『見えない都市』カルヴィーノ/都市という虚像(岩倉文也)
文字数 1,928文字
東京にはじめて訪れた日のことを思い出す。中学三年生のとき、引率の教師とともに東京駅から東京會舘までのわずかな道のりを、ぼくは驚異の眼を見開きつつ歩いたのだった。そのときぼくは、そこが日本だとはとても思えなかった。黒く伸びた街灯、幾何学的に舗装された道路、銀色に輝く摩天楼……。まさに異国だった。
福島の家に帰り、ベッドに横になると、無数の雑踏がいまだぼくの周りを取り巻いているように感じられた。大量の足音、人間の気配が空間にこびりついている。
その日ぼくは眠れなかった。
数年後、進学のため再び東京を訪れ、あの日と同じ、東京駅から東京會舘までの道のりを辿り直してみたが、もう、そこにあの異国は存在しなかった。
その中へ入ることなく通り過ぎてゆくものにとっての都市(まち)はそれでひとつの都、そこにとらわれて出てゆくことのないものにとってはまた別の都でありますし、初めてやって来る都市(まち)が一つの都なら、立ち去って二度と帰らぬつもりの都市(まち)はまたもう一つの都でございます。
『見えない都市』の語り手、マルコ・ポーロはそう語る。あのときぼくが訪れた東京とは、いまの東京、ぼくが住んでいるこの東京とは違う、もうひとつの都市だった。だからいくら東京を練り歩こうとも、中学生のぼくが見出した異国を、もう二度とは見つけることができないのだ。
ぼくは最初、『見えない都市』をカタログのようなものだと思って読みはじめた。作者が想像した奇妙な都市を羅列し、その着想のおもしろさを翫賞するための幻想的なカタログであると。
しかしその考えはすぐさま訂正を迫られた。本書が語るのは個別の都市でありつつただひとつの都市、人々が憧れてやまない〝ここではない何処か〟なのだ。そして、ここではない何処かへ行くとは、旅人としてそこを通過するとはどういうことなのか、なぜ人はここではない何処かを目指すのか、その意味についての哲学的な考察が、研ぎ澄まされた言葉とともに作中の至るところに散りばめられている。
この言葉など、単なる都市論といった範疇を大きく逸脱し、人として、或いは創作者として生きることの本質にまで肉薄していると思えてならない。
ぼくはよく、なぜ自分がこんなにも目移りが激しいのか、なぜ共感もできないアニメや漫画や映画や、その他無数のコンテンツを熱心に追い続けるのか我ながら疑問に思うことがあった。だが先に引用した言葉を読んで、ぼくにはようやく分かった。ぼくにとってあらゆるコンテンツは、ぼくとは無関係であることにおいて意味を持つのだ。ぼくとは関係がなければないほど、その外側に立つぼく自身の存在が意識され、強化される。日々膨大な量のコンテンツを消費するのは、ただそのためなのだ。
本書を読んでいると、ここに記されている都市が、ほんとうに〝都市〟のことを指し示しているのか怪しくなってくる。なにか別のことについて、もっと違うなにかについて語っているのではないかと思えてくる。
住民のだれもが自分の知る死者に似ている都市、どこからどこまでが都市なのか分からない形のない都市、遠くからは見えるが誰も行ったことのない谷下の都市、いつ訪れても建設途中で永遠に完成することのない都市……。
「私はいつでもただ話をするだけでございます」と、マルコが言う。「しかし私の話に耳傾けるものは、自分の待ち望んでいる言葉のみを受け止めるのでございます。…(中略)…物語を支配するものは声ではございません、耳でございます。」
ぼくは本書を、〝都市〟について書かれた本とは読まなかった。しかしそれも、ただそうぼくの耳が判断したということに過ぎない。都市とは思うに透明なのだ。〝都市〟なる実体が存在するわけではなく、ただ無数の解釈のみが都市という虚像を支えている。
ぼくは夢のなかで見る都市が好きだ。行くたびに形を変え、ひとつとして同じ道はなく、つねに底知れぬ魅力と欠落を抱えている。
恐らくそれこそが、都市のもつ本当の姿なのだ。
詩人。1998年福島生まれ。2017年、毎日歌壇賞の最優秀作品に選出。2018年「ユリイカの新人」受賞。また、同年『詩と思想』読者投稿欄最優秀作品にも選出される。代表作に『傾いた夜空の下で』(青土社)、『あの夏ぼくは天使を見た』(KADOKAWA)等。
Twitter:@fumiya_iwakura