かしくもけだるい世界は。


しかし「夏休み」は続かなかった。シェアハウスは解散し、人の手に渡ってしまった。あの家のにおいをひとたび嗅げば、ぼくは全てを思い出すことができると思うのだが、その願いが叶うことはもう二度とない。


唐辺葉介の『電気サーカス』を読んでいたら、当時のことがしきりと頭をよぎって仕方なかった。


本書は、まだインターネットが今ほど普及していない二〇〇〇年前後の時代に、テキストサイトを運営しながらシェアハウスで暮らす若者たちの群像を描いた、著者の半自伝的な長編小説である。


大学中退後、仕事に就いてはやめてを繰り返している主人公・水屋口(ミズヤグチ)の視点で物語は進んでいく。シェアハウスに暮らす彼の元には入れ代わり立ち代わり様々な人間たちが現れる。やがて主人公と暮らすようになる真赤(まっか)という名の情緒不安定な少女。オフ会やイベントを主催する胡散臭いが純粋な宇見戸(うみと)。同じシェアハウスに暮らす薬物依存気味の青年・畳沢(タタミザワ)など、他にも数えきれないほど大勢の登場人物が存在する。


しかし、彼らがその後どうなったのか、後日談が語られることはない。ただ舞台の端役のように一瞬だけ姿を見せ、すぐにどこかへ去ってしまう。主人公もそのことを気にしたりはしない。ただその人物の一瞬の会話や振る舞いが印象のどこかに残り、ふいに想起されたりする。その位である。


とは言えそもそも、ぼくらは普段、そうやって他人と関わっているのではないか。もちろんずっと親しく付き合っていく人もいるにはいるが、それは少数だ。あとは記憶の断片として、脳の深いところに静かに仕舞い込まれる。特にシェアハウスという人の出入りが激しい場所に暮らす主人公にとっては、それがより顕著なものとして表れたにすぎない。


本書は、ひとつの淋しさに向かって行進を続けるパレードのようなものだ。また同時に、いまをSNSで愉快に遊び暮らしているぼくらへの、予言の書でもある。


ドラック、自意識、メンヘラ、鬱病、オフ会、無職、インターネット、青春、シェアハウス……。およそ本書に散りばめられたテーマや問題は多岐にわたる。主人公には夢も意志もなく、ただそうした状況に身を投げ出すようにして、日々を無目的に送っていく。


そして「時間」という冷酷な執行者が、やがて青春の全てを刈り取ってしまう。読者が最後に向かうのは、荒涼としたこの世界の荒野である。そこには狂騒もなければ、馬鹿げた人間たちも、面白おかしいイベントも存在しない。あるのは生活。ただそれだけだ。

見たまえ。僕らのサーカスはここに終わりを告げた。猛獣もピエロも役割を終えて店じまいをしている。色鮮やかなテントは畳まれ、まっさらな跡地には風が吹いている。僕の知らない場所ではもう新しいショーが始まっているのかも知れないが、それを楽しむのは、まだそれを見たことがない、新しい人々だ。僕らの知らない、若々しい人々だ。

ぼくは慄然とする。ここで語られているのは「かつての終わり」であり、同時に「ぼくらの終わり」でもあるからだ。きっとぼくらの青春も、このように終わりを迎える。ぼくらのSNSも、こんな風に終わっていく。そのことが生々しい説得力をもって描かれている。描かれてしまっている。


だから、ぼくは。ぼくらは。このどうしようもない、避けられぬ終わりに怯えながら、「新しい人々」として生きて行かなければならない。何はともあれ、そうするより他はないのである。


せめて、とぼくは思う。いつか来る終わりが穏やかでありますように。過ぎ去った青春がなんの実をも結ばず、ただ思い出として風化していきますように。ぼくらの成し遂げた全てが、砂上の楼閣でありますように。後には夢のひとかけらも残りませんように。


せめて「いま」だけは、ぼくらの生に輝きのあらんことを。

『電気サーカス』唐辺葉介(アスキー・メディアワークス)

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